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「ちょ、ちょっとちょっと、何どうしたの?!」


「夕方のゲリラ豪雨にやられました。」


「何やってんのよ、あんたは!もう風邪引くから、早く上がって!ほら飛雄くんも!!お風呂沸いてるから入っちゃって!!」


「え、ああ、すんません。あざっす。」


「ちょ、ちょちょちょっとお母さん!自分で脱げるし、ここ玄関だし!!飛雄もいるってば!!」


「そんな格好で中に入ったら家の中がびちょびちょになるしょや!服を寄越しなさいよ!早く!!」


「追い剥ぎか!!」


「……ぷっ、く、ははっ。」



からからと鳴る実家の玄関フード、また玄関のドアを開けて、家の中に入っていけば、ドアが開く音が聞こえたらしい母が台所からパタパタと駆け寄ってきた。濡れネズミ状態のわたしと飛雄を見て驚いた声を上げる母。訳がわからないといった顔でわたしたちを見る母にびしょ濡れの原因について端的に答えると何故かわたしが怒られる始末にムッとしていると、そんなわたしには構わず、早く上がるように促しつつ、小さい子供にするかのようにわたしが着ているパーカーやらTシャツの裾に手を掛けて下から、がばり、と一気に捲って脱がしにかかった。それにギョッとして、慌てて脱がしにかかる母の手を阻止して制止の声を上げれば、また母に怒られてしまい、思わず突っ込んだ言葉に、後ろから聞こえてくる笑い声



「良い男の笑顔は素敵ねえ。」


「おい、母よ。飛雄に甘すぎませんか。」


「何言ってんのよ、わたしは世の中のイケメン全員に甘いの。間違えないでちょうだい。勿論飛雄くんは特別だけど!」


「もうやだ、この母親。」


「何でもいいけど、あんたたち二人は早く服を脱いでお風呂!」


「あ、はい。飛雄、先に入ってきなよ。」


「真緒、お前から入って来いよ。」


「わたしから入って、もし飛雄が風邪引いたらチームの皆さんに申し訳ないし、ファンに恨まれるからね。飛雄から入ってってば。」


「そんな柔じゃねえし、おれは大丈夫だから、お前から。」


「いいから、あんたたち二人一緒に入ってきなさい!元夫婦なんだからどうってことないしょ!!」


「ちょ、ちょっと!ぎゃっ。」


「うおっ。」



母は強し、という言葉をこの歳になって実感することになろうとは。いや、母というよりは、おばさんパワーというか。


譲り合いを始めるわたしと飛雄に業を煮やして、わたしと飛雄の上着を手練れの追い剥ぎの如く、あっという間に奪い去り、ぐいぐいと背中を押して洗面所に二人放り込まれる体。ばたんっ、と勢い良く閉められたドアにびくりと肩を震わせ、ぎぎぎ、と油を差していないロボットのようにぎこちない動作で後ろを振り返り、飛雄を見る。飛雄はというと、ぼりぼりと頭の後ろを掻きながら「相変わらず、お前の母ちゃんパワフルだな」と言って、ドギマギとするわたしとは裏腹に特段気にする様子もないらしい。変なところ神経質なくせに、どうしてこういうところは鈍感なんだ、この男は!

そりゃあ、元夫婦ですから別に今更隠すようなところは一つもないですけど、ないですけども、ね。勿論、飛雄と二人一緒にお風呂に入ったことだってある。確かにあるが、今はそういう関係じゃないし、一緒に入るのはおかしいと思うわたしがずれているのか…?あれ、もうよくわかんなくなってきた。ぐるぐるする思考に頭を抱えて唸り声を上げれば、そんなわたしのところにずかずかと歩み寄ってきて、わたしの腕をグイッと掴み、引き寄せる飛雄の手



「お前、何唸ってんだよ。早く入って来いって。」


「へ。」


「おれはここで待ってるから先に入って来い。」


「え、でも。」


「何だよ。じゃあ、一緒に入んのか?」


「ぐっ…入らない、です、け、ど。でも、それだと飛雄が。」


「ぐだぐだうるせえな。いいから入って来いって。普段鍛えている分、お前より柔じゃねえから。」


「はあ?!」



飛雄の口から放たれた「お前より柔じゃねえから」の一言にカチンときて、くるりと踵を返し、飛雄の背後に回った。わたしの行動に理解が追いついていない飛雄をいいことに、背中から腕を回し、飛雄の履いていたチノパンのフロントフックを外して、チャックを下に下ろすわたしに飛雄が「は?ちょ、おまっ」と慌てた声を上げて後ろを振り返る。それに構わずに、パンツとチノパンの両方に手をかけて、一気にそれらをずり下げて、背中をどんと押して「体鍛えてたって風邪引いてるかもわかんない馬鹿よりマシですから!どうぞお先に!!」と言って湯気がもくもくと立ち込める浴室に閉じ込め、はあ、と溜め息を一つ

何やら浴室から文句が聞こえてくるが、それら全てをまるっと無視して、代わりに「ちゃんと湯船に入って、100数えるんだよ」なんて返しながらやれやれと肩を竦めた。待っている間、バスタオルで水気ぐらいは取っておこうかな、と浴室に背を向け、ごそごそとバスタオルを取り出して、飛雄の分は脱衣カゴの中に放り込み、自分の分で髪の毛についた水滴を染み込ませる。ああ、そうだ。飛雄の服も洗濯機に突っ込んでおかないと、と先程脱がしたパンツとチノパンを持ち上げた瞬間、チノパンのポケットから震えながら滑り落ちてくる携帯電話。拾い上げようとして、見えたディスプレイの名前



「星野、芹香……。」



グッと握り締める携帯電話。この人の存在を忘れていた。何故今まで忘れていたんだろうか。そうだ、飛雄にはこの人がいるはずなのに、何であんなこと。よくわからない。あの後も、特に話もなかったし。この人とは本当はどういう関係なんだろう。でも、キスはしていたな。彼女の方は付き合っているって言っていたし、それだけじゃなくて、相性がどうとかって…それは、つまり、そういうことはしていた、ということ、では?嘘を吐いているようには見えなかった。洗面所にタオルを忘れていったとか、イタリア行きを半年後に先延ばしにしたことも知っていたぐらいだ。必要なことですらあんまり自分のことを話さない飛雄が話したということは、深い仲、ということなのではないの?

だってテレビであんなこと言わないでしょ、嘘だったら。それに週刊誌の記事。詳細に書かれていて、どう見たって本当っぽい。ぐるぐると思考を巡らせても、わたしが答えなんて持っているわけがないから、当たり前にゴールなんて辿り着けなくて。考えを巡らせている間に、止まる着信。飛雄に伝える前に切れてしまった、と罪悪感に苛まれていると、タイミング悪く、がらりと開く浴室のドア。見上げた先に飛雄が仁王立ちで立っていて慌てて目を逸らす



「何してんだよ。」


「え、あ、その、ごめん、彼女から、電話…。」


「……ああ。いい、放っておけ。それより、タオルくれ。」


「あの、飛雄。」


「あ?」


「…服は、お父さんの服があるから、お母さんに持ってきてもらって。飛雄の服は洗濯機に入れちゃうね。」


「お、おお。」


「これ、返す。」


「真緒?」



握り締めていた携帯電話をバスタオルとともに飛雄に押し付けて、浴室に逃げ込む。戸惑ったような飛雄の声が聞こえたが無視をした。振り返らずに閉める浴室のドア。逃げ込んで、自分が服を脱がずにここに入ってしまったことに気づいて、やってしまったと項垂れる。これでは逃げたとバレバレではないか。今、服を脱ぎにここを出ていくのは恥ずかしい。しかし、当たり前だが脱がないとシャワーも浴びれない。どうしようか迷いながら握っていた浴室のドアの取っ手。グッと力を込めて握り締めれば、ドアの向こうで「はあ」と溜め息が聞こえて、こちらに近付く足音。うわ、と思っている間に、がらりと開くドア。目の前に広がる肌色一色にギョッとして、体が硬直した



「真緒。」


「え、ちょ、ちょちょちょっと。わたし今からお風呂にっ。」


「服着たまま入んのか?珍しい奴だな。」


「それは、その。」


「おれはお前のことだけが好きだって言っただろ。」


「は。」


「どうやったら信じてくれんだよ。」


「何、言って。」


「もう嫌なんだよ。」


「え?」


「お前にそういう顔されんの。」


「飛雄…。」



放たれた言葉と頬を擦るその手の平の熱さに、胸がひどく熱くなって、喉元で溜め込んだ言葉の代わりに涙が溢れた。



膿んだ言葉で窒息する
じゅくじゅくと傷を増やして、吐き出すこともできずに。


(何泣いてんだよ。)
(ごめん、違う。)
(真緒?)
(違うの、これは。あの、ごめん。)
(謝んなって。)


肩に置かれたきみの手が、わたしの体を抱き寄せる。背中に回る腕。撫でつけるように髪の毛を何度も梳く手のひら。何も変わらない、きみの手のひらの熱さ。わたしの髪の毛を撫でる優しい手。それなのに、わたしの心だけが変わってしまったようで。きみの言葉を信じたいと思う。信じたいと思うのに、チラチラと脳裏をチラつく影がきみを信じさせてくれない。長年付き合っていたきみの言葉ではなく、彼女の言葉を信じるのか、と言われたらそれまで。言葉にしたら、きっときみをまた失望させてしまう。わたしは知っているから。わたしの放つ言葉で、たった一言できみを失望させてしまうことを。そう思うと、胸で燻ぶる言葉は口から吐き出されることはなく、ただ嗚咽になって排水溝に流れていった。

あとがき


大人になると、素直に気持ちを口にできることがなくなります。


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