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雨水に浸された足先から体の芯が冷えていく。それでも、掴まれた手だけはひどく熱を持っている矛盾。聞きたくない、と塞いだわたしの手を飛雄が握り締めて動かない。飛雄の方を振り返ることが出来ずに、わたしたちのすぐ横を通り過ぎて行くバスを横目でただ見送った。次に来るのは、いつだろう。田舎のバスだ。一時間に一本の可能性だってある。もう辺りはすっかり暗くなって、人気も、光もない。雨粒がアスファルトを叩く音だけがその場を占拠して、わたしの鼓動を乱していった



「……待ってくれ。」



沈黙を破って吐き出された言葉。まるで懇願しているかのようなその言葉の響きに、胸が痛くなる。力いっぱい握り締められたわたしの手の骨が軋んで音を立てた。グッと握り込んで、離してくれない。振り払うことも、その手に答えることもできずに、口の中に溜まった言葉とともに固唾を飲み込む。硬直するわたしに構わず、一歩、飛雄が距離を詰める。更に一歩踏み出したその足が、水溜まりの水を跳ねて、わたしの足に当たった。冷たくて、痛い足先。だから、足が動かない。それは体のいい言い訳だって自分でもわかっている

振り返る、勇気がない。本当は飛雄と向き合う勇気がないだけ。臆病で、とても卑怯だ。はっきり言われるのが怖い。飛雄の紡いだ言葉の先に、何があるのか知るのが怖くて、飛雄の口を塞いだ手。今更何を話す必要があるのだろうか。だって、わたしと飛雄は関係がないんでしょう?だって、飛雄にはもう彼女がいて、幸せで、目標だった海外でプレーをするためにイタリアに行って。だって、だって、だって。


乱されてばかりで、もう疲れた。


関係ないとか突き放したくせに、どこで知ったのか知らないけれど、宮さんとキスしたことを嫉妬したみたいに怒ったり、彼女がいるのに、こうして抱き締めたり、手を握る。わたしの心も矛盾ばかりだけれど、飛雄の行動も矛盾ばかりで訳がわからない。乱されてばかりで、疲れる。浮上した心が、突き落とされるあの感覚が、わたしを臆病にさせる。頭を過る、出ていった飛雄の背中。「失望した」と言って、出ていった姿。週刊誌で見た記事の衝撃と、彼女とキスをしていたあのワンシーンのこと。もうあんな思いはしたくない。もう、泣きたくない。こんなことで、胸が痛くなって、乱されて、苦しくて、呼吸が上手くできなくなるような、そんな思いはしたくない



「バス、行っちゃったじゃん。」


「真緒。」


「どうしよっか。タクシー呼ぶ?あ、でも、こんな状態、じゃ座席濡れるか、ら乗せてくれない、かな。」


「真緒!」


「お母さ、に、来てもら、方が、いい、かな。」


「……真緒。」


「あー、寒い。足、べちゃべちゃ、で、震えっ。」


「真緒。」



引かれる手。水が、跳ねた。すっかり冷えて動かなかった足が、引かれる力に驚くほど素直に従い、いとも簡単に動く。おでこをぶつけて、少しだけ揺れる脳味噌。背中に回された飛雄の腕がわたしの体を抱き竦める。回された腕の先の手が、わたしの後頭部に添えられて、くしゃり、と髪の毛を乱した。わたしの肩口に埋められた飛雄の頭。飛雄の髪の毛からぽたぽたと落ちてくる水滴がわたしの肩口を濡らして、染みを作り始めた

たぶん、わたしの体が冷えているから、だから突き放すことができないんだ。こんなにも体が冷えてしまったから、指先にも、手にも力が入らない。飛雄の体を押し返すこともできずに、直立不動。されるがままで、逃げられずにいる


また、勘違いをしてしまう、のに。


早く離れないと。わたしはこの腕に勘違いをしてしまう。あの日と同じ。イタリアに行くと言った飛雄に縋ってしまった日と同じように、この腕に勘違いをしてしまいそうで、離れようと心はもがくのに、体が思うように動かない。わたしの心なのに、わたしの体なのに自由になってくれない。ほら、じわりと歪んでいく視界。そのもどかしさに思わず俯き、下唇を噛む。わたしの、悪い癖



「何で、泣いてんだよ。」


「……っ。」



呆れたように、それでいて優しい声音で落とされた飛雄の言葉に「泣いてなんかないよ」と、そう答えたかった。でも、そんな言葉は一音も紡げずに、ただ、おでこを飛雄の胸にぐりぐりと押し付ける。「痛えな」と文句を言いながらも、笑ってる飛雄。何だ、何でそんな余裕な感じなの。飛雄なんか、さっきまで必死の形相だったのに。わたしだけが心乱されて、すごく腹立たしい


わたしばかり、泣かされて、馬鹿みたい。


頬を伝っていく涙を、濡れている飛雄のTシャツに染み込ませる。泣いているってバレていても、それを認めることはできずに、まるで自分に罰を与えるかのように唇を噛んで。全部見透かしているとでも言いたげに、わたしの頭をがしがし撫でる不器用な飛雄の手。嫌になっちゃう。その手、嫌いだよ。髪の毛も、わたしの心も乱していくから

そうして頭を撫でられて、数分。ゆっくり、離れる手。その手がわたしの肩に添えられて、少しだけできる距離。きっと今ぐちゃぐちゃだから、顔を見られるのが嫌で、俯かせていた顔を意地悪く上を向かせるように両頬に添えられた手。強い意思を持って俯かせた顔を飛雄の手がいとも簡単に上向かせ、わたしの顔を覗き込んで「すげえ、顔」なんて言って笑った。だから嫌だったのに、と眉間に皺を寄せながら唇を尖らせるわたしに「不細工だな」と追い討ちをかける飛雄の言葉。誰のせいでこんな顔になったと思っているのか、と目の前にある飛雄の胸元を殴ろうとした手を取られて、作った握り拳をやんわり解き、指を絡めて握り込まれる



「逃がさねえよ。」


「逃げたくても、しばらくバスが来ないよ。飛雄のせいで。」


「ハハッ、確かにな。」


「笑い事じゃないんだけど…風邪を引いたら、飛雄のせい。」


「看病はおばさんにしてもらえ。」


「ひどい。」


「もしおれが風邪引いたら、真緒が看病しろよ。」


「何で!嫌だけど!!大体飛雄には彼女が。」


「…真緒。」



頬を擦る飛雄の手。すっかり冷え切ったその手が何度かわたしの頬を擦って、少しだけ熱を持ち始めた。わたしの言葉を遮って、落とされた飛雄の声。その響きが耳の奥に響いて、胸を熱くする。開かれる飛雄の口を塞ぐためのわたしの手は握り込まれて、阻止。しまった、と思った時には放られる言葉たち



「今も昔も、おれが好きなのは真緒、お前だけだ。」


「………は?」


「だから、おれに時間とチャンスをくれ。」


「いや、ちょ、ごめん。」


「あ?何だよ、ごめんって。」


「あ、そうか。わたし熱あるのかも。風邪引いた。今、風邪引いたわ、これ。」


「はあ?」


「熱があると思うんだ。だって、飛雄の言ってることが理解できない。」


「何でだよ。理解しろ。」


「できるわけないじゃん!馬鹿なの?!」


「はあ?!理解できねえんだったら真緒が馬鹿なんだろ!ボケ!!」


「うるさいな!これはたぶん熱があるせいで…!!」



ぐいっと引き寄せられる両頬。視界いっぱいに飛雄の顔。こつん、とおでこに当たるひんやりとした肌の感触。にやりと意地悪く笑う顔に、心臓が痛いくらい跳ねる



「熱、ねえな?」


「な、なな何すんのっ。」


「熱あるとか言うからだろうが。ねえじゃん。あ、待て、なんかちょっと熱いか?」


「ううううるさいよ!もう離れて!!」


「やだ。」


「はあ?!も、なんでそんな、力強…っ。」


「真緒。」



わたしのおでこから飛雄のおでこがゆっくり離れて、傾く顔。お互いの冷たい鼻先がぶつかって、唇が重なるまで、あと2センチ。



あとの言い分はキスの後で。
聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるけれど、今は。


(ぶえっくしゅ!)
(……真緒。)
(あ、ごごごめん。わざとではないよ!わざとじゃないから!!)
(汚ねぇな!おい、真緒…。)
(いや、だからごめん…って、近い!近い!!)


意地悪な笑みを湛えてわたしを見下ろすきみの顔が迫ってくる。急接近してくる顔にストップの声を上げ、手で唇を押さえてガードすれば、不満げな顔で「何すんだよ」と一言。何すんだよ、だ?それはこっちの台詞だよ!何とか体を捩ってきみの手から逃げ出そうとするも、びくともしない体。何でこんなに力強いのかな、どいつもこいつも!何とか一歩だけ後退した際に店先に下ろされたシャッターが背中に当たり、がしゃん、と音を立てる。交錯する視線。真っ直ぐわたしを見下ろすきみの瞳に居た堪れない気持ちになって、その体を軽く押しやりながら「…困らせないでよ、お願いだから」と放ったわたしの言葉にきみは小さく溜め息を吐いて、雨脚の弱くなった空を見上げた。

あとがき


飛雄たちはみんな力強そうだよね。
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