75

「バス、来ねえな。」


「…そうだね。」


「つーか、お前、宮さんと帰るんじゃなかったのかよ。」


「宮さんが気を遣って泊まるように勧めてくれたの。明日、帰るつもりだし。」


「ふーん。」


「飛雄こそ、こんな時間まで大丈夫なの?明日も練習、あるでしょ。」


「明日はオフ。」


「え、そうなの。」


「今日はおれもこっちに泊まる。」


「…そっか。」


「おう。」



バス停前で二人、バスを待ちながら何となく気まずさを感じつつも交わす会話。見上げている空は綺麗な橙色に染まっている。ちらりと手にしていた携帯電話に視線を移して、ディスプレイを確認してみれば現在の時刻は16時52分。そろそろバスが来てもいいのに、さすが都会とは違い、田舎のバスだからか、なかなかに時間にルーズで16時45分発なのに来る気配が全くない。


無理にでもお母さんと帰れば良かったかも。


エレベーター前で飛雄と偶然会い、病室に二人で戻れば、久々に飛雄に会った母が興奮気味に飛雄に話しかけて、それに圧倒されつつ父も交えて他愛もない会話を少し。気づけば西日が病室に差し込み始めていたので「暗くなる前にそろそろ帰ろうか」と声を掛けて立ち上がるわたしに母が「あんたはバスで帰ってよ」なんて。急に放られた言葉に「え、車じゃないの?」と聞いてみれば母は「社用車貸してもらったのよー。だから職場に返さないといけないし、あんた先に帰ってて」と言われて、腑に落ちないなと思いながらも仕方なく自分を納得させて頷いた

飛雄は車ではなく、公共の交通機関を使ってここまで来たらしく、父から「もう暗くなるし、飛雄くんも一緒に帰りなさい」なんて念押しをされて、こうして二人でバスを待っているのだが、本当にバスが来る気配がない。早く来ないとこの辺りは街灯も少なく、真っ暗になるし、風だって心なしか冷たくなってきたように思う。思わず溜め息が一つ零れ落ちて、ハッとしたように隣にある顔を見上げれば、グッと眉間に皺が寄ったのが見えた



「…そんなにおれと一緒にいるのが嫌なのかよ。」


「いや、ごめん、あの、これは違うんだって。飛雄と一緒にいるのが嫌とかじゃなくて、なんていうか、バス、全然来ないからさ。」


「確かにバスは来ねえな。」


「こんなに遅れるもんなのかな。道混雑してる訳じゃなさそうだし…。東京だと、あんまりないよね。」


「……あ。」


「え、何。」


「16時45分って平日ダイヤじゃねえか。」


「あっ、本当、えっ?」


「あ?」


「うわっ?!」



急に、ぽつり、と頬に当たった冷たい感触を皮切りに、ザーッと急に音を立ててバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。見上げている空は綺麗な橙色なのに。急に降ってきた雨に、全身ずぶ濡れになるし、バスの時刻は見間違えるし、色々重なって最悪だ。自分のタイミングの悪さを恨めしく思いつつも、どこか雨宿りできるところを探さなくては、と辺りを見渡すが、開けたところにあるこの病院の周りには特にこれといって雨宿りできそうな場所がない



「真緒、こっち。」


「わっ。」



急に飛雄に握られた手に驚くのも束の間、グイッと引き寄せられて、そのまま飛雄に手を引かれ歩き出す。急に歩き出すもんだから足が縺れそうになるわたしをちらりと一瞥して「相変わらず歩幅がちっせえな」と言われてムッとする。いつもいつも飛雄はそう言うけど、わたしが小さいのではなく飛雄が大きいのだ。それに今のは急に歩き出されて、足が追いつかなかっただけで、歩幅は関係ないはずだ。前を歩く飛雄の背中に文句をぶつけてやろうとしたところで、止まる足。これまた急に停止するもんだから、飛雄の背中を追いかけていたわたしは強かにその背中に鼻をぶつけて、悶絶。顔に滴る水を拭いながら振り返った飛雄が「お前何してんだよ」なんて呆れた顔をしていて、遣る瀬なさに涙目で睨みつけた



「あーっ、もう痛い!急に止まらないでよ、馬鹿!」


「あ?!馬鹿って何だよ、ふざけんな!真緒が勝手にぶつかって来たんだろうが!おれだって背中痛えよ、ボケ!!」


「それこそ不可抗力だよ!そんなこと言ったってね!そっちが急に、へ、っぶしっ!」


「……おい、大丈夫か。」


「ごめん、大丈、ぃっ、くしっ!うー、寒っ。飛雄は大丈夫?」


「大丈夫じゃねえ。」


「え?うわ。」



シャッターが下ろされた店先の前。何とか雨を凌げる程度の僅かなスペースに2人身を寄せて怒鳴り合いをしている途中、ぶるりと寒気がしたかと思えば、次いで口から転がり出たくしゃみ。わたしのくしゃみに少し冷静さを取り戻したらしい飛雄が心配げにわたしを見下ろして「大丈夫か」なんて聞いてくるもんだから、わたしもその言葉にハッとして冷静さを取り戻し、謝罪と一緒に大丈夫だと頷いた。雨に濡れた体が吹く風に撫でられて、瞬く間に体温を奪っていく。飛雄もずぶ濡れで、見上げた顔に大丈夫か尋ねれば、降ってきた返答に戸惑うわたしを他所に、繋がれたままの手を引かれて、背中に当たる温もり


あれ、あれ、ちょっと待てよ、何だこれ。


飛雄の腕がわたしのお腹に回り、ぎゅう、と痛いくらいに抱き竦められる。どうすればよいのかわからず、わたしの手も巻き込んで後ろから抱き締められているために抵抗できない。わたしの肩口に埋められた飛雄の顔。濡れた髪の毛がわたしの頬に貼り付き、それが少し擽ったくて、心臓がうるさいくらいにドッドッと音を立てて脈打ち始める。そんなわたしの心臓に追い討ちをかけるように、耳元に落ちる飛雄の吐息で肩がびくりと小さく跳ねた



「ちょ、ちょっと、え、ちょ、飛雄、さん…?」


「寒い。」


「いや、あの、それはそうだとは、思うんですけど。えっと、これは、ちょ、ちょっと。」


「ちょっと、何だよ。寒いんだよ、こっちは。あ?何か文句あんのか。」


「何で喧嘩腰…誰かに見られたら、困る、じゃないですか…。」


「誰もいねえし。」


「見えないだけでいるかもしれないじゃん。ここ店先ですし…いや、ていうか、そういう問題でもないし、さ。」


「別に見られても困らねえから。」


「いやいや、困るよ。だって、その、飛雄には彼女が、ぐえっ。」



強過ぎる力に、内臓が潰れるかと思った。ぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱き締められて、呼吸困難。思わず変な声を出したわたしを飛雄が「お前は本当に色気がない」と言って屈託なく笑う。その顔に沸々と蘇ってくる想い。思わずドキッとしつつも、ムッとする複雑な心


いやいや、誰のせいで…!


出したくて出したわけじゃない変な声の原因は飛雄だというのに、それを棚に上げて、わたしに色気がないとかふざけてやがる。しかも、わたしの言葉はまるっと無視をして、短く切り揃えられた飛雄の爪が、わたしのお腹に食い込んで。「痛っ!もー苦しい、んですけど!」と僅かに動ける範囲で何とか抵抗を試みてみるものの、何の意味もなく、押え込まれて終わり。Tシャツに薄手のパーカーを羽織っているだけの薄着で雨に濡れてぴたりとそれらが肌にくっついているからなのか、密着すると素肌に触れているような体温を感じてぞわりと背筋を這う何か。今の状況の居た堪れなさにごくりと生唾を嚥下する。はあ、と飛雄が肩口に落とした溜め息が平常心、平常心、と心の中で唱えるわたしの思考をいとも簡単に奪っていった



「ちょ、ちょっと。も、無理っ。」


「真緒。」


「ひえっ。ちょ、やめ、擽ったいって、ば!や、知ってるでしょ、わたしが耳だめなんだって!」


「いいから、聞けよ。」


「ちょ、いいからって。」


「こんな機会、ねえんだよ…頼むから。」


「…と、びお?」


「おれ、おれは…。」



激しくアスファルトを叩きつける雨音が、やけに遠くで聞こえた。その代わりに、わたしの心臓の音がうるさいくらいに耳に響く。



「おれは、お前が…真緒が好、んむ。」


「……やめて。聞きたくない。」



緩んだ飛雄の手から逃れて、くるりと振り返り、塞ぐ飛雄の口。続きの言葉を潰すようにわたしの手で塞き止めて、首を振る。雨に濡れた飛雄の顔が、泣きそうに歪んだように見えた。



臆病者の手のひらで。
塞き止めた、きみの言葉たちが刺さって、ちくりと痛みだす。


(…バス、来たよ。)
(ああ…。)
(こんなに濡れてたら、乗車拒否、されちゃうかな。)
(…座んなきゃ、大丈夫なんじゃね。)
(そう、だね。)


タイミングが良いのか、悪いのか、バスがやってくる。気まずさで話を逸らすように馬鹿みたいに話掛けて。放つ言葉に、きみは感情の籠っていない言葉をただ返す。機械みたいに。バスのライトを雨粒が反射する。早くバス停に行かないとバスに乗り遅れてしまう。きみの腕の中から抜け出して、歩き出そうと一歩。履いていたスニーカーが泥を跳ねて、止まる。歩みを止めさせられたと言った方が正しい。諦め悪く、握られた手がわたしの足を止めさせた。キュッと指を絡めて握り締められた手。雨粒を弾きながらわたしときみの横をゆっくり通過していくバス。光を失って、辺りが暗闇に塗れる。水溜まりに突っ込んだままの片足。じわりと染みていく雨水がわたしの足先を冷やしていった。

あとがき


珍しく、今回の話のラストはかなり悩みました…うじうじしちゃってごめんね。

back to TOP