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「あ…宮さん、ごめんなさい。わたし、ぐんぐん牛乳買ってくるんで先に戻ってもらってもいいですか?」


「え?ああ。飛雄くんの。お金はあるん?出そか??」


「ぐんぐん牛乳を買えるぐらいの小銭はあるので大丈夫です!病室に戻ったらコーヒー代払いますね。」


「ええよ、それぐらい。自販機に寄るだけやろ?おれも一緒に行くけど。」


「あ、えっと…お手洗いも行きたいですし、先に戻っててください。待たせちゃうのも悪いので。」


「ん、了解。そんなら、ほな、また後で。」


「はい。あ!お金はちゃんと払いますからね!!」


「ははっ。あー、はいはい。」



宮さんに買ってもらってしまったカフェラテを片手に、エレベーターでお父さんの病室がある階まで。待ち合いロビーの奥に設置された自販機を見て、そう言えば飛雄にぐんぐん牛乳を買ってきてほしいと言われていたんだったと思い出し、宮さんに先に戻ってもらうように声を掛けて、エレベーター前で別れる。飛雄がいるけど、お父さんと初対面の宮さんが病室にいるのは気まずいだろうから、急いで戻らなくちゃと自販機まで早歩きで近付いた



「あ、売り切れ…。」



まさかのぐんぐん牛乳、大人気か。みんなカルシウム不足なのかな。


カルシウム不足と言えば、飛雄はあれだけぐんぐん牛乳飲んでいるのに何であんなに怒りっぽいんだろうか。まあ、人のことを言えた義理ではないんだけどさ。そう言えば、高校生の時にぐんぐん牛乳とぐんぐんヨーグルトで悩んで5分くらい自販機の前で鎮座していたことがあったっけ。よくボタンを二個同時押しして、落ちてきた方を飲んでいたっけな。どうしても決めきれない時は、わたしが片方を買って、はんぶんこして飲んだこともあった。何だかちょっと懐かしい

売り切れだし、どうしようかな。エントランスの方にも自販機があったけれどそこまで買いに行く?飛雄のぐんぐん牛乳のために?どんだけ、だ。宮さんを一人にするのは心苦しいし…何より母から質問攻めにされないか心配だ。悩ましい



「こだわり強いからなあ…。」



珍しく悩むことなくぐんぐん牛乳をご所望のようだし、買ってこないと不機嫌になるかな、と買ってこなかった時の飛雄を想像して、やれやれと肩を竦める。仕方ない、とポケットから出した小銭を握り締めて、エレベーターへ逆戻り。すぐにやってきたエレベーターに乗り込んで、1階ボタンを押下すれば動き出すエレベーター。ぼんやりと階数を表示するディスプレイを見つめていれば、数分もしない内に目的階に到着。開くドアから脱出すれば、真っ直ぐ歩いて、突き当たりを右に曲がる。そのまま道なりに進めば、見えてくる携帯電話を使用できるエリアの横に自販機コーナー

並んだ自販機の中から紙パックの自販機を見つけて、ぐんぐん牛乳を探せば、すぐに見つかるお目当てのそれ。お金を入れて、ボタンを押そうと伸ばしたわたしの手より先に、背後から伸びてきた指先が目的のボタンを押す。人気のない廊下に、がこん、という音を響かせて、吐き出されたぐんぐん牛乳。それを取り出し口から取り出す手を辿って見上げた顔にいつまで経っても学習しない心臓がうるさいくらいに鼓動を刻んだ



「なっ、え、び、びっくりした。」


「おれのだろ。」


「いや、そ、そうだけど。え、何、待ち切れなかった?そんなにぐんぐん牛乳飲みたかったの?」


「そんなわけあるか、ボケ。たまたま通りかかっただけだ。」


「たまたま…?」


「電話。」


「ああ、電話、ね……。」



持ち上げられた携帯に状況を察する。お目当てはこの先にある携帯電話使用可能エリア。お相手は彼女か。ちくり、とまた胸が痛くなって、彼女だと飛雄の口から聞かされるのは何となく嫌なわたしは、それ以上何も聞かずにただ口を噤む。塞き止める言葉に、俯きながら下唇を噛み締めれば少しだけピリッと痛みが走った。目的は達成したし、いつまでも宮さんを一人にしておくわけにもいかないから早く病室に戻らないといけないって頭ではわかっているのに、口を開けば違う言葉が出てきそうで押し黙るわたしの頭上に落ちてくる溜め息一つ。その息の近さに思わずびくりと跳ねる肩



「真緒。」


「と、びお…?」



わたしの頬に当たる、飛雄の指の背。軽く擦って、すぐに離れていく。思わず顔を上げて、幾分高いところにある見つめた。そっぽを向いている顔。唇を尖らせながら「何だよ」と言う。いや、それはわたしが聞きたいんですけどね、と思いながらも、先ほど高校のことを思い出していたからか、交錯する昔の飛雄の姿に、懐かしさが込み上げて思わず笑ってしまった


ああ、そう言えばいつもこうして確認してたっけ。


言いたいことがあっても、言えない時に俯いて下唇を噛んでしまうのはわたしの悪い癖で。喧嘩をしたり、何かあった時に上手く言葉にできず、こうしてよく喉元で吐き出したい言葉を塞き止めていた。その度に飛雄は、わたしが泣いているんじゃないかっていつも指の背で頬を擦って確認してたな。あれ、じゃあ、わたし今、泣きそうだと思われてたってこと?それは何だかちょっと、恥ずかしい



「何笑ってんだよ。」


「大丈夫だよ。」


「は?何が。」


「……電話、してくるんでしょ。」


「おう。」


「彼女、に?」



開いた口で、結局自分の傷を抉るように聞いてみたりして。首を傾げながら見上げた先の飛雄が驚いたような表情をして、次いで、何故かわたしの頭をぽんと一撫でしながら口を開く



「違ぇ、姉貴。」


「え、美羽さん?珍しいね、飛雄が美羽さんに電話なんて。」


「…まあ、ちょっと、な。」


「じゃあ、美羽さんによろしく言っておいて。上京してから全然会えていなかったし。」


「ああ。」



飛雄のお姉さんの美羽さんとは時々メールや電話をするだけで全然会えていなかった。こっちにいる時は、一緒に買い物をしたり、デートの服を選んでもらったり、髪の毛をセットしてもらったりと本当の妹のように可愛がってもらっていたのに、上京してばたばたしている間に離婚をして、わたしからは連絡出来ず仕舞い。思い返せば最後に会ったのは、飛雄との結婚式、だったかな。そうだ、ヘアメイクを美羽さんにやってもらったのが最後だ


美羽さんに相談していたら、何か変わったのかな…。


なんて、今更そんなことを思っても仕方がないのに。きっと連絡をしたら、美羽さんは相談に乗ってくれたと思う。美羽さんはさっぱりとした性格の姉御肌な人で、飛雄と喧嘩した時に話を聞いてもらったり、仲裁に入ってくれたりしていた。なのに、何故か飛雄が出ていったあの時は美羽さんに相談できなかった。まあ、飛雄との喧嘩を相談していたあの頃とは立場も状況も違うし、なかなか連絡しづらかったというのがあるんだけれど。美羽さん、芸能関係の仕事がたくさん入っていて忙しそうだったし



「わたし、そろそろ戻るね。飛雄も電話しなくちゃいけないでしょ?それに宮さん、一人だと可哀想だし。あの母のことだから宮さんを質問攻めしているかもしれない…やばい、早く戻らなくちゃ。」


「……真緒。」


「ん?わっ。」



久しぶりに聞いた美羽さんの名前につい昔のことなんかを思い出したりして、すっかり忘れてしまっていた。宮さんをお父さんの病室に一人残してきてしまっていることに。きっと気まずい思いをしているに違いない。それにあの母のことだ。宮さんを質問攻めにしてしまうことが安易に想像できて、急いで戻らなくちゃ、とくるりと踵を返すわたしを呼び止める飛雄。何、と振り返ろうして、掴まれる腕。グイッと引き寄せられて、壁に掴まれた手首を押し付けられる。見上げた先の飛雄の顔。眉間に皺を寄せながら、わたしを見下ろし、逃げ道を塞ぐようにわたしの顔のすぐ横に手を着いた



「飛雄…?え、何、痛い、んだけど。」


「真緒、お前さあ。」


「何?飛雄、何か怖いし…痛いってば。手、離してよ。」


「宮さんとどこまでやった?」


「は?どこまでって何。」


「……キス、なんてさせてんじゃねえよ。」


「え?」



近付く飛雄の顔に、影がより一層濃くなった気がした。



ただ、影を落とす。
ゆっくり、と近付いて、じわりと飲み込むように。


(……隙だらけなんだよ、ボケ。)
(痛っ!)
(気をつけろよ。)
(は?痛っ、痛いって!)
(さっさと戻れ。)


キス、されるかと思った。思わず硬直した体。わたしの顎を捉えた手が唇に伸びて、飛雄の親指の腹がゴシゴシと強くわたしの唇を擦り、その力の強さに涙目になる。数回擦った後、解放される手首。ジンジンと熱を持った手首を押さえながら、ヒリヒリと痛む唇を尖らせて「何をするのよ!」と文句を言うわたしの肩を押し、わたしの文句はまるっと無視をして背を向け歩き出す飛雄。ぶつけ先のなくなった文句をごくりと飲み込む。まだ熱を持って、ヒリヒリと痛む唇に親指を這わせて、振り返ってくれない背中に小さく「馬鹿」とぶつけた言葉は、誰もいない廊下の奥に吸い込まれて消えていった。

あとがき


美羽さんは姉御って感じだよね。それにしても呼び方わからん。

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