72 side KAGEYAMA
がらりと開いた病室のドア。ごくりと唾を飲み込んで、中へ一歩。開かれたカーテンの奥に設置されたベッドに佇む姿に、ホッと息を吐き出した。「……お久しぶりです。」
「ああ、飛雄くん。悪いね、妻が迷惑を掛けたみたいで。」
「いえ。お義父さ…おじさんが、生きてて安心しました。」
「ははっ。まあ、打ち所が悪ければどうなるかわからなかったけれどね。」
「しばらく仕事は休みっすか。」
「そうだね。腕、こんなんだしねえ。」
そう言って、おじさんは三角巾で吊り上げられた腕を掲げ、毒気のない顔でにへらと笑う。その顔は、真緒にひどく似ている。性格は似ていないけれど。どちらかと言えば、真緒の性格はおばさん似のような気がする。そう言えば、中学の時に、初めて真緒の家にお邪魔して、おばさんに質問攻めにされたことがあったな。根掘り葉掘り聞かれて、普通に受け答えするおれに真緒がぺこぺこ謝っていたのがどこか懐かしい
「おばさんは…?」
「ああ、大丈夫。職場に連絡入れてくるって言ってたから、しばらく戻ってこないよ。ほら、そんなところに突っ立ってないで、こっちにおいで。」
「…お邪魔します。」
静かな病室におばさんの気配が感じられず、どこかに行ったのだろうかとおじさんに確認してみれば、職場に連絡を入れに行ったらしい。おれに電話をくれた時、ひどく狼狽していたからな。あの時は、真緒と連絡がつかないのも不安の材料になって、あのどこまでも陽気なおばさんの声が涙に濡れ、震えた声になっていて、居ても立っても居られなかった。少しでも、おばさんの役に立てるなら、とここに来たけれど、職場に連絡を入れるということができるくらい心に少し余裕が持てたようで良かった
おじさんは、変わらず穏やか、だな。
手招きされるままに、ベッド脇に置かれたスツールに腰掛ければ、なぜかぽんぽんと頭を撫でられる。突然の子供扱いにびっくりするおれを見ておじさんは穏やかに笑って「そんな顔しなくていい」と言った。どんな顔をしていたのだろうか。というか、どうして撫でられたんだろうか、今。よくわからないままおじさんを見つめれば、やれやれと肩を竦めると、おれの眉間に指を当ててぐりぐりと何かを押し潰す
「あの、おじさん、結構痛いっす。」
「この皺、深いねえ。」
「いや、あの、何で。」
「申し訳ない、って顔してるから。自分が全部悪いって顔。」
「……。」
「真緒と別れたこと、責められると思った?」
「…まあ、そうっすね。」
「もう二人とも大人だし、二人で決めたことに親が口出すことじゃないから。」
責めは、受けるつもりだったのに。
結婚を許してもらうために挨拶に行った時、おじさんとサシで飲んだあの日。真緒の幼い頃の話や、可愛くて仕方なくて、どれだけ大事に育ててきたかなど、色々な話をしてくれた。いつも穏やかなおじさんが涙ぐみながら、おれの手を握って「次は飛雄くんが真緒を幸せにしてやってね」と言って、約束をしたのに。それをおれは守れずに、こうしておじさんと対峙しているのに、それなのにこの人は
さっぱりと言ってのけられた言葉に、余計に罪悪感が込み上げてくる。責められる方が、良かった。その方が、やっぱり自分が悪いのだと自分自身を責められたのに。それをさせてくれないおじさんは、なかなかに残酷だと思う。また、寄るおれの眉間の皺を人差し指で潰しながらおじさんは「きみは本当に仕方のない子だなあ」と困ったように笑った
「浮気でもした?」
「それはないっす。」
「じゃあ、何でそんな顔してる?」
「……おれは…おれは真緒を幸せにできていたとずっと思ってました。」
「うん、違った?」
「それは、結局おれの思い上がりで。」
「思い上がり?どうして。真緒に何か言われたのかな。」
「バレーと自分のどっちが大事なのか、と聞かれました。」
「それは、また。」
「その時に、失望したんです、自分に。」
おれは、あの時、自分自身に失望した。失望して、真緒にどう接すれば良いかわからなくなった。おれは、今まで通りで良いと思っていた。バレー尽くしの毎日で、真緒もわかってくれている、と。それなのに、蓋を開けてみれば、どうだろうか。真緒の口から放たれた「バレーとわたしのどっちが大事なの?」という言葉。答えられなかった。だって、真緒はそんなことを言うはずないと思っていた。バレーのないおれに何が残る?残らないだろ、何も
幸せになんか、できていなかった。
おじさんと約束したのに、おれは真緒を幸せにできていなかった。すれ違いは何となく感じていた。でも、おれはバレーに逃げた。バレーを逃げ口にした。時間が経てば、元通りになるだろうって。だって、そうして中学、高校、そして結婚までしたのだから。10年という歳月をともにしてきたのだから。それなのに、今更そんなことを言われてしまったら、じゃあ、今までのおれと真緒の時間の中で、幸せはどこにあったんだろうか?と何もわからなくなって、目の前が真っ暗になった。それで、思わず放ってしまったのだ。真緒に向かって「失望した」なんて
今でも、その時の真緒の顔が頭から離れない。何をしても、幸せにできる自信がなくなって、真緒の顔を見るのが怖くて、気付いたら家を出てた。姉の家に転がり込んで、いつまでもそこにいるわけにもいかず結局寮に戻って。たまに帰るときは、真緒が寝ている時間を選んだ。おれが帰るって知らないはずなのに、いつだって食卓には食事が用意され、着替えも全部セットしてくれていて。真緒はこうして、いつもおれを支えてくれていたのに、おれは何を見て、何をしていたんだろうか、とその度に落ち込んだり
「おれといると、真緒は幸せにならないんじゃないか、そう思って、逃げたんです。」
「そう。」
「そんなおれだから、真緒は別れを切り出してくれたんだと思うんです。逃げ道を真緒から作ってくれたんだ、と。」
食事が置かれたダイニングテーブルの上にいつの間にか置いてあった離婚届。ああ、これはもうだめだ、と思った。真緒が別れることを望んでいる。おれが幸せにしてあげられないなら、おれにできることは真緒が望んでいることを、真緒を自由にしてやることじゃないか、そう思った。だから、サインして、おれと真緒にはもう関係などないと何度も言い聞かせ続けた
それなのに、ひどい矛盾だ。
イタリアに行くなんてわざわざ伝えに行ったりなんかして。真緒に縋ってほしかった。おれを追いかけてほしいという思惑通りになって、真緒を抱いて。真緒を連れていくための時間がないから、とイタリア行きを半年先に先送りしてもらい、真緒にもう一度。そう思った矢先に、真緒の隣に宮さんがいて、もう諦めようと思ったのに、結局まだ好きなままで、宮さんに告げた想い
「おじさんは、怒るかもしれないけど、おれ、やっぱり。」
「うん。」
「真緒しかいないんです。」
「そっか。」
「次こそ、幸せにするって約束守るから。だから。」
「飛雄くん。」
「…はい。」
「なんか、おれが昔きみに言った言葉が呪いになっているみたいだね。」
「呪い…?」
「きみにそう気負ってほしくて言ったんじゃないんだよ。」
「はい。」
「勿論真緒には幸せになってほしい。でも、飛雄くん自身も幸せにならなくちゃ。」
「おれも……。」
「それにね、幸せにするなんて大層なこと思わなくていいから。そんなこと思っていても、できるもんじゃないから。」
「でもどうやって。」
「そうだなあ、おれだったらだけど。」
「はい。」
「妻に愛してるって言葉でちゃんと伝えて、抱き締める。」
「は。」
「ただ、それだけでいいんだよ。」
「それは、ちょっと…。」
「妻に昔、態度でわかれとか傲慢なんだよってキレられたことがあってね。いやあ、その時は大喧嘩になって離婚の危機だったよ。嫌いだったら結婚なんかしてないだろって反論しちゃってさ。そしたら、じゃあちゃんと毎日証明しろなんて言われたもんだからね。」
「そうっすか…。」
少し泣きそうになっていた気持ちが一気に内側に引っ込んで、苦笑が漏れる。おれにはできる気がしない。毎日愛してる、なんて。そもそも愛してるなんて言ったのは、どのぐらい前の話だろうか
おれの溜め息で揺れたカーテンに、おじさんが困ったように笑いながら、「すぐには無理だよね」と言っておれの頭を撫でた。その手が、ひどく温かくて引っ込んだはずの涙がまた、溢れそうになった。
幸せの迷路
ゴールが見えないまま、立ち止まる。
(そう言えば。)
(あ、はい。)
(星野芹香さんとはどうなの?ん??)
(……痛いっす。)
(そこら辺、ちゃんとしないとダメだよ。それに関してはおれ怒ってるからね。)
さっきまで穏やかな顔でおれの頭を撫でていたのに、怖いくらいににっこりと口角を上げて笑いながら、ガシッとおれの頭を掴んでぎりぎりと痛いくらいに締め上げるおじさんの手に叫びたくなるところをグッと我慢して痛いと主張すれば、いつもと変わらない調子で放たれた怒っているぞの一言に一気に寒くなる心。内心冷や冷やしながらも、宮さんにも同じことを言われたな、と下唇を噛む。わかっている、どうにかしないといけないって。でも、おれにだって事情がある。邪険にできない、事情が。自分には無縁だと思っていた面倒ごとを思い出して溜め息を吐きたくなって、ポケットで震える携帯に気づかない振りをした。あとがき
失望したのは、自分になんですよ。