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様子を、見に行くべきなんだろうか…いや、別に二人とももういい大人だし。少し不穏な雰囲気が漂ってはいたけど、大丈夫、だよね?たぶん…たぶん。悶々と巡る思考に、両親が談笑しているのを聞きながらも、気になる二人の様子。コーヒーを買いに行くとでも言って少し様子を見に行った方がいいのか。というか、そもそも二人はどこに行ったんだろう。あの後、一度病室へ向けた足を止めて振り返った時にはもう二人の姿はなかった。仕方なくそのまま父の病室に戻ってきたから、どこに行ったのかはわからない。エレベーターには乗らずに移動していたし、下に行った感じはなかった。じゃあ、屋上だろうか。確かあのエレベーターホールを少し進んだ先に階段があって、階段を上がればすぐ屋上だ
「ごめん、お父さん。わたし、ちょっとコーヒー買ってくる!」
何もないとは思っているが、やっぱり気になる。
がたりと椅子を鳴らして立ち上がるわたしを父はにこやかに笑いながら「いってらっしゃい」と言って、手を振り見送る。その手に手を振り返して病室のドアを開ければ、ばったり出くわす探し人である二人の姿。肩を並べて何やら言い合いをしつつ、息まで切らして。何してるんだ、こんなところで
「あ、真緒ちゃん。」
「どうした。」
「いや、あ…っと、コーヒーを、買いに。」
何と言おうか迷いながら、ちらりと父を振り返り苦笑。父には「コーヒーを買いに行く」と言った手前、二人を探しに行こうとしていた、とはさすがに言えず。仕方なく、父に言ったことと同じこと言葉を繰り返して病室を出ていこうとするわたしの手を目の前に立つ宮さんが「おれも一緒に行くわ」と言って掴む。急に手を掴まれたことにびっくりしているわたしを他所に、くるりと踵を返して歩き出す宮さん。宮さんが歩き出したことによって手を掴まれているわたしも歩き出さざるを得ない状況で、足を少し縺れさせながら先を歩く背中を追って飛び出す病室
飛雄を置いてきてしまった、と後ろが気になって振り返ろうとした瞬間、グイッと後ろに引かれる腕。前を歩く宮さんに手を引かれていたこともあり、体が縦半分に分裂するところだった。まあ、人は縦半分に分裂なんかできないんだけど、それぐらい強い力で両方から引っ張られる体
「痛っ、いたたた!ちょ、な、何!?」
「あ、悪い…。」
「え、な、何?痛っ、え、二人とも離してもらってもいいですかね!?」
「嫌や。」
「嫌だ。」
「はあ?!いた、いたた!裂ける!裂けるから!!わ、わかった。じゃあ、せめて力を入れて引っ張るのをやめてください!!」
人間裂けるチーズかよ!
前から後ろからと引っ張られて裂けるはずのない体が裂けるかと思うぐらいの力に思わず悲鳴を上げれば、必死の訴えに何とか力を抜いてくれる二人。肩を脱臼するところだった。何事だ、これは。訳もわからないまま、睨み合う二人に挟まれて、居心地の悪いことこの上ない。そんなわたしに構わず、頭何個分か高い位置で二人は何やら言い合いを始める始末
「真緒ちゃん痛がってるやんか。離してあげえや。」
「宮さんこそ。」
「飛雄くんはまだ真緒ちゃんのご両親にご挨拶してへんのやろ?おれはさっき済ませたし、自分もしに行った方がええんちゃう?」
「別に後でちゃんとするんで。」
「普通真っ先にせんとあかんと思うけどね。おれがご両親やったら飛雄くんの印象最悪やわー。」
「大丈夫っす。昔も今もとても良くして頂いているんで。」
「ちょ、ちょっと!」
意味のわからない言い合いを始めた二人。高身長で顔の整った二人、しかも日本代表としてプレーしているような有名選手が廊下で言い合いをしているために、変に悪目立ちをしてしまい、心なしか廊下にギャラリーが増えているような気がして思わず声を上げれば、周りの状況に気づいたらしい二人がハッとした様子で押し黙る。次いで聞こえてきた「あの人ってもしかして、星野芹香と付き合ってるっていう…」という言葉に、飛雄の手がパッとわたしから離れていった
誤解、されたら大変だもんなあ。
少しだけ、ちくりと痛む胸。こんなところ写真でも撮られたら大変だ。彼女にも、悪いし。それに痛かったし、離してもらって助かった、なんて手を離されたことに対して自分に言い聞かせているみたいな、ひどい言い訳。ちらりと飛雄を見れば、グッと眉間に皺を寄せて「…おれ、ぐんぐん牛乳」とだけ言い残し、くるりと踵を返して、父の病室へ足を向ける背中。買って来いってか。そして相変わらず牛乳大好きだな
「…ほな、行こか。」
「あ、はい。」
「ん。」
「そうだ、宮さん。」
「何や。」
「手、離してください。」
「嫌や。」
「ちょっ。」
有無を言わさず、掴まれたままの手を引かれて、エレベーターホールに向かって歩く廊下。頑なに、手を離してはくれないらしい。はあ、と溜め息を一つ吐き出し、手を離してもらうことは早々に諦める。何度も言うのも体力を使うし、何よりもう慣れてきたわ、このやり取り。あれやこれやと言い合いしながら歩く方が目立つし
それにしても、何を話してたのかな。
前を歩く宮さんの背中を見ながら、さっきまで飛雄と何を話していたのか聞いていいものか悩む。聞かせたくないから、あの時病室に行けって言われたんだもんなあ。でも、気になる。わたしはずるくも宮さんの気持ちを知っているから、余計に。宮さんから飛雄へ向けた話は何となく、わかるような気がするけれど、飛雄が宮さんに話があるって、何を言ったんだろうか。そして、ふと、思い出す商業施設で飛雄が放った「頼む」の言葉。そういう、話なんだろうか。胸が少し痛くなって、俯かせた顔に降りかかる宮さんの声
「真緒ちゃん。」
「ん?はい、何ですか。」
「ちょっと、ギュッてして。」
「は?」
「手、ギューってして。」
「え、嫌ですけど。」
「相変わらずのストレート拒否!むっちゃ傷つくわ!!」
急に歩きながらこちらを振り返って、何を言うかと思えば「手をギュッてして」とか。脈絡のないお願いにただただ首を傾げるばかりだ。ストレートに「嫌ですけど」、と即答すれば、楽しそうに笑いながら「むっちゃ傷つくわ!」と言ってわたしの手を宮さんが指を絡めるようにしてギュッと痛いくらい握り締める。その力の強さに「痛いんですけど…そろそろ離してもらえません?」と言えば、「ごめんごめん」と言いつつも力を緩めることはなく、むしろより一層力を込めて手を握られ骨が軋む音に、痛いって言うともっと力を込められるシステムなのかと恐ろしくなって口を噤んだ
すたすたと廊下を歩いて、手の痛みに慣れた頃合いでエレベーターホールに到着。190センチ近い宮さんはただ立っているだけなのに物凄く目立つ。エレベーター待ちをしている間、周りの人たちがちらちらとこちらを見ては「あの人かっこいいー…モデルか何かかな?」やら「身長高っ。」と口々に落とされる言葉に必ずセットなのかと思うほど「まさかあれ彼女…?」と嘲笑付きで聞こえる声に肩を竦める
「…すっごい嫌な勘違いを引き起こしてるんで、本当そろそろ手を離してくれませんかね?」
「嫌や。」
「頑な!」
「周りから見たらやっぱおれらお似合いのカップルに見えるんやなあ。」
「いや、この手のせいですけど。嘲笑付きで釣り合ってないって言われてますよ。気づいて!」
「周りの期待に応えて、付き合うてみる?」
「は?怖っ。何の脈絡もないですし、周りは全く期待をしてません!」
「チッ。」
「舌打ちしました?今。ねえ、舌打ちしました??」
「ほら、エレベーター来たで。」
「無視か。」
わたしの話はまるっと無視をして到着したエレベーターに乗り込む宮さん。手を引かれるままに、わたしもエレベーターに乗り込めば、1階のボタンを押して閉まるドア。ふと、ちらりと宮さんを見上げれば、なぜかこちらをじっと見ていたらしい宮さんとばちりと目が合う
な、何でこっちを見てるの!?
心臓がやけに早く鼓動を刻む。わたしを真っ直ぐ見据える宮さん。珍しく、至極真面目な顔をして、わたしを見るもんだから、目を逸らせなくて困る。何とか搾り出した「な、何ですか」の声に、返答はなく、なぜか頬に伸びてくる宮さんの手に肩がぴくりと跳ねた。頬に当たる手の平に近付く宮さんの顔。慌てて手の甲で口を押さえたわたしにくすりと笑い声を漏らして、わたしの鼻をむぎゅうっと摘んだ
「変な顔。」
「はあ?!」
「あんま見んといてよ、真緒ちゃんのえっちー。」
「ばっ!わたしじゃなくて、見てたのは、宮さ、んうわ?!」
「ククッ…何や今の声…ぶ、ふふ。」
「…痴漢!変態!セクハラ魔!」
「真緒ちゃんったら、照れ屋さんなんやから。」
「本気で嫌がってるの、わかんないかな!」
唇を押さえた手の平にキスを落とされて変な声が出たわたしを笑う宮さん。その姿に沸騰しそうな頭で思いつくだけの悪態を吐いても笑って躱されて、ぐぬぬ、と歯噛みをする。そんなわたしを楽しそうに見下ろしていた宮さんが急に真面目な顔になって、少しだけいつもよりトーンを落とした声で言葉を零す
「……ずっと、このまま続いたら、ええのにね。」
「え?」
「もう一回ちゅーする?」
「しません!」
誤魔化すように放たれた言葉に流されて、落ちていった言葉は開かれたエレベーターのドアの外へ転がり出て跡形もなく消えていった。
誰にも気づかれない言葉の末路
ただ、静かに消えていくだけ。
(真緒ちゃん、コーヒー買うのに財布持ってきてへんってどういうことなん。)
(あ、はは……すみません…。)
(一つ、貸しやな。)
(いや、もう十分過ぎるほど支払ってると思うんですけどね…。)
(え?何か言うた?)
笑いながら放たれた言葉に背筋がぞわりと寒気を感じて、もう何も言うまいと押し黙る。これは、何か言ったら酷い目に遭う気がする。経験に基づく答えに従うことにして、見せられたメニューの中から何を飲むかだけを考えた。よし、と決めて、カフェラテを指差せば「はいよ」と言って宮さんが注文レジへ向かう。バリスタのお姉さんににこやかに笑いかけて注文をしている姿に、こうしていると普通の人なのに、時々変なスイッチが入って痴漢するんだよなあ、と溜め息が一つ。何で、わたしなんだろう。宮さんにはきっと良い人、それも、周りが言うようにお似合いの人がいるはずなのに、それなのにわたしがいいと言う。その感覚が理解できないまま軽く唇を指でなぞれば、そこは少しかさついて、指でなぞった摩擦でピリッと痛んだ。
急にぐいぐいいく飛雄と通常運転の宮さん。