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「宮さん呼んでくるから、ここで待ってろ。」


「は?何で、宮さん?」


「何でって…。」


「っくしゅ。ご、ごめん。」


「はあ…いいから、ここで待ってろ。」


「あ…。」



二人で居酒屋の入口まで歩く。入口に着いて早々、飛雄が宮さんを呼ぶからここで待っていろと言ってきて、何で宮さんを呼ぶ必要があるのかわからず、ただただ首を傾げる。そんなわたしを見下ろし、「何言ってんだお前」とでも言いたげに口を開いた飛雄の言葉に被さるように口から出てくるくしゃみ。ぶるりと震える体。服が濡れているせいで夜風に当たって体がすっかり冷え切ってしまっていた

鼻を啜るわたしに、結局何故か教えてくれず、その答えの代わりに溜め息を一つ吐き出して、入口に設置されたベンチにわたしを座らせると、くるりと踵を返してお店の中に入って行く飛雄。その背中に声を掛けようと思ったのに、もう見えなくなってしまった



「意味、わかんないし。」



飛雄の宮さん推しは何なんだ。


やたらとこの間から飛雄の口から宮さんの名前が出てきて、何なの。商業施設では宮さんにわたしのこと頼むとか言ったり、この間のドラッグストアでも宮さんはどうしているのかとか聞かれたり。まさかとは思うが、わたしと宮さんが付き合っていると勘違い、してたりするんだろうか。確かに商業施設のお手洗いに続く通路でたまたま会った時は、宮さんがわたしを迎えに来たけど、そもそも広場で目が合った時は治さんだって一緒だったのに



「ないか、飛雄に限って。」



わたしが誰とどうしているとか、気にするタイプじゃないし、興味だってないだろう。前に一度、宮さんと付き合っているのか聞かれた時も、「関係ない」とか言っていたし。ああ、あれかな。自分が他の人ともう付き合っていることに気が引けて、お前も誰かと付き合えよ、とか?いや、それこそ飛雄らしくないか



「真緒ちゃん。」


「あ、宮さん…。」


「何や、飛雄くんに追い出されたんやけど…どうしたん、その格好。」


「え、あ、これは、その…わっ。」



飛雄のよくわからない宮さん推しについてぐるぐる考えていると、頭上に降ってくる宮さんの声。顔を上げれば、心配そうにわたしを見下ろして、次いで目に入ったらしいわたしの体に巻きついた飛雄のジャージを指差して、眉間にグッと皺を寄せた。説明するには恥ずかし過ぎる事情があって、何と言ったらよいか口ごもるわたしにずかずかと近寄り、ジャージを掴んで胸元を隠すわたしの手をグイッと引いて、ジャージを左右に開く。その力の強さにびっくりしているわたし以上に、ジャージの中を見てびっくりした顔をする宮さん



「どこで水浴びしてきたんや。」


「いや、あの、これは、ですね…お恥ずかしいお話なんですけど、トイレで、やらかしまして。」


「は?トイレ??」


「ウォシュレット…の、ですね、温水を…被りまして。」


「ウォシュレットの温水……ぷっ。あはは!何やねんそれ!どうやったらそうなるんや。」


「ちょっと、ポチッと。」


「あー、そうなん。やっぱり、真緒ちゃんは面白い子やな。」


「それ、どういう意味ですか。全然褒められてる感じがしないんですけど。」


「そのまんまの意味や。初めてやわ、ウォシュレットの温水を顔から受ける子。」


「別に受けたくて受けたわけじゃないですけど…。」


「まあ、ええわ。とりあえず、それ、早よ脱ぎや。」


「え、わっ、ちょ、ちょっと。」



お腹を抱えて笑っていた宮さんが、わたしが羽織っていた飛雄のジャージをぐいぐいと脱がしにかかる。あっという間にジャージは奪われて、体に纏わりつく仄かに甘い香りだけが残った。「何するんですか」と怒るわたしに宮さんは「男の本能」とだけ言って、自分が着ていたパーカーを脱いでわたしに押し付ける

心なしかムッとした顔をする宮さんに、このままでは透けた状態で帰るしかなくなるからと渋々パーカーを受け取って、袖に腕を通せば、それを見た宮さんが満足げに笑って、くるりと踵を返して座敷に戻っていった。またわたしは待ちぼうけにされて、ベンチに座って大人しく待っているとすぐに戻ってくる宮さん。その手にはさっきまで持っていた飛雄のジャージはなく、代わりにわたしの荷物が握られていた



「行こか。」


「あ、はい。」



宮さんだって結構飲んだのに、何で普通なんだ…。


歩き出す宮さんの背中を追うも、アルコールでなかなか良い感じに千鳥足のわたし。それに比べて宮さんの足取りは普通で少し悔しい。いつも通り歩いていれば、普通に追いつく速度なのに、上手く歩けず、ずんずん前を進んでいく宮さんの背中。「待って」と声を掛けようとして足が縺れて躓き、「ぎゃっ」と色気のない悲鳴とともに前のめりになる体を、何事かと振り返った宮さんが慌ててこちらに駆け寄り、寸でのところで体を支えてくれた



「心臓に悪っ!…はあ、ほんま真緒ちゃんは危なっかしい。」


「す、すみません。飲み過ぎちゃって。」


「そりゃそうや。焼酎全種類頼んだ時は、こいつほんまもんの阿保かと思うたもん。」


「本当にわたしも激しく同意…。」


「しゃあないな。ほれ。」


「え?」



宮さんが背中を向けたかと思ったら視界から消える。人がそんな急に消えるわけもなく、少し下に目線をずらせば、目に入る宮さんの背中。わたしに背を向け跪いて、「ほれ」なんて言って背中を差し、早く乗れよと促した



「早よしいや。この体勢辛いんやから。」


「え、えー…。」


「早よ。」


「いや、わたし重たいですよ。」


「そんなんよう知っとるわ。」


「知っ…?!」


「嘘嘘。鍛えてるから大丈夫やって。」


「鍛えてるから重たくても大丈夫ってことですか!?」


「声でかいな、自分!あー、もう、ええから、早よ乗りや。」



遠回しに断っているのに、乗らないという選択肢はないから、と傲慢にも急かしてくる宮さん。スルーしてやろうかと跪いたままの宮さんの横を通り過ぎようとしたわたしの腕を掴んで、にこりと笑い「おんぶが嫌やったらお姫様抱っこでもしたろか?」なんて言いながらギュッと力を込めて腕を握るもんだから、渋々、本当渋々宮さんの背中に体を預けることにした

宮さんの背中に体を預けて、落ちないように首に腕を回す。ちゃんと体勢が整ったことを確認して、宮さんが腰を上げれば、自分よりもずっと高い目線に少し怖くなった


187センチってこんな高いの…。


普段は見れない景色に、いつも宮さんとかこんな風に物が見えているんだ、と怖さを感じつつも少しだけ感動しているわたしに宮さんが笑いながら「なんか真緒ちゃん重たなってへん?」なんて言ってきて、首に回した腕に力を込めて首を絞めにかかる。「ギブギブ!」と言う宮さんの体がぐらりと揺れて自分の命の危険もあり、仕方なく力を緩めてあげた。本当にこの人はデリカシーがない!



「冗談通じひん女やな…死ぬかと思たわ。」


「ふん、相変わらずデリカシーのない男ですね。重たいなら降ろしてもらって結構です!むしろ降ろしてください!!」


「は?嫌やけど?」


「何で!」


「そりゃあ、背中におっぱい当たって役得やから。」


「うわあ…。」


「冗談に決まってるやろ。ガチで引くなや。」


「いや、声がマジトーンだった。」


「半分な。」


「…おーろーしーてー!!」


「こら、暴れんなや!落ちるやろ!!」



宮さんのいつもの変態発言にばたばたと暴れれば、案の定落ちそうになって腕に力を込めてしまい宮さんの首を絞めてしまう。「ぐえっ」と言う声が聞こえて、慌てて負ぶさり直して腕の力を抜けば、宮さんが咳込みながら「殺す気か、ド阿保!」と怒鳴って、反省。危うく宮さんに絞め技をかけて気を失わせてしまうところだった。危ない危ない

落ちたら痛いし、絞め技は可哀想なので、仕方なく大人しく負ぶさってやることに。宮さんはわたしが大人しくなったことを確認して、ゆっくりとまた歩き出す。ゆらゆらと良い感じの揺れに少しだけ睡魔がやってきて、思わず口から飛び出しかけた欠伸を噛み締めた



「寝てもええで。」


「えー…寝たら変なことするでしょ?」


「できるか、こんな状態で。」


「おっぱい当たるとか言うもん。」


「それぐらいええやろ。運賃やと思えば。」


「わたしのおっぱいの価値よ。」


「え?それ以上してええんか?」


「対価としてはお釣りがくるレベルですけど!何追加請求しようとしてるんですか、そんな価値低くないわ、ふざけんな。」


「口悪っ。しゃあないなー。可愛ええ下着も見せてもろたし。」


「ぎゃっ。」


「これはおれのせいちゃうし、何やったら不可抗力やで。」


「最悪だ…。」



飛雄のジャージを取った時に普通に下着が見えたらしく、それを指摘されて、恥ずかしさで穴があったら入りたいくらいだ。入られるところはないので、仕方なく宮さんの肩に顔を埋めて、溜め息を一つ。それを見て、宮さんは笑いながら「可愛い可愛い」と言うもんだから、余計に恥ずかしくなる。ああ、もう最悪だ



「真緒ちゃん。」


「何ですか、もう。」


「おやすみ。」


「……おやすみなさい。」



早く寝ろと言わんばかりに告げられた、おやすみ。ゆらゆらと心地の良い揺れで、段々と遠のく意識に宮さんのおやすみが優しく耳にこだまして、余計に眠気を誘う。欠伸を噛み締めながら、重たくなる瞼に観念して「おやすみなさい」と呟けば、暗くなる視界。どこか意識の遠くで宮さんの小さな溜め息が聞こえた気がした。



揺れるおやすみ
眠りに誘うように、ゆらゆらと。


(真緒ちゃん…?)
(ん……。)
(寝るの、早。)
(ふっ。)
(何やねん無防備過ぎて、ムカつくわあ。)


微かに体に残っていたはずのきみのジャージから香った柔軟剤の匂い。胸が少し痛くなるその匂いが、いつの間にかわたしの鼻腔を埋めるのは嗅ぎ慣れてしまった宮さんの匂いに取って替わって少しだけ、寂しい。いつか、わたしのこの想いもこんな風になっていくのかな。きみへのこの想いを忘れてしまうのだろうか。忘れて、違う人に想いを寄せるのだろうか。それが当たり前、みたいになっていくのかな。その時、わたしはちゃんとこの想いを捨てられるのか。忘れられるのだろうか、きみの匂いを。その時、誰が隣にいるんだろう。考えれば考えるほど遠くなっていくばかりのきみの背中を思い出して、縋るように腕に力を込めれば、意識の遠くで「ぐえ」という声が聞こえた気がした。


おんぶに下心満載の宮さん。むしろ、下心しかない。

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