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最悪だ。「うー……。」
ぐわんぐわんと揺れる視界。焦点の定まらない視界で、何とか開けるトイレのドア。便器へ直行し、蓋を開けて顔を突っ込んでみるも、何も出てこない。吐ければ少しマシになるのに、それもできず、自分の呼気に混ざるアルコール臭でさらに酔いが回る悪循環
なんで焼酎ロックを全種類制覇しようとしたんだ…。
約1時間前の自分をぶん殴りたい気分。やけ酒にしてもやり過ぎだろ、わたし。大して強くないくせに、ビールからの焼酎ロックはさすがにやばい。それにも気づくことができないほど、飛雄と彼女のやり取りになかなかのダメージを受けていて。そんでもって、このお店の焼酎の種類の多さよ…何、ごぼう焼酎って。ごぼうの煮汁を飲んでる気分になったわ
「うえぇっ。」
舌を出して、声を上げても何も出ない。出ないものは出ない。そもそもそんなに食べないで飲んでいるせいもあり、胃液ばかりがせり上がってくるだけ。トイレを占拠していても仕方ないし、お店の迷惑になるから、と立ち上がろうとしてグッと手に力を込めた瞬間、アルコールに侵されたわたしの耳にもきちんと届いた小さなピッという機会音。それは何かのボタンを押した時に発せられる音によく似ていて。何だ?とアルコール漬けの脳味噌で事の処理を開始すると同時にビィーと何とも形容しがたい機械音がしたかと思えば、便器から急に出てくる温水
「うぶっ。」
顔面から胸元にかけてモロに温水シャワーを浴びて、色々とぐちゃぐちゃ。停止ボタンを押したいのに、揺れる視界と噴射され続ける温水に大パニックでままならない。不幸中の幸いは、おかげで少しだけ酔いが醒めたというぐらいで。何とか手のひらで温水をガードしながら便器に近づき、停止ボタンを押して、ホッと安堵の息を吐き出す
最悪だ…。
停止ボタンを押せたはいいが、被害は甚大。いや、まあ、トイレの床が水浸しにならなかっただけマシなんだろうけど、その代わりにわたしはそこそこのびしょ濡れ具合だ。きっと化粧はすっかり落ちてボロボロになっていると思う。髪の毛だって濡れたし。ベースメイクとアイシャドウしかしていない薄化粧だけれど、さすがにこれは良くないな
はあ、と溜め息を一つ吐いて、サッと備え付けのペーパータオルで顔と髪の毛、首元だけを拭って、天井を仰ぐ。照明で目がチカチカ。今すぐ座敷に戻るのは厳しい。とは言え、ずっとここに籠っているわけにもいかない
「ちょっと、風当たりに行こ…。」
酔いを醒ますのにも丁度いい。そう考えて、トイレの鍵を回し、ドアを開ける。誰にも見られないように座敷近くでお店のスリッパから自分の靴に履き替えて、お店の外へ。すれ違った店員さんにびっくりした顔をされたけれど、アルコールに満たされた世界では特に気にならなかった
「気持ち良いー…。」
外に出て、お店の入口から少し離れたところに自販機がある。その隣にある街灯の少ない細い路地侵入禁止のアーチスタンドに腰を落ち着かせて、頭を垂れて、目を瞑りそよそよと流れる風を感じた。アルコールで火照った頬と体には丁度いい温度で、少し酔いもマシになる
「あれー?お姉さん、どうしたのー??」
「一人?大丈夫??」
飲み過ぎないって言った手前、こんなところを見られるのは嫌だなあ。でも、まあ、パンツは下ろせるからまだマシだ。…いや、やっぱりそれよりひどいか。顔もぐちゃぐちゃだし。
卑屈になっちゃうわ、これは。
だって、相手は大人気モデルさんだもの。キラキラして、羨ましいな。化粧だってどうやったらそんな上手にできんのって感じだし、そもそも肌のハリとか顔の作りとか、ベースからして全然違うし。爪だって、カラフル。わたしは割と深爪気味で、比べるのも烏滸がましいくらいなのについつい比べちゃう。服装だって、そう。スラッとした華奢な体にぴったりフィットしたワンピース。それに比べてわたしはどうだ。ジーンズに、白のプリントTシャツ。大学生かよって話で
「え、無視?まじか。おーい。」
「お姉さん、そんな酔ってんの?大丈夫ー?」
「うおっ?!」
「お、気づいた。お姉さん一人?こんなところでぼーっとしたら危ないよ。」
「え、いや、あの。」
「つーか、お姉さん濡れてんじゃん!」
「風邪引いちゃうし、危ないから、おれたちと暖かいところ行こうよ。ほら、腕だってこんな冷たくなって。」
「ちょっ、と!触らないでください!」
アルコールに侵された頭の中でぐるぐるとネガティブ思考。はあ、と溜め息を吐いたところで、目の前にひらひらと振られた手に気づき、心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。その手を辿って見上げた先には知らない顔のお兄さん二人。目が合って、にっこり笑われる。次いで口早に色々言われるも鈍足気味の脳味噌は吐かれた言葉を処理できずにもたもたとしている間に、掴まれる腕。その手の感触が気持ち悪くて、一気に酔いが醒めて、ぞわりと粟立つ肌
「いいじゃん、いいじゃん。寒いっしょ?」
「ちょ、どこ触って!」
「あっためてあげてんじゃーん。」
「離してって言ってんでしょ!」
アーチスタンドから立たせるように、腕を引かれ、腰を引き寄せられる。密着する体にデジャヴを感じる。この間の合コンの時も、こんなことがあった。前と違うのは相手が二人ということ。そして、ここは外で、助けを求めようにも求められない。何とか自力で逃げ出そうとするも、男の力に敵うはずもなく。ましてや、アルコールで上手く力は入らないし、相手は二人。ずるずると引き摺られるように、自販機横の細い路地裏に連れ込まれそうになるところを何とか足を踏ん張り耐える
「嫌だ、って!」
「っとと、おい、暴れんなよ。」
「離せっ…!」
「おいおい、こっちが下手に出てりゃあ、調子に乗りやがって。」
「叫ばれると面倒だ。お前口押さえとけ。」
「やっ…!」
「いっ、てえ!このアマ、噛みやがった!!」
「ふざけやがって!」
「っ……。」
どうやら抵抗したのが癇に障ったようで、さらに強まる力に、口を塞がされそうになり、近づいた男の手を噛む。形振り構ってられない状況に暴れてどうにか逃げる隙を窺うも、離れない腰に回された手。背後にいたはずの手を噛んだ男の方がわたしの前に回り込んで、握り込んだ拳を振り上げるのが見えた。まるでスローモーションみたい。目を瞑って怖がるのは何か癪で、目の前の男を睨みつけた瞬間、グイッと後ろに引かれる体。それと同時に目の前にいたはずの男が後ろに倒れ尻もちをついて、腰に回された手もいつの間にか消えている
「真緒っ!」
「と、飛雄?」
抱き留められる体。後ろから回ってきた手の感触にハッとして振り返れば、息を切らした飛雄が映る。低く唸るように「何してんだよ」と上背のある飛雄が言えば、男たちが「んだよ!ふざけやがって!!」やら「このブスが!白けたじゃねえか、行くぞ!!」と口々に悪態を吐きながら去っていくのが見えた。回転の遅い脳味噌でも何となく状況が理解できて、ホッと息を吐くと同時に、じわり、と滲む視界
怖かった…!
殴られそうにはなったが変に反撃してくる人たちじゃなくて良かった。力が入って上がりっぱなしになっていた肩に置かれた手が、ぐるりとわたしの体を反転させる。視界いっぱいに飛雄の着ていたアドラーズのチームTシャツが映って、背中に回る腕にぎゅうっと苦しいくらいに抱き締められて、汚れのない綺麗なTシャツに数滴染みができる
「お前何してんだよ!」
「ご、ごめん。」
「こんな時間に、こんな暗がりで一人でいるとか危ねえだろうが、ボケェ!」
「ごめん。」
「はあっ…間に合って、よかった。」
「ごめん…っ。」
震える唇で謝罪。堪えようと思ったのに、だめだ。飛雄が安堵したように吐き出した言葉で、決壊するダム。怖くて堪らなかった。今更カタカタと震える体。震えているのがバレたくなくて、誤魔化すように飛雄の背中に腕を回して、グッと力を込めれば、背中を擦る飛雄の手。震えていたのはどうやらバレていたみたいで、かっこ悪い
わたしの震えが収まるまで、ただ静かに背中を擦ってくれて、数分。「もう、大丈夫」と声を掛ければ、「ん」と小さく頷いて体が離れていく。名残惜しい。そんなことを思って、見上げた先の飛雄がびっくりしたような顔をして手の甲を口に当てて、わたしは首を傾げる
「………はあっ。」
次いで、随分と勢いのある溜め息を吐いて、着ていたジャージを脱ぐ飛雄。急に脱いで何してんの?なんて思いながらその様子を窺っているわたしに、脱ぎたてのジャージを羽織らせて、グイッと胸元が隠れるように引っ張り、押し付ける。その行動が理解できなくて、訝しげに見つめると、顔を逸らした飛雄が呆れたように口を開いた
「何で濡れてんだよ、ボケ。」
「え、あ、これは。」
「透けてっから。」
「うわっ!」
とん、と指差された胸元。そういえば、ウォシュレットの温水を浴びてしまったんだ。それも、今着ているのは白のプリントTシャツ。どうやら下着が透けてしまっていたようで、指摘されたことにひどく恥ずかしさが込み上げてきて、羽織らされたジャージを強く掴めば、ガリガリと居心地悪そうに頭の後ろを掻き毟る飛雄。唇を尖らせるその姿がわたしの知っている飛雄のままで、思わず笑ってしまった
「何笑ってんだよ。」
「んーん、何でもない。」
「は?気になんだろが。」
「飛雄。」
「んだよ。」
「ありがと。」
「……気をつけろ、ボケ。」
「うん。」
何だか昔のわたしたちに戻れたような気になって嬉しくなり、つい口角が上がる。素直にお礼を言えた照れ隠しで体を包むジャージを強く握れば、昔と違う柔軟剤の香りがして、少しだけ胸が痛くなった。
変わらないジャージの、違う匂い
もう、同じ匂いじゃない、なんて、ちくりと。
(そういえば、なんで飛雄はお店の外に…?)
(ちょっと。)
(ちょっと?)
(……芹香さんを送りに。)
(…………そっか。)
搾り出した言葉。夢を見そうになった脳味噌が、一気に現実に戻ってくる。何、勘違いしそうになってんだろう。まるで、ヒーローみたいに、きみが助けてくれたから。だから。でも、きみはわたしのヒーローじゃないのに。少しだけ、前みたいに戻れたと思ったのに、やっぱりきみはどこか遠くて、寂しい。鼻を擽るジャージの柔軟剤の香りが余計にそう思わせる。もう、わたしと同じ匂いじゃないことが、昔のように戻れるわけないのだと思い知らせて。彼女のことを送っている途中だったのだろうか?それは悪いことをしてしまったな。「邪魔してごめんね」そう言って笑うわたしにきみは、何とも言えない顔をして、溜め息を一つ吐き出した。
昔、大変酔っぱらった時に、お店のトイレのウォシュレットを作動させてしまい、同じようにべちゃべちゃになったことがあります…そして、ごぼう焼酎は本当にごぼうの煮汁みたいな味がします……そんでもって本当は宮さんが助ける予定で書いたのに、いつの間にか影山になってましたよ、と。