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ギュッと握り込まれた手首が、少し痛い。手首だけじゃなくて、どうやら胸も痛いみたい。振り解こうと思ったのに、わたしの手首を掴む飛雄の手があまりにも強くて振り解けず、座敷の方に足を向けたまま停止



「えっと…何?トイレ、空いてるよ。」


「…ああ。」


「飛雄…?」


「……。」


「何?あの、手、離して。」


「……あんま飲み過ぎんなよ。」


「え?ああ、うん。大丈夫。わかってるよ。」


「この間みたいになったら迷惑だろ。」


「う、うるさいな!絶対ならないよ!!だって、あの時はっ。」


「は?あの時は、って何だよ。」



この間、というのが忘れもしない、合コンの時のトイレの話だとわかり、恥ずかしさと居た堪れなさに顔に熱が集中する。酷い酔い方をしていたのは自覚しているし、もうそんな飲み方はしない。というか、そもそも普段はあんな風に飲まないし、ちゃんと自制している。あの時は、とその先を紡ごうとして、口を噤む。あの時は目の前にいた飛雄がわたしの知らない人みたいに社交的な顔していて、周りの女性陣に口説かれてるし、さらには隣の男性はべたべたしてくるしで鬱憤が溜まって、お酒を捌け口にしたから、なんて言えるわけもなく。急に口を噤んだわたしを追い詰めるように、距離を縮めながら、問いただしてくる飛雄


何、何、近い近い!


狭い通路でずいっと寄ってくるもんだから、逃げ場などなく、すぐに背中に当たる壁。これ以上近寄らないで、と自由になっている右手を前に突き出して「ちょ、待って」と制止の声を上げる。とん、とわたしの右手が飛雄の胸元に軽く触れて、飛雄がハッとしたように「悪い」と言って動きを止め、頭の後ろを掻いてバツの悪い顔



「……早く戻れよ。」


「は?ちょ、わっ、とと。」



掴まれた手首を離されて、とん、と背中を押される。よろけながらお手洗いに続く通路から出て、振り返った時には、ぱたん、と閉まるトイレのドア。既に飛雄はトイレの中で、行き場をなくした言葉たちを飲み込んで開いた口を噤む。引き留めたのは飛雄なのに、何で早く戻れとか言われなくちゃいけないんだ。文句の一つでも言ってやろうと思ったのに、これでは言えない。文句の代わりに、はあ、と溜め息を一つ吐いて、肩を竦めたら、座敷に戻るためにくるりと踵を返した



「……あ。」



座敷に戻って、自分がいた所の席に着こうとしたら、なぜかわたしがいた席に彼女の姿が。どうやらいない間にちょっとした席替えが行われたらしい。どこに座ればよいか入口で辺りを見渡しているわたしに「ここに座りなよ」とすぐ近くにいた昼神さんが声をかけてくれて、その提案に有難く頷き、指定された昼神さんの目の前の席にすとんと腰を下ろす



「えっと、何ですか…?」


「いや、何も?」



目の前に座ったわたしに昼神さんがニコニコと笑いかけてきて、その笑顔の意味がわからず首を傾げていると、すぐ後ろの襖がスッと開いて、振り返った先に飛雄の姿。お手洗いから戻ってきたらしい。先程までのわたしと同じように辺りを見渡す飛雄に、これまた昼神さんが「影山、ここ」と言ってわたしの隣を指差す。「え」と声を上げたわたしをちらりと一瞥して、はあ、と溜め息を一つ吐いたと思ったら、飛雄はわたしの隣ではなく、ずかずかと奥の方へと歩を進め、奥でゲラゲラ笑っている宮さんのそばで足を止めれば何やら宮さんに話しかけた。やがて立ち上がった宮さんの席に座り、席を取られた宮さんがグラスを片手に持ち、困惑気味にこちらにやってきてはぽつりと言葉を落とす



「何や、飛雄くんからあっち行け言われたんやけど…。」


「なんだ、つまらないなあ。」


「まさかとは思いますが昼神さん…わざとやりました?」


「うん。なんか面白そうだったからさ。」


「うわあ…。」



何それ、すごく性格悪い…通りでニコニコ笑顔でこっち見てくると思ったら、そういうことだったのか。


とは言え、飛雄に溜め息を吐かれた上、避けられたような気がして、ちくり、と胸が痛い。そんなにわたしの隣は嫌か。いや、まあ、確かに今隣に座られてお酒を酌み交わすのはちょっと気まずいけども。だからってそんなあからさまに避けなくたっていいのに。

はあ、と溜め息を一つ吐いて、グラスを持ったまま直立不動している宮さんに「ここ、どうぞ」と空いているわたしの隣をご案内。すとん、と腰を下ろして、ちらりとわたしを一瞥してくる宮さん。「何ですか?」と聞けば、「いや?何も」と何やら意味深な反応をされてムッとする。思わず尖らせてしまった唇を見て宮さんが「タコチューか」と言いながら、ぐりぐりとわたしの頬を人差し指で突いてくるもんだから、その指をへし折ってやろうかと思ったけど、寸でのところで思い留まる。そう言えばこの人、指が命のセッターだったわ。すっかり忘れてた。仕方ないから手を払う程度に留めて、自分の飲み物がなかったことに気づき、ドリンクメニューを取って、すぐさま押す呼び出しボタン



「何頼むん?」


「……烏龍茶ですけど。」


「ふーん?」



お酒のメニューを見ていると、宮さんに何を頼むのか聞かれ、先程飛雄に言われた言葉をふと思い出して、ぺらりと一枚ページを捲りソフトドリンク欄を一瞥。別に飛雄の言うことを聞いてるんじゃなくて、少し酔いが回ってきたから、と自分に言い訳して、烏龍茶だと答えると宮さんは少し面白くなさそうに頬杖をついてわたしを見下ろした。店員さんを待つ間、特に会話もせず、わたしは目の前にあるエイヒレに手を伸ばそうとして、奥の方から聞こえた声にぴたりと静止。一番端の席なのに、なぜかその声はよく耳に響いた



「あっ、そうだ、影山くん。これ、影山くんのタオルだよね?ウチにあったんだけど。」


「え?ああ…すんません。」


「良かったあ。洗面所に置いてあったから、そうかなって。」


「何だよ、影山くんお泊りかよ!?」


「うるせえんだよ、ボケェ!日向ボケェ!!」


「都築さんが可哀想だろ!ちょっとは考えろよ!!」


「日向、自分が一番都築さんに可哀想なことしとるんやで?気づきや。ほんま頼むから。」



ちくちくと痛い胸に、ちらりとこちらの様子を伺う面々。日向とばちりと目が合って、「ひいっ」と小さな悲鳴を上げ、その顔があわあわと慌てたように口を開閉させながら、みるみる内にさあっと青ざめていく。何その顔、と思いながらフッと鼻で笑いながらも、余計なことを言いやがって、と日向に視線をくれてやった丁度その時、呼んでいた店員さんが来て、わたしの代わりにドリンクのオーダーをしようとした宮さんの声に被せる言葉



「あー、っと。日本酒のグラスとウーロン…。」


「赤兎馬、ロックで。」


「え、ちょ、真緒ちゃん、さっき烏龍茶って。」


「赤兎馬、ロックで。」


「……赤兎馬、ロックで…。」


「かしこまりました!」



元気よく返事をして去っていく店員さん。宮さんが恐る恐るといった様子で「ほんまに、大丈夫なん?」と聞いてきたので、ニコニコ笑顔で宮さんに「何がですか?」と聞き返せば、「イエ、ナニモ…」と言って、それ以上何も言わず、目の前にある日本酒のグラスを呷る。わたしと宮さんのやり取りを目の前に座る昼神さんが「いいじゃん、面白くなってきたじゃん」と言いながら楽しそうに観察しているのが目に入って、ギリギリと奥歯を歯噛みする。こっちは何も面白くないわ!ボケェ!!


飲まないと、やってらんないわ!


すぐに運ばれてきた日本酒のグラスを宮さんに押し付けて、自分の持つ赤兎馬のロックを宮さんが止めるのも構わず一気に呷る。芋焼酎独特の鼻に抜ける香りと、喉を焼くアルコール濃度。それなのに、脳味噌がアルコール漬けになるまでには程遠く、妙に冴えてしまって嫌になる。空になったロックグラスをテーブルに置いて、再度店員さんにお代わりを要求。

ちらりと見た座敷の奥は先程の静けさはどこへいったのか。すっかり騒がしさを取り戻して、談笑の声が聞こえる。自分はまだ何も消化できていないのに、何事もなかったかのように流れていく向こうとこっちの気持ちの落差に、グラスを握る手に力がグッと篭り、それだけじゃ全然気持ちが抑え込めず、キュッと噛み締める下唇。抑え込もうとしたのに、逆にそれがスイッチになって、じわり、と歪みだした視界が鬱陶しい。目頭をギュッと押さえるわたしを宮さんが頬杖を着きながら見下ろし、溜め息を吐きながら、ただ静かに近くのおしぼりをわたしに差し出した



溶けない、現実。
アルコールなんかで逃避できるはずもないのに。


(他の男のことで泣いている好きな子に対して、今のおれめっちゃええ男やな。)
(自分で言うとか引きますわ。それに一味唐辛子が目に入っただけですからね。)
(はいはい。)
(あー、目が辛い。)
(それは難儀やなあ。)


下手な言い訳をして、泣きそうになっていることを誤魔化したりなんかして。全然誤魔化せていないのに、宮さんは適当に相槌を繰り返しながら、ただ日本酒のグラスを呷るだけ。わたしだけ、どこまでも置いてけぼりのまま、だ。彼女が、きみの彼女であるということを周りが受け入れているのに、わたしだけが未だに受け止め切れず、聞きたくないと駄々をこねて、お酒を呷っているなんて、酷い醜態。みんなに気を遣われて、面倒な女だ。しかも、またお酒に逃げている。脳裏できみの言葉がチラチラとチラついたが、それと同時に先程の会話に加えて、脳味噌が勝手に再生した医務室での一場面を思い出し、目の前にあるグラスをやけくそのように一気に呷った。

あとがき


日向は地雷を踏み抜き、大人の余裕で修羅場を楽しむ昼神さん。
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