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「真緒ちゃん、何飲むー?」


「……水で。」


「え?純米大吟醸??」


「………コーラで。」


「明暗さーん!おれと真緒ちゃんは生でー!」


「ちょっと!」


「宮と都築さんは生やなー。りょーかい。ほな、他の奴らはー?」


「あっ!もう…はあ。」



閉め切られた座敷内によく通る明暗さんの声。注文を聞き取る明暗さんを止めようとしたわたしの制止の声は虚しく床に落ちて転がり、明暗さんはくるりと踵を返して他の人の注文を聞きに行ってしまう。がっくり項垂れるわたしに、隣に座る宮さんが笑いながら「観念しいや」と言って肩を叩いた


誰のせいで、こんな…!


ちらりとわたしから一番離れた席を見て目に入る姿に、ちくり、と胸が痛くなってすぐに目を逸らす



「はあ。」



自然と口から零れ出た溜め息。普通なら喜ぶところだが今日が金曜日で、明日が土曜日だということを心底恨みそうだ。そもそも、なんでわたしはまたこんなところに引き摺り込まれたのか。

事の発端は約30分前のこと。ミーティングルームから宮さんと戻って探してくれていたチームの皆さんやチーフマネージャーにぺこぺこと頭を下げる。平謝りをするわたしにチーフマネージャーは「大丈夫、大丈夫。具合悪い時はちゃんと言ってね?」と言いながら肩をぽんと叩いた。どういうことかわからないといったわたしに宮さんが「話合わせときや」と耳打ち。どうやら具合が悪かったから休んでいたということにしていてくれたらしい。宮さんに言われた通り、話を合わせて「すみません、次から気を付けます!」と言えば、チーフマネージャーがにっこり笑う

そんな笑顔にホッとして急ぎ残りの仕事を終え、更衣室で着替えて帰ろうとしたわたしの肩をガシッと掴む誰かの手。振り返った先に気持ち悪いくらいの満面の笑みを湛える宮さん。「え?」と言う間もなく、「ほな、行こか」と告げられ、ずるずると引き摺られてタクシーに押し込まれ、今に至る



「何や、まだ怒ってるんか?」


「怒ってないと思ってるんですか?最悪ですけど。」


「たまにはええやろー?大人数で呑むのも。」


「それは別にいいですけど、今は良くない。」


「飛雄くんがおるから?」


「……おしぼりどうぞ!」


「あっつ!」



わかってるくせに、この人は本当に!


わざとらしく出された名前にムッときて、店員さんが持ってきてくれた湯気が見えるほど熱々になっているおしぼりを宮さんの顔に押し付ける。「何すんや!」と怒ってきたが、知るか。ツン、と無視をして頬杖を着き、はあ、と溜め息を一つ。勿論、飛雄がいるから、というのもあるが、飛雄の隣に座る彼女の姿も目に入り、余計に気分が滅入る。こうなるってわかっていたくせに、宮さんによって無理矢理ここに座らされていることにも腹が立って仕方がない

いつの間にか店員さんが持ってきたファーストドリンク。明暗さんが店員さんから受け取ってみんなに回し、当然のようにわたしのところにも回ってくるビールジョッキ。鬱々とした気分は変わらずだが、目の前に置かれたビールは美味しそうで、条件反射のようにごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。そんなわたしを宮さんが見下ろしながら「欲望に忠実やな」なんて言ってニヤリと笑った。「厭らしい言い方しないでくださいよ」と言えば、「そんなことばっか考えてるからそう聞こえるんやで?」と言われ、突っ込むのも面倒で、ただ隣にある腕を思いっきり叩いてやれば「いっ、た!」と声を上げて本気で痛がる宮さんに少しだけ溜飲が下がる



「ほな、ま、今日もお疲れ様っしたー。乾杯!」


「かんぱーい!」



明暗さんの乾杯の音頭でみんなでグラスを打ち付けて、ごくりと一口。この状況は嫌だが、ビールは美味しい。何だかんだ、仕事も疲れたし、臨時サポーターの仕事も力仕事が多いし、今日は特に身体的にも精神的にも疲れている。体に染み渡るビールに、ふう、と一息吐き出して目の前に置かれた枝豆に手を伸ばした



「大体、これは何飲みなんですか。」


「チーム交流?まあ、親睦会、的な。」


「何でわたしまで…。」


「みんな気を遣ってるんやで、一応な。」


「…気の遣い方おかしくないですかね。余計に落ち込むわ。」


「……まあ、そこは突っ込んだらあかん。」



気遣ってくれた皆さんの気持ちは嬉しいけど、視界に入る二人の姿に毒づけば、宮さんは困ったように笑いながら、がしがしとわたしの頭を撫でる。髪の毛が大変なことになる!とその手を払いながら、離れたところに座っている二人をちらり。周りが騒がしくて会話は聞こえないが、彼女の笑い声だけはよく響いた。楽しそうで何よりですね、なんて可愛くないこと思っているのが、顔にも出ちゃって。そんな自分に嫌気が差す。そしてやけ酒を呷って、空になったビールジョッキ。すぐ近くにあった店員の呼び出しボタンを押して、おかわりを頼む



「なあ、真緒。」



ビールはまだかな、なんて思いながら枝豆に手を伸ばしていると、目の前に座る星海さんに急に話しかけられる。星海さんがわたしに話しかけるなんて珍しいな、と思いながら、首を傾げ、枝豆に伸ばした手を引っ込めた



「何ですか。」


「さっきから気になってたんだけど。」


「はい。」


「影山とお前って、何かあったのか?今、喧嘩中とか??」


「は?」


「いつもこういう時は隣に座ってたろ?この間の飲み会の時もやたらと離れたところに座ってるし。いつまで喧嘩してんだよ、お前ら。」


「……星海さん、飛雄から聞いてないんですか?」


「何を?」


「わたしたち離婚したんですけど。」


「は?」



目が点になっている星海さんに、あ、やっぱり知らなかったんだ、と確信。週刊誌とかも興味なさそうだし、見たこともないだろうから、飛雄の隣にいる人が新しい彼女だということも知らなさそうだな、と思っていたら、しばしのタイムラグを経て、言葉の意味を理解したらしく、星海さんが「はあ?!」と周りの人たちの話し声を打ち砕くほどの大きな声を出しながら、がたり、とテーブルを揺らした。揺れるテーブルと同時に「ったあ!」と声を出して肘を押さえる星海さん。どうやら驚きすぎてテーブルの角にぶつけたらしい。星海さんの声に一瞬周りがしん、としたが、何だよぶつけただけか、とまたすぐに騒がしさを取り戻す


誰も心配してあげないのか…可哀想に。


涙目になっている星海さんに「大丈夫ですか?」と一応形式的な心配の声を挙げれば、「驚かせんなよ!」と怒られた。いや、別に驚かせようと思ったわけじゃないんですけどね。むしろ勝手に驚いていて何を言う



「自分、同じチームやのにねえ。」


「あいつ、秘密主義なんだよ。」


「秘密主義というか、たぶん話すことでもないって思ってるだけかと。」


「そこは話すことだろ普通!」


「いや、わたしに言われても…。」


「じゃあ、隣にいる女は誰なんだよ!」



それこそわたしに聞かれても困るんですけど!


星海さんに苦笑を返して、「さあ?」と肩を竦める。飛雄の新しい彼女、という言葉は何となくわたしの口から言いたくなくて、お茶を濁した回答をすれば、そんなわたしを見た宮さんが星海さんに「気になるんやったら、直接本人に聞いてくればええやん」と助け舟を出してくれる。宮さんの言葉に合点がいった星海さんが「そうだな!」と大きく頷いて、がたりとテーブルを鳴らしながらスッと立ち上がり、飛雄の方へずんずんと近づいて行くのを見ながら、はあ、と溜め息を一つ。横にいる宮さんをちらりと一瞥して、ビールジョッキに口をつけながらぽつりと一言落とす



「…ありがとうございます。」


「どういたしまして?お礼に。」


「しません。」


「まだ何も言ってないんやけど。」


「し、ま、せ、ん。」


「ちぇー。」



何となく予想できた言葉の続きを潰すように断固拒否の声を上げれば、唇を尖らせながら「別にええやん、減るもんちゃうし」なんて言うもんだから、「セクハラおつ」とだけ返した。隙あらばこの人は。本当に油断ならんな。

星海さんが飛雄に詰め寄っているところを視界の端で捉えて、ビールジョッキを呷り、ジョッキを空にして、スッと立ち上がる。宮さんの「どこに行くん?」という問いかけに「ちょっと、お手洗いに」とだけ返して座敷を抜け出した。実の所、特にお手洗いに行きたいわけでもなく、座敷を抜け出す理由が欲しかっただけ。とは言え、それを理由に抜け出した手前、お手洗いに行かないわけにはいかず、仕方ない、と肩を竦めて、店員さんにトイレの場所を確認して踵を返す


飛雄の口から聞くのは、嫌だな。


ただ、それだけ。星海さんの問いかけに飛雄が答えようとしていて、その答えを聞く勇気のないわたしは逃げるように座敷を出たかっただけ。彼女であることはもうわかっている。週刊誌で見たし。でも、それを飛雄の口から直接聞かされるのは、何となくまだ嫌で。それに、まだあの光景が脳裏にチラついて、ちくりと胸が痛むから



「未練がましい。」



お手洗いのドアを開けて、特に用を足すわけでもなく洗面台に立ち、ぽつりと落とした呟きを手についた泡と一緒に洗い流す。大きな鏡に映る自分を覗き込みながら、溜め息を一つ吐き出し、備え付けのペーパータオルで手を拭いて、ゴミ箱へ、ぽい。こんな風に、この想いも捨てられたらいいのに、なんて馬鹿みたいに思う。いつまでもそうしていられるわけもなく、頃合いを見てお手洗いのドアを開けると何の悪戯か、ばったり出くわした姿に心臓がどきり、と大きく跳ねた



対峙する、現実。
逃避することなんて、許さないと嘲笑うみたいに。


(あ…。)
(真緒。)
(ごめん、待った?)
(いや。)
(どうぞー。)


お手洗いに続く通路の壁に背を預けて、腕を組んでいたきみと他愛もない会話を交わす。自然に、会話できているだろうか?不自然に思われなければいいな、なんて思いながらも、気まずい状況に少し早口で紡ぐ言葉たち。どうぞ、と促しながら開け放したトイレのドア。早く入ってくれ、と思うのに、きみはそこから動かず、真っ直ぐわたしを見据えながらも、苦虫を噛み潰したような顔をする。その顔の意味がよくわからなくて、困惑。何でそんな顔をしているのかわからないまま、とりあえず「先に、戻るね」と口を開いてきみの前を通り過ぎようとするわたしの手を掴むきみの手。その手があまりにも熱くて、思わず座敷に戻ろうとする足を止めてしまった。


星海さんってそういう男女の色恋は鈍感そう。逆に昼神さんとか敏感そう。

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