62 side KAGEYAMA

いつもなら、よく見えているはずのコートの中が、一瞬見えなくなった。その原因なんて、自分がよくわかっている。



「危ないっ…!」



レシーブに飛び込んだ時、突如聞こえた平和島さんの声。その声の意味に気付いた時には、脳内に響いたゴッという音ともに一瞬ブラックアウトする視界。じん、と鼻の奥が一気に熱を持って、思わずそこを押さえた手に伝う生温い感触にグッと眉根を寄せた



「っ…。」



急にやってきた声にならない痛みに鼻を押さえながら蹲って床に額をつける。鳴り響いた主審の笛の音がやたらと遠くに聞こえた。わらわらとおれの周りに集まってくるチームメイトたち。向こうの、ブラックジャッカルのベンチ側も騒がしく、どたどたと誰かがアリーナを出ていくのを音と額に伝わる振動で感じていた


クソッ、ついてねえ。


プロの試合でもレシーブ時にボールを追うあまり接触することはよくあるが、今回に関しては集中力を欠いた結果だ。一瞬コート内が見えなくなった結果が、これ。最悪だ。自分の性格的なもんで、プレー中に熱くなって周りが見えなくなることはあっても、それ以外で心乱されるなんて、プロ失格だ。プレーに熱くなって周りが見えなくなることさえ、ここ数年そうなかったのに。その原因は、わかっている。わかっているが、それを認めるのは、今は何となく難しい。



「飛雄っ!?」



痛みが少し引き始めた頃に、耳に飛び込んできた声。その声は何故こんなにもクリアに聞こえるのか。真緒がばたばたとこちらに駆け寄ってくるのが、額をつけた体育館の床から伝わる振動でわかった。次いで昼神さんの「おれは大丈夫」という声が聞こえて、接触したのは昼神さんだったと判明。それを理解するとほぼ同時に覗き込まれる顔。心配の色を湛えた瞳が視界の端に見えて、おれも大丈夫だって言いたいのに、ぽたぽたと手から滴り落ちる血液。体育館の床に小さな血だまりを作って、かっこ悪い。真緒が側からスッと消えたと思ったら、すぐに戻ってきて、掴まれた手。血で汚れるのも構わず、鼻から手を離され、握らされたタオル。素直にそれを鼻に当てて押さえる手

牛島さんと真緒が蹲るおれの肩を持って、立たせると、ずるずるとベンチへと引きずる。すとん、とベンチに座らされると、俯いたおれの顔を再度覗き込んでくる真緒の顔。あんまり見てほしくない。こんなかっこ悪いところ。そうは思いつつも、今は到底無理な話で



「くらくらする?吐き気は?」


「いや、だいじょうぶ。」


「ぶつけたの鼻だけ?」


「あたまはうってない。たぶん、はなだけ。」


「わかった。一応医務室で休もう。」


「そうだね。そうしよう、影山くん。」


「そこまでじゃっ。」


「どっちにしても鼻血が出ている状態じゃ試合に出せないよ。」


「コーチもそう言っているし、行こうよ。」


「…ああ。」



タオルで押さえながら答える。たぶん頭は打っていないはず。さっきまで、少ししていた頭痛と耳鳴りも良くなってきたところだ。多少眩暈がするが、吐き気はないし、鼻をぶつけてしまっただけだろうと判断。意外と脳内は冷静に自分の症状を分析しながら、真緒の質問に答えると、ホッとしたような顔をして、医務室で休むように提案される

もし、これが練習試合ではなく、公式戦だったらこんなにも簡単に頷くことはできなかったと思う。でも、今は練習試合。真緒の提案に割と素直に頷けば、差し出される手を見つめた。立ち上がるのに必要だろう、と差し出されているその手を取るのを一瞬躊躇う。逡巡の末、結局その手を取って軽く握り、自分よりもずっと小さい手に補助されながら立ち上がって医務室へ向け、そのまま一歩踏み出そうとして、横から伸びてきた手に腕を掴まれた。鉄の匂いだけが支配していた鼻腔を支配する甘い匂い。掴まれている自分の腕を辿れば、やたらと絡む長い爪のついた手が目に入って溜め息を吐きたくなった



「わたしが付き添いますから。」



そう横から割って入ってきた声。離すのが少し名残惜しくて、縋るように思わず軽く握った手がおれの意思などお構いなしにスッと離れていく。そして、紡がれた言葉にグッと眉間に皺が寄った



「あ、お願いします。」



なんで、お願いすんだよ。それもこんな簡単と。お前が付き添うんじゃねえのかよ。このまま行っていいって言うのかよ。


言いたいことは色々あるけれど、言葉にするのは憚られて、はあ、と言葉の代わりに溜め息を一つ吐けば、鼻にあてがったタオルがいい感じに吐き出した溜め息をキャッチしてくれたようで、誰にも気付かれずに霧散。背中に複数の視線を痛いほど感じながらアリーナを出てすぐに、やたらとおれの腕に絡みつく手を払う。正直面倒だし、放っておくかとも思ったが、この手のせいかと思うと舌打ちしたくなった



「冷たいなあ、もう。付き添ってるだけなのに。」


「芹香さん、やめてくださいって言ったっすよね。こういうことすんの。」


「えー、真緒ちゃんが見てるから?前は何も言わなかったでしょ。」


「それは。」


「まあ、いいや。そんなことよりさ、影山くんも聞いた?真緒ちゃんって宮侑と付き合ってるんだってね。」


「……真緒から、聞いたんすか?それ。」


「うん。試合前に給湯室で話したの。あれ、えっと確か、備品庫、だっけ?あそこから二人で出てきたし、真緒ちゃんと宮侑って何かあるのかな、って思って聞いてみたの。」


「……ああ。」


「同じ会社の同僚みたいだし、臨時の手伝いを真緒ちゃんに頼んだのも宮侑なんだって。幸せそうに言ってたよ。本当に好きなんだなってわかってこっちまで幸せな気分になっちゃった。」


「………へえ。」


「あ、医務室こっちだね。」



何となく、そうではないかと思っていた。最初にそう思ったのは久しぶりに真緒と会った飲み会の時。宮さんの横で笑う真緒を見た時にそうかと思ったけど、まだあの時はまだそういう関係ではなかったみたいで。だけど、この間の商業施設のイベント広場に宮さんといた真緒を見て、何となく、真緒は宮さんと付き合っているのではないか、と直感した。直感したと言ってもおれの感覚だけの話で、直接真緒から聞いたわけではない。だから、聞こうとしたのだ。昨日の、あのドラッグストアで。でも、聞けず、今日見た備品庫から出てきた二人の姿が脳裏にチラついて


勘違いとか、クソかっこ悪い。


舌打ちを一つ。先程振り払ったのにも拘わらず、芹香さんが再び腕を絡めてきて医務室はこっちだと案内する。もう、どうでもいい。振り払うのも面倒になり、されるがまま腕を引かれる。そうしてしばらく廊下を進んで医務室に到着。ドアを開けて、中のベッドに浅く腰掛ける。おれに倣って隣に座る芹香さんがおれの腕から手を離し、だらりと重力に従順なおれの手にその手を重ねた。指を絡めて握られる。甘ったるい匂いが嫌で、絡まった手を押し戻し、距離を取ろうとして、思わず落としてしまったタオル。それを拾うために前屈みになった途端、ずいっと寄ってきた芹香さんの顔。その瞬間、耳が捉えた物音に、自然と意識が向いたその隙を狙って、押し付けられる唇。明るくなった視界で見た、真緒の顔。わざとらしく芹香さんが声を出して、ハッとした顔をする真緒をおれはただ見つめるだけ



「救急箱、戻しにきた、だけで…。」


「見ちゃった?」


「あの、失礼しましたっ。」


「真緒っ。」



ばたん、と勢い良く閉まる医務室のドア。それがスタートの合図かのように、おれは芹香さんの体を押しやって目の前から退かせ、真緒を追いかけようとした一歩がふらつく。後ろから掴まれた手。ギュッと握り込まれながら「真緒ちゃんには宮侑がいるんだよ」と、おれをここに引き留める言葉たち。確かにそうだ、おれが追いかけてどうする?弁明するのか?何のために。弁明して、どうする。


真緒はもう、前に進んでいるのに。


芹香さんに「離してください」と言いながら、その手を除けてベッドに逆戻り。深く腰掛けて、頭を抱える。やり切れなさに拳を自分の膝に打ち付けて、飲み込んだ唾がいやに鉄臭くて、深い溜め息を一つ吐いた。



***



「飛雄くん、ちょっとええか!」



鼻血も止まり、一応の休息を取って体育館に戻った頃には、既に練習試合が終わっていた。アリーナに戻れば、凄い剣幕で宮さんがこちらに向かってきておれに詰め寄る。おれがいない間に何かあったらしい。訳もわからないまま、宮さんに「何すか」と言えば、おれの胸元を掴み眉間に皺を大量に寄せる



「真緒ちゃん、そっち行ったやろ?!どこ行ったんや?!自分と一緒ちゃうんか!!」


「は?……っ!」


「待ちいや!飛雄くん、真緒ちゃんに何したん?!」


「別に何もっ…。」


「…そんな女もんのリップ口につけて、随分とかっこええな?」


「……っ!」



宮さんの手を退けて、アリーナを出ようとくるりと踵を返したおれの肩を掴む宮さん。グッと握り込まれて、おれのユニフォームに皺を作る。振り返るおれに向かって、軽蔑にも似た視線を投げかけられながら、指摘された唇。その指摘にハッとして、ぎりぎりと歯噛みする


おれが探しに行って、どうする。


グッと拳を握り込んで、目の前にいる宮さんを見据える。正確には睨みつけた、が正しいかもしれない。一度、冷静になるためにゆっくり深呼吸をして、抑え込む感情。握り込んだ拳を宮さんの胸元に押し付ければ、念押しのように「心当たり、あるんやろ」と再度確かめるように聞かれる。心当たり、と呼べるものなのかどうかはわからないが、あるにはある。本当にそこにいるかは確証はないが、きっと



「…テーブルの下、とか。」



それだけ聞いて、宮さんが走りだし、アリーナを飛び出していった。取り残されたおれは、宙を彷徨う拳をやたらとべたつく自分の唇に当てて、力任せに拭う。そして用なしになった自分の拳をただ重力に任せるままにそっと降ろして、目を閉じた。



纏わりつく甘味
唇についた甘すぎる匂いに、眉根を寄せた。


(行っちゃったね。)
(……はあ。)
(半信半疑だったけど、やっぱり二人そういう関係なんだね。)
(……チッ。)
(影山くん?)


二人の姿を想像して、溜め息ばかりが出る。しんどくなって、思わず発した舌打ちを拾われて面倒臭い。おれは何がしたいのか。ままならない感情の波に、嫌になる。今更どうしたって、戻るわけじゃないのに。それでも、変わらないと驕っていた結末が、これ。やり残したこともそのままで。まあ、これは別に託すことになりそうだから、いいか。あいつはもう前に進んでいる。あの日、おれがお前を置いて行ったのに、なぜかおれはあの日に取り残されたままで、もがいている。グッと握り込んだ拳を解いて、少し伸びてしまった鬱陶しい前髪を掻き上げながら、ちらりと横を歩く芹香さんを見て、諦めにも似た溜め息がまた、零れ出た


何となく、色々ダダ漏れな影山視点。

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