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「ドリンク、ここに置いておきますね!」


「ありがとう、都築さん!」


「あ、タオル忘れちゃいました。取ってきますね!」


「急がなくて大丈夫だよ!」


「いえ!まだまだやることあるので!!」



ドリンクを入れたカゴをチーフマネージャーが座る椅子の近くに置いて、タオルがないことに気がつき、取りに戻るために急いでアリーナを抜け出す。ちらりと確認した、アドラーズのチームベンチ。試合の最中なので当たり前だが、飛雄はコートの中。わたしの目線の先にいるのは、先ほどまで給湯室で対峙していた彼女。パイプ椅子に足を組んで腰掛けながら、飛雄を真っ直ぐ見つめる姿に何とも言えない気持ちになる。心なしか頬も赤い気がする


好き合っているなら、いいじゃない。


ちくりと胸が痛む。自然と尖ってしまった唇を引っ込めて、アリーナから廊下に出れば、また出てきてしまう唇。なんて言うことを聞かない悪い唇なんだ。お仕置きだと言わんばかりに下唇をぐりぐりと噛み締める。力の入れ過ぎで当たり前のように痛い。でも、それに少しホッとする自分がいて。何だ、ドMかわたしは。なんて。



「足枷…。」



思い出さないように足を止めずに忙しなく動いているのに、わたしの脳味噌はどうやら救いようのないお馬鹿さんみたいで、ループ再生する彼女の言葉。思わず呟いてしまった脳内の言葉に、いけない、と頭をぶんぶん振って追いやる思考。今は、考えたくない。考える時間もない。だから、タオル、取りに行こう。そうだ、そうしよう。一人、廊下で強く頷いて早歩きでタオルを取りに歩を進める

タオルを取って、抱え込んだら、来た道を逆戻り。急いでアリーナに戻って、ドリンクのカゴの横にどんとタオルを積み上げて、チーフマネージャーが止める間もなくまたアリーナを出る。考えないようにするといっても、あそこで、二人を見ているのはやっぱり辛い。しかも、丁度タイムに入っているところで。飛雄にドリンクとタオルを差し出す彼女の姿が目に入り、昔の自分を見ているようで、キュッと胸が痛くなる。逃げ込むように、お手洗いの扉を開けて、鏡の前。映る自分の姿。彼女の姿が脳裏にチラついて、目を逸らしたくなる



「まあ、釣り合わない、よね。どう見ても。」



飛雄の隣に並ぶ自分を客観視できているか、と言われた。どう見ても、釣り合いは取れていないと思う。やっぱり彼女の方が、お似合いだと思う。顔も、身長も、持っている地位も、何もかも。わたしが持っていないものばかり。わたしは何を持っているんだろうか。自分の手の平を見ても、何もない。彼女に比べたら、誇れるものなんて何一つない



「わたしだって、わからないし。」



どうして、飛雄と付き合えたのか、なんて。どうしてあのバレー馬鹿と結婚できたかなんて、わたしが知ってるわけないじゃん。わたしが選んだんじゃない。選んだのは、飛雄の方だ。わたしはただ、飛雄が好きだっただけで。ただ、それだけの人間だった。誰よりも近くで飛雄のバレーを見ていたかったから、必死でバレーボールの勉強をしただけ。すごく邪な理由でバレーに関わろうとしたそんな人間に、どうしてなんて聞かれてもわかるわけないじゃん。唇をまた尖らせている自分を見つめて、溜め息を一つ



「戻らなきゃ。」



ここにずっといるわけにもいかない。溜め息をもう一つ。気持ちを切り替えるために、汚れてもいない手を洗ってトイレのドアを開けた瞬間、廊下の先にいるチーフマネージャーとばちりと目が合う。その瞬間、物凄く慌てた顔でこちらにせかせかと走り寄ってくる。息切れをしながらわたしの目の前にきて、ガシッと掴まれる肩



「はあっ、は、丁度良かっ、たっ!探してたんだ!!都築さん大変、大変なんだ!!」


「いや、ちょ、ど、どうしたんですか。」


「すぐ来てっ、あ、いや、救急箱持ってアリーナに来て!」


「え?救急箱??」


「いいから!」


「は、はいっ。」



チーフマネージャーから息も絶え絶えで告げられた内容に、何も把握できないまま、言われた通り救急箱を取りに医務室へ急ぐ。医務室のドアを開けて、救急箱を取ったら、くるりと踵を返して、アリーナに向けて足を進めた。ばたばたしていて、よくわからないまま救急箱を取ってきたが、行き着く一つの考えにハッとする


誰か怪我したってこと、だよね…?!


じゃなかったら、救急箱なんて必要としない。急いでアリーナに向かい、中に入ると、試合が中断されていて、コート内で蹲る人。ユニフォームの白とは対照的な黒髪が床に着いているのが見えて、サーッと血の気が引いた



「飛雄っ!?」



慌ててコート内に駆け寄れば、蹲る飛雄の近くの床に血痕が見えて息を呑む。何があったのか近くにいた星海さんを見上げれば、ジェスチャー付きで端的に「接触」とだけ。コート内をよく見れば飛雄だけではなく、昼神さんが近くで尻もちをついていて。昼神さんを見れば「おれは大丈夫」と言って軽く手を挙げた。どうやらレシーブの際に接触してしまったらしい

とりあえず、急いで飛雄の近くに寄って、顔を覗き込む。鼻を押さえる手の隙間から、ぽたぽたと血が滴り落ちているのが見えた。ベンチからタオルを取って、飛雄のところに戻り、鼻から手を退かせて、タオルで押さえるように手渡す。牛島さんに手伝ってもらい、飛雄を立たせてアドラーズ側のベンチに座らせ、アドラーズのコーチと飛雄の顔を覗き込みながら問いかける



「くらくらする?吐き気は?」


「いや、だいじょうぶ。」


「ぶつけたの鼻だけ?」


「あたまはうってない。たぶん、はなだけ。」


「わかった。一応医務室で休もう。」


「そうだね。そうしよう、影山くん。」


「そこまでじゃっ。」


「どっちにしても鼻血が出ている状態じゃ試合に出せないよ。」


「コーチもそう言っているし、行こうよ。」


「…ああ。」



一通り容体を確認して、鼻を強打して鼻血だけのようだが、何かあっては怖い。医務室で少し休むことを提案すれば、一度は渋ったが、トレーナーからの助言もあり、再度促せば素直に頷く飛雄。練習試合だからか、そこまで渋らずに割かし素直に頷いてくれた。これが公式戦だったら絶対に頷かなかっただろうな、と安易に想像できて苦笑を一つ。自分で歩けるか、確認すれば、小さく頷いたのを確認して、立ち上がるための手を貸した。かたり、と音を立てて立ち上がる飛雄の腕を、横から掴む手。見覚えのあるネイルが目に入って、手から腕、さらに上を辿った先にある顔。一瞬ムッとした表情でわたしを見下ろしたのも束の間、すぐに笑顔に戻って「わたしが付き添いますから」なんて言われて。出しゃばってしまった、と思いつつ、「あ、お願いします」とだけ言って送り出す背中二つ

飛雄と接触した昼神さんも特に外傷などはなく、アドラーズの控えのセッター選手が入って、すぐに練習試合は再開。ブラックジャッカル側のベンチに戻ろうとして、手にしている救急箱を戻さなくてはいけないことに気付き、頬を掻く。


これを戻すために一緒に行けば良かったか。


いや、でも、それだとわたし、随分と空気の読めないお邪魔虫になるし、何せ彼女に色々言われたばかりだ。だから、これで良かったんだ。そうだ救急箱くらい後で戻せばいいか、と結論付けて用済みとなった救急箱を手にベンチに戻れば、チーフマネージャーから「ちゃんと救急箱戻してきてね」と念押しされて苦笑。仕方ない、サッと戻してくるか、と肩を竦めて「行ってきます」と告げ、医務室へと足を向けた



「めちゃくちゃ気まずい、よね。絶対。」



どう考えても。別にただの付き添いだろうから、気まずくなる必要はないのかもしれないけれど、さっき色々言われたばかりだし。近づくなっていう牽制もらっちゃってるしなあ。とは言え、チーフマネージャーに念押しされてしまった手前、救急箱を返さないわけにはいかないので、渋々重たい足を動かして医務室へ。少しだけ開いているドアをそっと押し開いて中を覗き込み、目に飛び込んできた光景に、心臓が凍り付いた気がした。



お伽噺の中だけの風景。
お姫様と王子様がただ口づけを交わす、そんな風景。


(あ。)
(え、っと…わたし、その、救急箱、戻しにきた、だけで…。)
(見ちゃった?)
(あの、失礼しましたっ。)
(真緒っ。)


ばたん、と医務室のドアを閉めて、駆けだす。背中にきみの声が聞こえたが聞こえない振りをして全力疾走。しまい忘れてきてしまった救急箱がやたらと足に当たって、痛い。痛くて、堪らない。誰も来ないであろう給湯室に逃げ込んで、ずるずると床にへたり込む。そんな、覚悟はできていなかった。そんな覚悟は、何も。しているわけがない。そんなところに出くわすなんて想像できるわけないし、見たくもなかった。自分だって、宮さんとキスしておきながら何言ってんだ、と思う。ちゃんと拒めてないくせに、ちゃんちゃらおかしな話だというのに、ちゃんと理解しているのに、心が追いつかない。膝を抱えて蹲ったわたしの瞼の裏に、焼き付いてしまったさっきの光景がやっぱりわたしの心臓を凍らせた。

あとがき


もう、自分は宮さんとちゅっちゅしてるくせに〜。と言いつつも、自分からはしてないという免罪符で何とか保ってます。
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