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どうして彼女がここにいるのか。聞き間違い、ではない。あの日、帰り道で電話越しに聞いただけの声だけれど、こびりついて離れない甘い声。それが、今、すぐそこにあって。どうやら備品庫のすぐ前で会話をしているようで、出るに、出られない状況。息を殺して、やり過ごすのを待つことしかできない。そんな中で、彼女が甘い声とともに発した飛雄を呼ぶ声が、ひどく耳に残る



「影山くん、来ちゃった。」


「え、芹香さん、どうしたんすか。」



飛雄の声が聞こえて、びくりと跳ねる肩。その言葉の中に、彼女の名前が含まれていて、グッと電光式スコアボードを持つ手に力が篭る。自分でも気付かない内に、自然と下唇を噛み締めて、何かが溢れてきそう。震える前歯で、呼吸すらも塞き止めてしまいそうなほど下唇を強く噛めば、じわり、と口に広がる鉄の味



「ふふ、びっくりした?今度やるドラマの役作りのために見学させてもらおうと思って。折角だったら、影山くんのいるチームがいいなと思ってアドラーズのゼネラルマネージャーさんに相談したの。」


「でも今日は練習試合で。」


「勿論ちゃんとゼネラルマネージャーさんから聞いてるよ。試合してる影山くんも見てみたかったし、いいよね?」


「…おれにそんな権限はないっすから。」


「と、いうことで、一応関係者なので、入れてくださいね?何なら、今からアドラーズのゼネラルマネージャーに確認してもらってもいいですけど。」


「一応確認の連絡を入れさせてもらいます。その上で判断させてください。」


「すみませんが、よろしくお願いします。芹香さん、じゃあ、こちらでお待ちしてましょう。」


「えー、折角影山くんに会えたんだし、もう少しお話したいんだけど。」


「これからアップなんで。」


「じゃあ、仕方ないっか。影山くん、また後でね。」



強く噛み過ぎて鉄の味がする下唇を舌で湿らしながら、パタパタとアリーナの方へ駆けていく音を聞いた。今駆けて行ったのは、飛雄だろう。その後に耳に入ってきたのはこちらのチーフマネージャーの声。アドラーズのゼネラルマネージャー宛てに電話をしているようで、それ以外の音がぱったり聞こえなくなった


まだ、外にいるんだろうか。


顔を合わせて、平然としていられる自信が、ない。彼女はわたしの顔なんて知らないだろう、きっと。でも、わたしは知っている。だって嫌でも目に入る。彼女は人気モデルで、最近テレビでも引っ張りだこ。わたしからしてみれば遠い世界の人間だから、と雑誌やテレビで彼女の姿を目にした時も、平気でいられた。いや、正直に言えば、あまり平気ではなかったけれど。それでも嫌だったら目にしないようにチャンネル変えたり、雑誌を見ないようにすることはできたし、自分でちゃんと対処できる範囲でやり過ごせる。だけど、顔を合わせるのはまだ、覚悟ができていない。そもそもするつもりのなかった覚悟だ。持ち合わせているはずもない

チーフマネージャーが電話を終えて、確認が取れたらしく、どうやら彼女をアリーナにご案内するらしい。たまたま近くを通りかかったらしい佐久早さんに「都築さん、見なかった?」と聞いていたが、今の話の流れだとわたしが案内をしなくてはいけない感が感じ取れて、ここから出る勇気はなく、聞かなかった振りをした。佐久早さんとは今日はまだ顔を合わせていないことが幸いして「見てません」と簡潔に回答して終わる会話。備品庫の外にいる人たちに聞こえないように、はあ、と小さく溜め息を吐き出してやり過ごせば、先ほどまでの騒がしさが嘘のように辺りがしんと静まり返った



「真緒ちゃん。」


「わっ。」



やっと静かになったのに、それを破る宮さんの声。気付けばあまりにも近くに宮さんの顔があって、びっくり。数歩よろけながら後退して、足が縺れる。電光式スコアボードの重みも相まって、上手くバランスが取れない。その上、両手が塞がっていて体勢を立て直そうにも、傾いていく体


これは絶対痛いやつだ!


電光式スコアボードを放ってしまうわけにもいかず、覚悟を決めてスコアボードを抱き締めるように抱えて、キュッと目を瞑り、来るであろう痛みに備える。目を瞑りながら、もし頭を打ったら、なんて、ふと変な考えが頭を過った。頭を打って、全部忘れられたらいいのに、なんて。結局、どすん、と尻もちをついたが、何とか頭を打たずに済んだみたいだ。「いてて」と声を発するわたしの顔のすぐ近くで、ホッと安堵したように息を吐くのを耳のすぐ横で感じて恐る恐る片目ずつ開けてみる。蛍光灯の光が開けた目を刺激。少し染みのある天井が少しずつ見えて、視界の端に練習試合用に着たらしい宮さんのユニフォームが映る。どうやら、後頭部を強打しないように受け止めてくれたらしい



「あー…めっちゃ心臓に悪い。」


「ちょ、宮さん怪我してないですか?!手、手首!!手首、大事!!」


「自分なあ。」


「捻ったりしてないですか?!動かしてみてください、違和感あるとかないですか!?」


「いや、それより自分は?大丈夫なん?」


「わたしのことより宮さんの手!商売道具!!」


「大丈夫やって。自分は。」


「あ…大丈夫です、ありがとうございます。」


「せやったら、良かったわ。」



わたしの顔を覗き込みながら、ホッとした顔をする宮さんに少しだけ罪悪感。実はさっき頭打ったらよかったのに、と思ってしまったなんて言えない。それなのに、大事なセッターの手首を危険に晒してまで、わたしの頭をガードするために受け止めてくれて。手首を捻ったりする可能性だってあったのに、躊躇いもなく体を張ってくれて、さっきまでそんなことを思ってしまったことがひどく居た堪れない。そんなわたしを他所に、宮さんはにっこり笑いながらわたしを見下ろして



「お礼は真緒ちゃんから、おれにちゅーでええで。」


「うわあ…。」


「冗談や。マジで引くなや。」


「いや、全然冗談に聞こえなかったんで。」


「半分本気やし。」


「うわあ……あの、助けていただいて何なのですが、そろそろ退いていただきたく。」


「ふーん?」


「いや、ちょ、ちょっと、待ってください。や、その反応は嫌な予感がする!」



受け止めてもらった頭が仇となるとは。丁度いいところにおれの手があるわ、とでも言いたげに、わたしの後頭部に回っている手をグッと引き寄せて、身構えたわたしの額に軽く触れる宮さんの額。鼻がぶつかりそうな距離で宮さんが噛み過ぎて傷になってしまったわたしの下唇を一瞥する。蛍光灯が宮さんのバックにあるせいで、わたしを見下ろす宮さんの顔が逆光でよく見えない。



「おれやったら、そんな顔させへんのに。」



搾り出すように降ってきた言葉たち。見えづらい宮さんの表情。わたしの顔のすぐ横に着かれた宮さんの手がグッと拳を作ったのを耳で感じたのとほぼ同時にぱあっと視界が明るくなる。

パッと離れていく宮さん。ユニフォームについてしまった埃を払って、ぼうっと天井を見上げているわたしに「ん」と言って、差し出す手。握るのを躊躇うわたしの腕を無理矢理掴んでグイッと引き寄せて立たせてくれた。電光式スコアボードを一旦床に置いて、ジャージについてしまった埃を払って、乱れた髪の毛を直していると、急にがらりと備品庫の扉が開く。中を覗くチーフマネージャーがわたしたちがいることに気付いてびっくりしたようにこちらに駆け寄って



「わ、びっくりした!え、あれ、都築さんと宮くん?ずっと二人でここにいたの?」


「あ、いや。えっと、ごめんなさい、スコアボードですよね。すぐ準備します。」


「おれも、アップしてきますわ。」


「ああ、うん…?」



何か聞かれて上手に躱せる自信がないから、と矢継ぎ早に言葉を紡いで、床に置いた電光式スコアボードを持ったら、早足で備品庫を抜け出す。わたしに続いて宮さんもアップのために備品庫を出ようとして、ばったり出くわしてしまった顔に、ぎりぎりと無意識に歯噛みした



交錯する、4点
ゆっくり交わって、衝突。


(あ、宮侑!)
(真緒と、宮さん…。)
(この間、お会いしましたよね?わたしのこと覚えてます??)
(飛雄…。)
(で、そちらはどなた?)


なんでこうもわたしはタイミングが悪いのか。星の巡り合わせ的に大殺界なのか?頭の中で色々後悔しても、起こったことは戻りはしなくて。備品庫から出てくるのがもう少し遅かったり、早ければ絶対に出くわさなかったであろう顔ぶれに溜め息を吐きたくなる。一緒にいるところを見る覚悟は、まだできていない。できていないのに、そんなこと知ったことか、と神様は意地悪をする。直視できず、それでいて、そこから立ち去ることができないわたしとは対照的に、ぐいぐいこちらに寄ってくる彼女。きみの腕を掴む、綺麗なネイルのついたその手を視界の端で捉えて、電光式スコアボードを持つ、自分の手の爪を誰にも見えないように隠した。

あとがき


まあ、よくある展開よね。
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