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「お疲れ様でーす。」


「えっ、あ、都築さん?!」


「あ、明暗さん。お疲れ様です。」


「あれ、おれ、昨日来んでええよって言わへんかったっけ…?」


「あ、それなんですけどね。一人来れなくなったってチーフマネージャーからSOSの連絡が…。」


「わー、ほんまかぁ…。」



仕事終わり。今日もわたしは練習場に足を運んで、お手伝いに。昨日明暗さんには来なくて大丈夫と言われたけれど、お昼休みにチーフマネージャーから電話があり、今日来るはずだった人が体調不良で来れなくなってしまったため、代わりに出てほしいと言われて、本当は仁花ちゃんとご飯に行く約束をしていたが、そういう事情なら、とまた今度にリスケをしてもらって急遽手伝いに出ることになった


明暗さんにはチーフマネージャーから伝えておくとか言っていたけれど、忙しかったのかな?


わたしがアリーナに入った瞬間、明暗さんが血相を変えてこちらにすっ飛んできて、なんで来たのかなんて言うもんだから、もしかしてわたしが来たらまずい事情でもあったのかと不安になる。うわあ、と額に手を当ててがっくりしている明暗さんに恐る恐る開く口



「あの、来たらまずかったですか…?」


「あー…いや、誤解ないように言うておくんやけど、別に都築さんが悪いんやなくて、その、な。」


「あ、都築さーん!丁度良かった!!アドラーズの人たち来たから、ロッカールームに案内して鍵開けに行ってー!」


「アドラーズ…?」


「あちゃー…。」



わたしと明暗さんの間に割って入ったチーフマネージャーの声に、ぴくりと体が反応。聞き間違えだろうか、と明暗さんに首を傾げながら、「今アドラーズって言いました?」と目で訴えれば、こくりと小さく頷かれて、自分の聞き間違えではないということがわかり、頭を過る飛雄の顔


だから明暗さん、あんなに慌てていたのか…。


アドラーズ、と言えば飛雄が所属しているチームだ。飛雄とわたしが元夫婦であることは宮さんによって既に明暗さんにはバレている。だからきっと気を遣って居合わせないようにしてくれたんだ。気を遣わせてしまって申し訳ないという気持ちと、結局それに動揺している自分の情けなさに少しの苛立ちを感じながらも、それを顔に出してしまうと明暗さんがまた変に気を遣ってしまいそうで、明暗さんに軽く会釈をして踵を返し、チーフマネージャーに指示された通り、急いでロッカールームの鍵を開けるためにアリーナから抜け出した

チーフマネージャーから受け取った鍵を手に、エントランスにいるアドラーズの面々をお出迎え。当たり前、というべきか、見知った顔ばかりが並んでいる。その中に勿論、飛雄の姿もあって。びっくりした顔をしている面々に「こちらです」と言って案内をするために、廊下の先にあるロッカールームへ足を向けた



「おい、影山。」


「…何すか。」


「おれの目にはお前の奥さんがいるように見えるんだけど。」


「そうっすね。」


「そうっすね、ってお前…え、何、どういうことだよ?」


「おれが知っているわけがないだろう。」



背後から聞こえてくる星海さんと飛雄の会話に思わず聞き耳を立ててしまう。飛雄の態度と今目の前にいるわたしのせいで、星海さんが混乱していて、それに対して飛雄は相変わらず我関せずで何のフォローもない。反応の薄い飛雄に代わって、答えを求めるように牛島さんに問いかけてもぴしゃりとシャットアウトされて何だか少し星海さんが可哀想だ。わたしが口を挟めることでもないので、ただロッカールームに案内をして、鍵を開けたらそそくさと退散しようとしたのに、アドラーズの面々がロッカールームへ入っていく中、飛雄だけが入口の前で立ち往生。退散しようとしたわたしの手首を掴み、制止したわたしを真っ直ぐ見据える二つの深い黒目



「何で、ここにいんだよ。」


「それは。」


「あ、都築さーん、宮くんが都築さんのことすごい探して…って、あれ、なんか取り込み中?」


「あ、今行きます。……飛雄、離して。わたし、行くから。」


「……ああ。悪い。」



角から現れたチーフマネージャーの声に、ぴくりと反応する飛雄の手。わたしと飛雄の異様な空気を感じ取ったのか、心配げにこちらを見てくるチーフマネージャーに笑顔で対応して、飛雄を振り返る。一瞬、ギュッと握られた手首。痛みを感じる前に、パッと離れていって、飛雄はそのまま踵を返し、わたしに背を向けてロッカールームへと入っていく。一人残されたわたしは、飛雄に掴まれ少し赤みを帯びた手首を押さえて、進んだ廊下を戻り、宮さんがいるであろうアリーナに急いだ

アリーナに入れば、ばちりと宮さんと目が合って、即座にこちらに駆け寄ってきた。何をそんなに急ぐ用事でもあったのか、「何ですか?」と首を傾げるわたしに宮さんは「何や、普通やん」とムッとした表情で言った。何だ、それ。どういう意味だ



「自分の泣き顔でも拝も思たのに。」


「何でわたしが泣かないといけないんですか。」


「飛雄くん見たら、いっつもこーんな顔してんで。」


「してませんよ、そんな顔!失礼な!!」



手でくしゃっと顔を歪ませて変な顔を作る宮さん。それをわたしの顔だと言うもんだから、バシッと右腕を力一杯叩いてやれば「いっ、たいな!試合前の大事な体に何すんねん!痛いわあ、ホンマ。今ので骨折れたわ」とか言われたが、知るか。大体何だその漫画の中にしかいないチンピラのような台詞は。わたしが叩いたぐらいで折れてたら、バレーのレシーブしてるだけで粉砕骨折してるわ

わざとらしく右腕を擦って、痛いアピールする宮さんを無視して備品庫へ足を向ける。大した用はなさそうだし、練習試合のために電光式スコアボードを準備する。何やら背後でやんやん言っている宮さんがいるが、聞こえない振りをして備品庫の電気をつけて中へ。奥の方の床に直置きされている電光式スコアボードを電源コードとともに持ち上げようとして、それを横から攫う手。何、と横を見上げれば、ゴンッ、と鈍い音を響かせておでことおでこがぶつかる音が脳内に響いた



「痛っ。何するんですか!」


「さっきの仕返しや。」


「さっきのは宮さんから喧嘩を売ってきたのに。ていうか、それ、わたし持つんでいいですよ。宮さんはちゃんとアップしてきてください。」


「……ほんまに、大丈夫なん?」


「は?これぐらい持てますよ。失礼な。どんだけ非力だと思って。」


「そうやのうて、飛雄くん。」


「別に…大丈夫ですよ。だって、練習試合しに来てるだけだし。それ以上でも、それ以下でもないじゃないですか。それに、こうしてバレーに関わっている以上、飛雄とこうして会うことも、ありますよ。」



電光式スコアボードを宮さんから奪い、歩き出そうとするわたしの手を掴む宮さん。何ですか、と振り返るわたしの瞳の奥を探るように顔を覗き込んで、大丈夫か、なんて聞いてくる。一瞬、スコアボード持てるのかと聞かれているのかと思ったが、飛雄と顔を合わせて大丈夫なのか、と聞いているとわかって、肩を竦めて溜め息を一つ吐き出す


まるで、自分に言い聞かせてるみたい。


宮さんに言った言葉を反芻して、そう思った。別に、練習試合をしに来ているだけで、何もそれ以上でもそれ以下でもない。それに自分で選んだから。ここに手伝いに来ているのは自分の意思で選んだこと。バレーに関わる以上、どう足掻いても飛雄と関わる可能性があるのは必至。だから、どうってことないのだ、と自分に言い聞かせているみたいで、居た堪れなさに飛雄に掴まれた手首が、少し熱くなる



「だからわたしは大丈夫なんで。ほら、行きますよ。」


「何や、真緒ちゃんかっこええな。」


「何がですか?」


「おれは、あんまり大丈夫ちゃう。」


「は?え、うわっ、とと。」



アリーナに戻るために踵を返し、「ほら、行きますよ」と言って歩き出そうとするわたしの耳に、二人きりで、静かなこの備品室に宮さんの呟きが、ひどく大きく聞こえた。伸びてきた宮さんの手に掴まれる腕。振り返ったわたしの頬に、さらりと軽く触れる宮さんの指先があまりにも冷たくて、びくりと肩が跳ねた。思わず電光式スコアボードが手から滑り落ちそうになって、慌てて持ち直す手を宮さんが手に手を重ねるようにして支える



「あ、すみません。もう大丈夫です。一人で持てます。」


「真緒ちゃん。」


「は。」



視界に影が差す。あ、やばい、と思っても、両手が電光式スコアボードを持つ手で塞がっていて防ぎようがない。近づいてくる宮さんの顔に、スッと顔を俯かせて避けるも、わたしの手に重ねていた手を離して、顎を捉える。抵抗虚しく持ち上げられる顔。唇がぶつかるまで、あと数センチ



「ちょ、ちょっと、部外者の立ち入りは困るんですが…!」


「ちょっとマネージャー、どういうこと?話、通してくれたんじゃないの?」


「今度のドラマの役作りのために見学させてほしい旨、連絡して許可は頂いているんですけど…。」


「え?あの、それなら女子チームの…。」


「選手の役じゃないわよ。」


「ちょ、芹香さん、それ以上は…。」


「公式の情報しか言ってないでしょ。それにここには知り合いが…あ、いたいた。影山くん!」



扉の外で聞こえたその声がひどく甘ったるくて、呼吸が止まりそうになった。



砂糖に侵される肺
酸素を取り込む隙もなく、窒息する。


(真緒ちゃん。)
(……。)
(真緒、ちゃん…?)
(彼女、の声。)
(は?彼女?…ああ。)


鼻がぶつかって、動きが停止。扉の外から聞こえる声に聞き耳を立てて、視界が揺れた。下唇を噛むわたしを見下ろす宮さんがわたしの名前を呼ぶも、それがひどく遠くで聞こえた気がした。この甘い声は聞いたことが、ある。そして、耳に入った名前に文字情報として覚えがあって。ドッドッとうるさいくらい心臓が鼓動を刻む。その音で何も聞こえなくなりそうな隙間を縫って、入ってくる甘くて、胸やけをしそうな、声で呼ぶ名前の音と、その響きに思わず震える声で呟いた言葉を拾った宮さんが備品庫の外に視線をやり、はあ、と不覚と大きな溜め息を吐いた。

あとがき


やっと出せた彼女。
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