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「お疲れ様でーす。お先に失礼します。」


「あ、都築さん。」


「はい。」


「明日の練習は手伝いに来んでええからな。」


「え?大丈夫ですよ。チーフマネージャーからは出来れば来てほしいって言われているんですけど。」


「あ、いや、おれから言うておくから。」


「?わかりました。」



練習終わり。備品チェックを終えて、給湯室の水回りの掃除も終わり、更衣室で着替えて居残り練習している面々に声を掛け、お先に失礼しようとしたところを明暗さんに呼び止められる。何かやり残したことでもあるのかと思ったら、明日の練習はお手伝いに来なくても大丈夫という連絡で。チーフマネージャーさんには明日は忙しくなるから手伝いに来てほしいと言われていたけれど、大丈夫になったのだろうか?


まあ、どっちでも、いいか。


手伝いがあるなら行くだけだし、なければ家に帰るだけ。明日は金曜日だし、日向は練習があるだろうから、仁花ちゃんをご飯にでも誘ってみようかな。家探しの時のお礼もまだできていなかったし。そんなことを考えながら、アリーナで練習している面々に改めて挨拶をして踵を返す



「あ、トイレットペーパー買わなきゃ。」



練習場を出て、数分歩いて最寄り駅へ。道すがらトイレットペーパーの在庫がなくなっていたことを思い出し、最寄り駅の線路図を見て、携帯電話に表示される時刻と相談。現在20時52分。家の近くのお店は21時閉店で、着く頃にはもう閉まっている時間だ。大きめのドラッグストアであれば22時でもやっているはず


確か家の最寄駅から2駅離れたところに大きめのドラッグストアがあったっけ。


携帯電話でブラウザアプリを立ち上げて、検索。やっぱり、2駅離れたところにある。今から行けば余裕で間に合う。トイレットペーパーとついでにお風呂の洗剤や柔軟剤も買い足しておこう、そうしよう。思い立ったら吉日、とICカードに1000円をチャージしてピッとカードを読み込む音を響かせながら改札を通り抜ける。家方面のホームで電車をぼんやりと待って、やたらと周囲に響く駅のアナウンスを聞いた。ホームに入ってきた電車に乗って、動き出した電車の車内でゆらりゆらり。疲れも、まあまあ溜まっている。目まぐるしい毎日で一人電車に揺られるとドッと肩に疲れがのしかかった

こくり、と舟をこぎそうになったところで目的の駅に到着。落ちかけた瞼を何とか開いて、人の波に呑まれながら電車を降りたら、ドラッグストアのある出口はどっちか確認をして、改札を通り抜け、くるりと踵を返してドラッグストアへ向かった。駅を出て、数メートル。どうやら駅と直結しているビルに入っているらしい。すぐに目当ての看板を見つけて入店音を響かせながら店内へ



「トイレット、ペーパー。トイレットペーパー…。」



天井にぶら下げられた商品の案内表示を見ながら探索の末、目当てのトイレットペーパーの棚に到着。トイレットペーパーも色々な種類があって、目移りする。シングルとダブル、香り付きとか再生紙とか、芯あり芯なし。じっくり見て結局いつものメーカーのダブルを手に取って次へ。目的もなく、とりあえずフラフラと店内を彷徨って柔軟剤コーナー。これまた種類豊富でどれにしようか迷う。今使っているものに不満はないけど、香りが甘すぎるような気がするし



「それ、臭えよ。」


「………!?」



これはどんな匂いかな、と香りのテスターに手を伸ばそうとして、静止。正確には、横から伸びてきた手に制されて動けなかった。わたしの手首を掴む、誰かの手。ギギギ、と油を差していないロボットのようにぎこちない動きで恐る恐る横を見上げて、ばちりと合う黒目



「な、何でっ。」


「買い物。」


「いや、そうだろうけど、そうだろうけどさあ…。」


「トイレットペーパー切らした。…そっちも同じだろ。」


「……まあ、そうね。」



わたしの手元と隣に立つ飛雄の手元を見て、小さく頷く。その手にはどちらも同じトイレットペーパーが握られている。それも同じメーカーのダブル、だ。「お前、シングル派だっただろ」と言われたが、それは昔の話で。確かに、実家がシングルを使っていたから、飛雄と暮らす前はシングルを使っていたが、飛雄が文句を言ってダブルにしたんじゃないのよ。まあ、それから癖のようにダブルを使うようになってしまっているんだけれども。特にこだわりもないし。ていうか、飛雄もよくわたしがシングル派だったこと覚えてるな。そういうどうでもいいことは覚えない人だと思っていたけど


って、いやいや、トイレットペーパーはどうでもよくて!


ついついトイレットペーパーの方に気がいってしまったが、問題はそこではない。なぜわたしの手を掴んでいるんだ、飛雄は。しかも、試そうと思っていた柔軟剤のテスターを嗅ぐ前に臭いからやめとけと止められるし。意味がわからない



「手、離して。」


「ああ、悪い…宮さんは?」


「宮さん?まだ練習してるんじゃない。木兎さんと日向に捕まってたし。」


「ふーん。」


「そっちこそ、彼女は。」


「いねえよ。」


「でも、早く帰んないと心配するんじゃないの。」


「誰が心配すんだよ。」


「は?」


「は?」


「この間みたいに電話かかってくるんじゃないの。」


「かかってこねえよ。別におれが何してようと関係ねえし。」



何て冷たい男なんだか…関係ないって。仮にも彼女でしょうに。


干渉されるのが嫌いなのはわかるけど、別に何してるかなって心配するぐらい普通だろうに、それを「関係ない」の一言で一蹴されたら、いくら彼女でも、というか、誰でも傷つくと思うんだけど。何で、こう、乙女心のわからない奴なんだろうか、本当。不器用もここまでくると、不器用という言葉で済まないと思う。無神経と言う名の暴力だな、うん

彼女の話題を出すと飛雄が段々不機嫌になっていくのを感じて、柔軟剤のテスターをいじりながら別の話題を探す。なぜかわたしに倣ってテスターをいじる飛雄。別に話を続ける必要はないんだけど、何となく、この時間に少し名残惜しさを感じてしまって。何か話題はないか、思考を巡らせる



「そういえば、イタリア行きはどうなったの?もうすぐでしょ。」


「あー……半年後になった。」


「は?来月じゃなかった?」


「ちょっと、やり残したことがあったんだよ。まあ…それも、もういいっつーか。」


「やり残したこと?」


「……。」


「飛雄?」



イタリア行きを半年に先延ばししてでも、飛雄がやり残したことって何だろう?単純に思ったことをストレートに口にして、投げかけてみる。投げかけた質問に、テスターをいじっていた飛雄の手が静止。急にぴたりと動きを止めて、口を噤むもんだから、どうしたのか心配になって、横にいる飛雄を見上げる。柔軟剤が並ぶ棚を眉間に皺を寄せながら見つめる飛雄。何度か口を開いたり、閉じたりを繰り返して、次いでキュッと唇を引き結び、ゆっくりこちらを向いて交差する視線

こちらを見る飛雄の顔。思わず、かたり、と鳴って床に落ちてしまったテスターを拾おうとする手を、飛雄が掴む。何、と言おうとしたわたしの言葉に被さる、飛雄の声



「真緒。」


「何?」


「…この後、少し話せるか。」


「でも。」


「本当に少しでいい。1分でも、2分でもいいから。」


「えっと…わたしは、大丈夫だけど。」


「すぐそこに…。」


「……電話、鳴ってる。」


「チッ。」



懇願するかのような飛雄の言葉に思わず頷く。次の言葉の続きを紡ごうとする飛雄の声に被さるように、鳴り響く着信音。わたしのものでは、ない。と、いうことは、飛雄の携帯電話が鳴っている。携帯電話のディスプレイを確認して、舌打ちを一つ。この間みたいに電話に出るのかと思いきや、そのまま電話を切ってしまう飛雄。いいのか心配になりながら飛雄を見上げるわたしに、「いいから」と言って、レジに向かって掴んだ手を引いて大股一歩。それでも再度鳴る着信音がいやに耳についた



「本当に出なくていいの?」


「いい。」


「でも、さっきからすごい鳴って。」


「いい。貸せ。」


「あっ。」



わたしが手にしていたトイレットペーパーを奪い取って、レジに置く。店員さんが「ご一緒ですか?」と聞いて、それに「はい」と端的に返答する飛雄。お金、と鞄から財布を取り出そうとするわたしを手で制して、チノパンのポケットから財布を取り出し、そこから1000円を金銭トレーに置く。お釣りをもらって、テープを貼ってもらったトイレットペーパーを一つ、わたしに手渡して、「行くぞ」と言いながら、反対の手を引き、ずんずん前に進んでお店の自動ドアを潜った

飛雄とわたしの一歩は違う。一歩飛雄が進む度に、二歩半わたしの足が動く。パンプスではなかなかに辛い動き。足が縺れそうになりながら、何とかついていくも息が上がる。その間も鳴り続ける飛雄の携帯電話。耳障りで、胸が痛い



「ちょ、ちょっと待っ、飛雄っ!ちょ、待っ、て、待ってって、ば!」


「……悪い。」


「はあっ、はあっ。」


「真緒。」


「はっ、と、飛雄?」


「………。」



息を整えるために浅い呼吸を繰り返すわたしを呼ぶ、飛雄の声。わたしの手を離して、伸びてくる飛雄の手。わたしの顔の目の前でぴたりと静止する。鳴り続けていた携帯電話の音が止んで、静寂が二人の間を占拠する。わたしを目を細めながら見つめ、飛雄の手がゆっくり頬のすぐ横を通る、その瞬間、さっきとは違う機械音。ハッとしたような顔で飛雄が伸ばした手を引っ込めて、その手を頭の後ろに。ガリガリと乱暴に後頭部を掻き毟って、携帯電話のディスプレイを見て、タップする画面。次いで、びっくりしたような顔をして、くるりと踵を返し、わたしに背を向ける



「悪い。」


「飛雄…?」



一度だけ、こちらを振り返りすぐに前を向いて走り出す飛雄。突然のことに置いてけぼりになるわたし。足が動かなかった。一歩も、動かず、言葉すらも唾液とともに呑み込んで。走り去る飛雄を追いかけるように、わたしの背後からひどく冷たい風が駆け抜けていった。



伸ばす手すらも。
動かないまま、石化していく体。


(お前、歩幅ちっせえ。)
(違う飛雄が大きいの。)
(チビだから仕方ねえな。)
(違う飛雄が大きいの!)
(もっと飯食え、飯。)


一人になって、なぜか昔のことをふと思い出す。あの日、飛雄が出て行くまで、こんな風に置いて行かれたことなかったな、なんて。歩幅が違うわたしをいつも馬鹿にしながらも、それでも隣を歩かせてくれた。隣を歩いてくれた。こうなる前は走り去るきみの背中を見ることなんて、なかったな。いつだって、手を引いて歩いてくれて、動かない足を恨めしく思うことなんて、なかった。振り返った時の、きみの顔もそうだ。きみのあんな顔、見たことなかった。なんで、あんな顔、するんだろう。不器用にも、いつも真っ直ぐ前だけを見据えるきみが後ろを振り返った時に、ひどく胸が痛くなったのは何でだろうか。ぽっかり空いた胸の穴を冷えた風が通り抜けていって、見えぬ答えも一緒に攫っていった。

あとがき


トイレットペーパーって意外と好み分かれますよね。ウチはダブル派です。

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