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肩口に当たる吐息に、びくりと肩が跳ねる。背中越しでもありありとわかるほど不機嫌なオーラを放っていて正直関わりたくはないが、身動きのできない現状に溜め息を一つ



「えっと、何ですか…?」


「ふーん?」


「いや、ふーん?て…何でわたしこんなに追い詰められているんですかね。とっても邪魔なんですが…。」


「わからへんの?」


「はい、全く身に覚えがありません。ていうか、ちょ、本当、息、擽ったいです!」



今日も今日とて、お手伝いのために会社から練習場に直行、更衣室で着替えたら、頼まれたドリンク作りのために給湯室へ。ボトルに粉と水を入れてシャカシャカと振っていたら、急に背後から、どん、とワークトップに着かれた手。ぴたりと背中に当たる温もりに振り返ることは叶わず、身動きのできない状況で、ドリンクボトルを振っていた手を止めた。

大体こんなことをする人なんて、思い当たる人は一人しかいない。振り返らなくてもわかってしまう自分に舌打ちしたくなる気分で、問いかけてみれば、のらりくらりと核心には触れない意味のわからない答えが返ってきて、その上、その口から吐き出される言葉とともに耳元に当たる息が擽ったい



「えっと、練習中、では?」


「そうやね。」


「じゃあ、練習に戻りましょうよ。」


「真緒ちゃんがきりきり白状してくれるんやったら、すぐ戻るで。」


「白状って何をですか?」


「身に覚えないんか?」


「本当に全くないです。」


「おみおみと翔陽くん。」


「は?」



佐久早さんと日向…?二人が関係してるってこと??


二人に関係すること、といえば、今日一緒にノートパソコンを運んだけど、宮さんが気にするようなことあったっけ?特に思い当たる節がない。その後も特に何かあったわけじゃないし、経理部に真っ直ぐ戻ったし、業務中は別に顔合わせていない。どこに宮さんが不機嫌になるスイッチがあったのか、思い返すも首を傾げるばかりだ。もしかして宮さんも一緒にノートパソコン運びたかった、とか?いや、それは大分意味わからんな。じゃあ、何だろうか。さっぱりわからない。



「ほんまに思い当たる節はないんか…?」


「はあ、さっきからそう言ってるじゃないですか。ていうか、本当邪魔です。」


「翔陽くんから聞いたんやけど、聞き間違いやったんか…?」


「スルーしないでくださいよ!退いてってば。」


「いや、真緒ちゃんからって言うてたはずやねんけど…。」


「自問自答して自分の世界に入るなら退いてください!」


「話噛み合うてなかったんやろか…。」


「おーい宮さん、わたしの話聞こえてますかー?」



急にぼそぼそと自問自答を始める宮さんに溜め息を一つ。退いてくれる気はないらしい。わたしだってやることあるんですけどね、と思いながらもこの状況では何もできない。とりあえず、手の届く範囲でできること、と後ろにいる宮さんは無視して目の前にあるドリンクボトルをシャカシャカと振って、ドリンク作りを再開する



「真緒ちゃん。」



シャカシャカとドリンクボトルを振る音と宮さんのよくわからない呟きが占拠していたこの給湯室に急にこだました自分の名前にびくりと肩が跳ねた。何だ急に、と思いつつもドリンクボトルを振りながら「何ですか?」と反応したのに、それに対して返ってくる言葉がない。立ったまま気絶でもしているのか?と心配になるほどの反応のなさで、宮さんの名前を呼べば、ぴくりと反応するワークトップに置かれた手

ゆっくり、ワークトップから宮さん
の手が離れて、少しできる隙間にやっと動ける、と思った瞬間、ぐるん、と体が反転。視界が回って、目の前に不満たらたらな宮さんの顔。眉間に大量の皺を蓄えて、なぜかわたしに手を差し出してくる


何だ、この手?


手のひらを見せるように、ずいっと前に出してきて、それ以上何も言わず、動かず。ドリンクが飲みたいのか?と思って、作りたてのドリンクをぽん、と差し出された手のひらに乗せてみれば「ちゃうわ!」と怒られる。なんだ、違うのか。考えてもよくわからないので、もうストレートに「何ですか、この手は」と聞いてみても、無言でずいずいと前に突き出してくる手のひら



「この手を見て何か思い浮かばへんか。」


「えっと…わたし、手相は見れないですけど。あ、でもこの間テレビで見た金運線はわかりますよ。」


「そうそう、おれの金運どうや…って阿呆か!手相なんか見てもらお思ってへんわ!!」


「もー!何なんですか!!宮さんの手を見たって何も思い浮かびません!!男だったら回りくどいことしないでストレートに言ったらどうですか!面倒臭い!」


「……クッキー。」


「は?」


「おれの分は?」


「は?」


「おれの分のクッキーはないんか!」


「……クッキーって、何のことですか?」


「おみおみと翔陽くんにあげてたやろ?!」


「…ああ!はいはい、あげましたね。え、そのクッキーがどうしたんですか?」


「おれの分はないんか!」


「ないです。」


「ないんかい!!」



やっと合点がいく。ずっと何のこと言っているのかわからなかったが、佐久早さんと日向にあげたクッキーでやっと答えに辿り着くことができた。宮さんの欲しかったものはどうやら三木元さんからもらったあのクッキーらしい。おれの分はないのか、と聞かれながら差し出された手に、ストレートにないと答えれば、給湯室に響き渡る宮さんのよくわからないツッコミの声


最後の1枚は課長にあげちゃったし。


三木元さんからは5枚しかもらってない。佐久早さんに日向と日向に預けた仁花ちゃんの分、河村さんと課長にあげてぴったり5枚。特にあげたい人もいなかったから、何も考えず渡してしまったんだけど、もしかして宮さんはあのクッキーが物凄く食べたかったんだろうか?クッキーが大好物とか?でも、ないものは、ないし



「何でおれの分ないん?!おみおみや翔陽くんはあって、何でおれの分がないんや!」


「そう言われても…5枚しかなかったですし。」


「5枚?!もう少しあるやろ、普通!」


「知らないですよ、そんなの。三木元さんに言ってください。」


「は?三木元って誰や。」


「担当の三木元さん。」


「何の担当…?」


「派遣の。」


「派遣の担当とクッキーの繋がりがわからん。」


「あのクッキーは派遣会社の方で配ってるクッキーなんですよ。もう何なんですか。そんなにクッキー好きなんですか?」


「……はあぁぁぁぁぁあ。」



何だ、急に溜め息吐いて。失礼だな、この人。


質問に答えてあげれば、それに対して、深くて大きな溜め息で返されてムッとする。何なのだ、一体。わたしが何をしたと言うのか。溜め息を吐かれる謂れはないし、訳のわからないことで仕事の邪魔をされて溜め息を吐きたいのはこっちなのに

唇を尖らせるわたしを他所に「もー、何やねん」と言いながら、頭を乱暴に掻きむしる宮さん。何やねんはわたしが言いたい台詞ですけどね、と思いながら、溜め息を一つ。溜め息を吐いたわたしを見て、なぜかこっちをキッと睨みつけながら、少しできていた距離をずいっと詰めてくる宮さん。本能的に後退して、背中に当たる金属特有の冷たくて固い感触。何だなんだと事の処理ができぬ間に、ガッとわたしの後頭部に回る宮さんの手。グイッと力任せに引き寄せられ、嫌な予感にすかさず手で唇をガードすれば、それに構わず軽いリップ音とともに手のひらにぶつかる温もり



「これで勘弁したるわ。」


「は?……はあ?!」



くるりと踵を返して「ほな、お仕事サボったらあかんで」と言って、手をひらひら振りながら給湯室を出ていく宮さんの背中。グッと握り締めればふるふると震える拳。



「こんっの、変態セクハラ狐がー!!」



やり場のない怒りに声を大にして叫べば、給湯室にこだまして、静かに霧散した。



狐が出る給湯室
クッキーをお供えできないなら、悪戯するぞ、と。


(め、めめ明暗さん、給湯室から都築さんの怒鳴り声が…。)
(ああ、宮やろ、どうせ。気にすんなや。)
(気にするなって…でもでも、なんかさっき宮さん不機嫌だったし。)
(ふふん。)
(うわあ、ご機嫌だあ…。)


狐につままれた気分。勘弁してやるってなんだ、勘弁してやるって。しかもその上、勝手に手のひらにキスして上から目線。意味が分からないし、セクハラだし、やり逃げだし。宮さんは人のことを何だと思っているんだ、本当。安売りした覚えはないのに、ちゅっちゅっ、とふざけやがって。手の甲で押さえる唇。はあ、と溜め息を一つ吐いて見上げる白い天井。蛍光灯の明かりで目がチカチカする。思い返す、さっきのこと。そして、今までのことに、最近告げられた宮さんの想い。面倒だからとあまり考えないようにしていたけれど、こんなの、良くない。ああやってキスをされそうになったり、抱き締められたりすることに慣れだしちゃってる。そんなの、ダメだ。ちゃんと、しないと。「結局、わたしに隙があるから、いけないんだよなあ」と呟いた言葉は一人の給湯室によく響いた。

あとがき


クッキー1枚でカリカリしちゃう宮さん。
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