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なんで、飛雄がそんな顔をしてるのよ。寂しげな、そんな顔をどうして。ぐるぐる頭を駆け巡る思考が処理できず、瞬きを忘れたようにただ目の前にいる飛雄を見つめた。

何も言わず顔を見つめるわたしに向かって「大丈夫か」と声をかける飛雄に、「うん」と静かに頷けば「なら、いい」とそれ以上何も言わずに、ただそこに立ち尽くす。飛雄のよくわからない行動に、どうしたらいいかわからず、「お手洗い、行くから」とか別に言わなくてもいいのに、そんなことを言って飛雄の横を通り過ぎようとするわたしの腕を、ガシッと掴む飛雄の手。わたしの腕の肉に食い込むほどギュッと強く掴まれ、突然のことにびっくりして、肩が大きく跳ね、思わず足を止めた



「真緒。」



名前を呼ぶ、飛雄の声。わたしの腕を掴む飛雄の手がひどく熱を持っていて、全身に緊張が走った。心臓がうるさいくらいに、ドッドッと脈打って主張を始める。思わず噛み締める下唇がピリッと痛んだ。その痛みで、少しだけ冷静になる頭。こんなところ、誰かに見られたら大変だ。ただでさえ、飛雄は目立つ。



「…離して。」



何とか搾り出した言葉。トイレに続く廊下に静かに反響する。いつも通りの自分の声音だろうか。声は、震えていないか。変なところはないだろうか。飛雄の顔を見れるわけもなく、少し俯きがちに入口にある、トイレの赤い女性マークをただ見つめた

離してと言ったのに、一向に離れる気配がない飛雄の手。それどころか、さっきよりもずっと強く握り締められて、ぎしぎしと骨が痛む。「痛いって」と言っても、その手の力は緩まることはなく、なぜかグイッと引き寄せられる体。飛雄の目の前に立たされて正面切って飛雄と対峙する体勢になる。悪足掻きするように目線を合わせないように、飛雄の顔を見ないようにと俯かせる顔



「さっき、一緒にいたの宮さんか…?」


「……うん。」


「そうか…まあ、そう、だよな……。」


「飛雄…?」



やっぱり、さっきの見えていたんだね。


ステージ上の飛雄とばっちり目が合ったし、ステージはあの席より高い位置にあったから、あの広場がよく見渡せたと思う。だからわたしだけではなく宮さんのことも見えていたとは思っていたけれど、改めて口にされる居心地の悪さ。頷く以外、何を言っていいのかわからず、紡ぐ言葉を探している間に、飛雄が何かに納得する。ぽつりと「そうだよな」という呟きを落とす飛雄の声音が少しだけ、諦めにも似た何かを含んでいるようで、その言葉の意味を確かめたくて思わず顔を上げた先に伏せた目。飛雄の眉間に刻まれた皺を見つめながら、どうして飛雄がそんな顔をしているのか考えるも、当たり前のようにわたしは答えを持ち合わせていない

聞きたいことはたくさんあるし、言いたいこともたくさんあるのに、どれもこれも言葉にならなくて、わたしはただ息を呑むだけ。何度唾液を嚥下したかわからないほどの数分間、何もせずに互いにただ石化。次いで、伏せていた飛雄の目が、ゆっくりこちらを見て、どこまでも黒い瞳が、わたしを射る。その眼光の強さに呼吸を忘れそうになった



「真緒。」



二人きりの通路によく響く飛雄の声。静かにこだまして、わたしの耳にも反響する。返事も、ただの一言も紡げずにただただ飛雄を見つめた



「おれ。」


「おーい、真緒ちゃ……あれ、飛雄くん…?」


「あ、宮さん…。」


「二人で何してるん、こんなところで…?」


「……別に、何もないっス。ここでたまたまぶつかっただけっすよ。あー…真緒、次は気を付けて、歩けよ。」


「わっ。」


「っと。」



何かを言いかけた飛雄の言葉を潰すように、わたしが曲がってきた角から現れた宮さんの言葉が重なる。振り返った先に、目を丸くしながらこちらを見る宮さんが立っていた。つかつかとこちらへ歩み寄り、何をしているのか聞いてくる宮さんになんて答えていいかわからず、困惑するわたしを見かねてなのか、飛雄が一度目を伏せ、次いで、宮さんを真っ直ぐ見返しながら紡いだ言葉たち。そして、それと同時に、痛いくらいに強く握り締めていた腕から手を離し、とん、とわたしの肩を軽く押す。押された衝撃で数歩後退して、背中に宮さんの胸が当たった。よろけたわたしを抱き留める宮さんの手がキュッと服が皺を寄せるほど力が込められ、少し、痛い



「…真緒を頼みます。」


「……っ。」



飛雄が去り際に、わたしの肩にぽんと手を置いて、宮さんに向かって放った言葉。飛雄が何を言いたいのか、わからなかった。その言葉の意味が、わからない。


何、頼むって。頼むって、どういうことなの。


追いかけようとした足は、動かない。問いかけようとした言葉は、発せない。手を伸ばそうとしたのに、わたしのこの指はぴくりとも動いてくれなくて。神経麻痺だ。脳味噌が機能を停止したらしい。何で、宮さんにわたしを頼むの?どういうことなの、教えてよ。そう聞きたかった。わからない。飛雄の考えていることが。わたしにはわからないよ、教えてくれないと、もう、わからないよ

処理しきれない言葉と感情たちに、ぐにゃり、となぜか歪み始める視界。俯いて、下唇を噛み締めると、じわりと口内に広がる鉄の味に顔を歪ませる



「真緒ちゃん…。」



わたしの名前を呼ぶや否や、後ろから宮さんの腕が伸びてきて、次いで、ギュッと背中越しに抱き締められる。肩口に当たる宮さんの呼吸が、まるで溜め息を吐いているみたいだった。力強く抱き締められて、身を捩ることも、離してと言うこともできない。抵抗する力も、気力もない。ただ、涙が溢れてきそうで、泣きそうになっている顔を見られるのが嫌で、顔を手で覆った。そんなわたしに構わず、宮さんがわたしの肩口に顔を埋める



「真緒ちゃん。」


「な、んですか。」



震える声を隠すように不自然に詰まった返事。目敏い宮さんには、わたしが泣きそうだということぐらい、きっとバレている。それでも強がって搾り出したわたしの言葉を聞いて、宮さんが、はあ、と溜め息を一つわたしの肩口に落として、ギュッとわたしの体を抱き竦めながら言葉を放つ



「もう、見てられへんよ。」


「……宮さん?」


「なあ。」


「はい…?」


「おれじゃ、あかんの。」


「え?」



上手く機能していない脳味噌にぶつけられた言葉たちが処理できずに、ぐるぐると脳内を巡る。答えに詰まる。意味など、わかっているのに、理解するのを拒否しているみたいだ。

言われている意味は、わかる。ちゃんとわかる。けれど、だって、まさか、そんな。いや、確かに、何となく、そうではと思ったこともあったけど、わたしの自惚れかもしれないと思ったし、ただ揶揄っているだけだと思っていた。確かにやたらと手を繋ぎたがったり、キスしてきたり…馬鹿みたいだけれどセクハラしてただわたしの反応の物珍しさに楽しんでいるだけだと思ってたから



「わたし。」


「いい、言わんでもわかっとる。らっきょくんの時、一緒におったし。」


「あの、だったら。」


「ええよ。今はまだ、真緒ちゃんが飛雄くんを好きなままでも。」


「何言って。」


「自分、嘘下手やな。もう恋をしないなんて言うて、飛雄くんのことがまだ好きなんは、バレバレやから。」


「……。」


「それでも、ええから。」


「でも。」



でも、と拒否する理由を探すわたしの体をぐるりと反転させて、宮さんと向かい合わせにされる。真っ直ぐ、わたしを見つめる宮さん。目を逸らしたくても、逸らせず、ただ、ごくりと口内に溜まった生唾を嚥下した



「真緒ちゃんが好きや。」



宮さんはそう言って、答えは聞かないと言わんばかりに、言葉を紡ごうと開きかけたわたしの唇に、吐き出そうとしたわたしの言葉ごと封じ込めるように噛みついた。



好きだけを受け止めろ。
答えなんていらない、と強引にも。


(んっ、み、宮さ、んう。)
(聞かへん。)
(いや、ちょ、んっ。)
(嫌や。)
(んんっ、あの、ま、待っ、て…!)


ジェットコースターのように物事が目まぐるしく動いて、酔ってしまいそう。脳味噌を正常に機能させないように、わたしの酸素を根こそぎ奪っていく宮さんの唇。無理矢理捻じ込まれた宮さんの舌に絡めとられる言葉たち。飲み切れなかった唾液が口の端から零れ落ちて、顎を伝い、わたしの服に小さな染みを作った。それらに思わず流されそうになる。嫌だ、と宮さんの胸元を押し返そうとするわたしの手を掴んで、通路の壁に押し付けられて抵抗できない。ゆっくり、離れていく唇。わたしと宮さんの間がどちらのものかわからない唾液で繋がって。肩で息をしながらずるずると座り込みそうになるわたしの腰を宮さんの腕が支えて、次いで、溜め息混じりに「好きなんや」と呟きを落としながら抱き竦められて、苦しさで息が止まりそうになった。


都合のいい男になっちゃう宮さん。そして、急に色々動き出す。
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