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朝7時。目覚まし時計の音で目が覚め、伸びを一つして起き上がる。シャワーをサッと浴びたら、昨日から準備しておいた服に着替え、化粧も忘れずに。いつものベースメイクに加え、薄いピンクのアイシャドウを乗せて、アイラインやマスカラも。最後に色つきリップを塗って、鏡を確認。次いで、普段は下ろしっぱなしにしている髪の毛をハーフアップにして、少しコテで巻いたりなんかして


よし、変なところはないな。


姿見の前でくるりと回って最終確認をしたら、ばたばたと玄関へ。あまり履かないヒールのある靴。足を入れて、大丈夫か確認し、ふと携帯電話の時計を見れば8時半を回ろうとしていて、急いでドアを開け、ばったり出くわした顔に思わず渋い顔をしてしまった



「あ、真緒ちゃん。」


「げっ。」


「会って開口一番何なん?真緒ちゃん…お洒落さんしてどっか行くん?」


「あー…そうですね!」


「え、おれも行く。」


「は?ダメです。」


「何でや!」


「何でも。大体なんでついてこようとするんですか!ストーカーなんですか?」


「ストーカーちゃうわ!別にええやん、おれがおっても!誰かとデートでもするわけちゃうやろ?相手おらんやろし。」


「はあ?!わたしだってデートする相手ぐらいいますよ、失礼な!赤葦さんとデートしてくるんです!!」


「なっ?!」


「あ、時間に遅れる!それじゃあ!」


「え、ちょ、待っ、真緒ちゃん?!」



失礼なことを宣う宮さんの驚いた声は無視して「それじゃあ!」と言って手を挙げ、踵を返す。つかつかと少しだけあるヒールを鳴らしながらエレベーターに駆け込んで、行き先階である一階のボタンを押して閉まりかけるドアにかけられた手にギョッとした。こじ開けられたドアからずかずかとこちらに向かってくる宮さん。後退りしても、この狭い空間には逃げられる場所があるはずもなく、とん、とすぐに背中に当たる行き止まりの感触。どん、と顔のすぐ横で突かれた手。少しだけエレベーターが揺れて、ゆっくり閉まるドア



「な、何ですか。」


「赤葦とデートやって?」


「そうですけど。」


「何でや。」


「何でって…デートするのに理由はいらないでしょ?」


「自分、この前もう恋はしないとか言うてへんかった?」


「…言いましたけど。」


「言うてることとやってること、矛盾しとるやんけ。」


「そもそも宮さんには関係ない話じゃないですか?」



いつかの合コンの日みたいに、切羽詰まった顔で、わたしを問い詰める宮さん。何をそんなに追い詰められなくちゃいけないのか納得のいかないわたしが放った言葉に、グッと眉間に皺を寄せて、少し寂しそうな、それでいて苛立ちを含んだ瞳でわたしを見つめた。よくわからない宮さんの表情に困惑。立ち塞がる宮さんに「退いてください」と言っても、退いてくれない。それどころか、わたしの顎を捉えて、グイッと顔を上向かせる。何、と訳がわからず、頭の中で現状を処理している間に唇を寄せて、拒絶の言葉はぱっくりと捕食された


また、この人は…!


いつ人が来るかわからないエレベーターの中。離して、と暴れるわたしの手首を一つにまとめ、片手で壁に押さえつけて、深くなる口付け。酸素不足で頭がくらくらしてきた。抵抗できないわたしの後頭部に回る宮さんの手。せっかく結った髪の髪留めを奪い去って、留めをなくした髪の毛がハラハラと落ちる。一階に到着するエレベーター。ドアが開くと同時に離れていく宮さんの顔と手首を拘束していた手。わたしは肩で息をしながら、手の甲で唇を押さえて宮さんを睨めつければ、至極嬉しそうな顔をする宮さんの唇にわたしのリップの色が移っているのが見えて、かあっと頬が熱くなっていくのを感じた



「な、何するんですか…!」


「何や、自分。随分と可愛ええ顔するやん。」


「訳わからないし!しかもまた無理矢理キスして!わたしの唇、安売りした覚えないですけど!!」


「安売りってなあ…気、許すからあかんのやろ。無防備過ぎやて。」


「だから、気を許すとか無防備過ぎも何も無理矢理してるじゃないですか!」


「こういう状況に追い込まれる前に対処せな。」


「自分の家のエレベーターで痴漢されるなんて、どう対処したらいいんですか!ていうか、一階に着いたので、もう避けてください!」


「嫌や。」


「何朝からわがまま言ってるんですか。あと、髪留め返して。」


「いーやーや!」


「駄々っ子か!」



行き先階を押せとうるさく主張するエレベーター。早くしないと待ち合わせ時間に遅れてしまう。目の前に立ち塞がる宮さんを睨んでも全く効果がない。むしろ嬉しそうに見える。何だ、この人本格的にドMなのかな


本当のことを言うと、ついてきそうだし、なあ。


実を言うと、赤葦さんと出掛けはするが、デート、ではないんだけど。事は数日前、洗濯完了した赤葦さんの服を渡した時、赤葦さんに頼まれたのだ。宇内さんの漫画の資料集めのために一緒に動物園に行ってくれないか、と。この間のお礼もしないといけないと思っていたし、二つ返事で了承して、今日がその日。10時に上野動物園に集合なんだけれど、このままでは遅刻してしまう。だからといって、ここまでされて本当のことを言うのは何だか癪で。デートする相手いないとか言われちゃあ、ね。それに、本当のことを言えばついてきそうな勢いだ。何でこういう時に限って運悪く出くわしちゃうかな、と自分のタイミングの悪さを呪ったりして



「なあ、ほんまに赤葦とデートなん?」


「まあ、はい。そうですね。」


「そんな、お洒落さんして?」


「可愛いですか?」


「うん、可愛ええよ。」


「……あ、ありがとうございます。」


「あれ、照れたん?真緒ちゃん、照れたん?」


「うるっさいなあ!早く退いてくださいってば!時間に遅れるんで!!」



冗談で聞いてみたのに、マジトーンで返されて、一瞬思考が停止した。反応が遅れたわたしに面白いものでも見たというような顔をして揶揄う宮さん。うるさい宮さんの顎をぐいぐい押して仕返しをするも退いてくれない。なんてしつこいんだ!

反撃するわたしの手をいとも簡単に掴まえて、グイッと引かれる。宮さんの腕の中に閉じ込められて、暴れるも背骨が軋むだけに終わった。暴れれば暴れるほど、せっかく支度したものが崩れていく。はあ、と溜め息を一つ吐いて、抵抗をやめるわたしの耳元に宮さんが溜め息混じりに言葉を落とす



「行かせたないって言うたら、どうするん?」


「行きますけど。ていうか、離してください。」


「行くんかいな!この流れで!こないにも寂しげなおれを置いて行くんか!?」


「自分で言いますか、それ。だってもう赤葦さんと約束してますし。」


「嫌や。」


「嫌って言われても、凄く迷惑…。」


「そないストレートに言うたらめっちゃ傷つくやん…何なん、もー!」


「わたしが言いたいですけどね!もーって!」



平行線のやり取り。何がそんなに嫌なのかもわからないし、意味わからないし。唇を尖らせる宮さんに「全然可愛くないですよ」と言えば「可愛さなんて求めてへんし」とかよくわからない減らず口。背骨痛いし、遅れそうだし早く解放してほしい。それにエレベーターの中で、なんて迷惑なんだ、本当



「あの、何がそんなに嫌なんですか?」


「そないお洒落さんして、ずるいやん。」


「?宮さんもお洒落ですよ、たぶん。今は…だいぶラフな格好ですけど。」


「え、ほんま?嬉しい…って、ちゃう!ちゃうねん!おれが言いたいんはそういうんやなくて!!」


「じゃあ、何が言いたいんですか?」


「………。」


「何ですか。」


「いや、うん、まあ、ええやん。うん。」


「はあ?何ですか、ここまできて。さっきまでの鬱陶しさはどこ行ったんですか。」


「真緒ちゃん、めっちゃストレートやね…鬱陶しかったんか……。」


「え、なんか、すみません。」



がっくり項垂れる宮さんに謝れば「余計悲しなる…」と言われて、面倒なので口を噤む


本当よくわからないし、面倒な人だなあ。


どこで一喜一憂しているのか、宮さんの感情のスイッチが掴めない。あまりにも宮さんが肩を落としているもんだから、わたしが宮さんを虐めてるような気分になり、わたしはやれやれと肩を竦めて、いつもより少し近くにある頭をぽんぽんと撫でてあげれば、何かの仕返しかと思うくらい、ぎゅうぎゅうと抱き締められて体が悲鳴を上げた。人が優しさを見せたのに、酷い仕打ちだ!



「いて、いててて!ギブ、ギブギブ!やめてください!折れる!折れるって!」


「あーっ、もう、自分何なん?!」


「いや、もう訳わかんないですけど!とりあえず離して、退いて!」


「……離したら絶対行くんやろ。」


「行きますよ。」


「何で少しも躊躇わへんの?!」


「いや、だから赤葦さんとは約束してるし…。」


「ほな、おれとも約束したらデートに行ってくれるんか?」


「約束したら行きますよ。約束したら、ですけど。」


「念押し!…じゃあ、明日。」


「明日?!急すぎません!?いや、そもそも行くって言ってないですから!」


「約束してくれたら、退いたる。」


「えー…。」


「赤葦、待ってるんやろ?」


「あー、もう!わかりました!明日ね、明日!約束します!」


「よっしゃ。ほな、行ってらっしゃい。」


「何だろう、この敗北感…。」



パッと離れる拘束。どうぞ、なんて言ってマンションのドアまで開けて送り出される。とん、と背中を押されるままマンションを出て振り返った先に満面の笑みを湛える宮さん。仕方ないな、と苦笑を返して、鞄から携帯電話を取り出し、画面に表示された時間を見て、ヒールを鳴らしながら駆け出した。



あなたと明日、デートします。
脅迫して、約束して。


(あ、もしもし赤葦さん?!)
(都築さん、どうかした?)
(ごめ、ごめんなさい、ちょ、っと、遅れそうです…!)
(え、ああ、うん、大丈夫。大丈夫だから、ゆっくり来ていいから。)
(す、すみませんっ!)


どう走っても間に合いそうにないから、と赤葦さんに電話をして、平謝り。宮さんに捕まらなければ絶対に間に合ったのに、くそう…。履き慣れない靴で足がもつれる。急がなくていいとは言われたが、遅刻している手前、そういうわけにはいかない。信号待ちの時間で、ふとお店のウィンドウを覗き込めば、せっかく整えた髪も、引いたリップもぐちゃぐちゃで最悪だ。そう言えば、と髪の毛を触って確認。やっぱり、髪留めがない。もう、と唇を尖らせて、不自然ではない程度に少し整える髪。はあ、と溜め息を一つ吐き出して、青になった信号。横断歩道を渡りながら、「明日かぁ…」と独り呟く。せっかくお洒落したのに、と赤みのなくなった唇に触れて、先程宮さんから言われた言葉を思い出し、何とも居た堪れない気持ちになった。


先を越されてデートされてムッとする宮さん
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