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「ひいっ。」「都築真緒さん。」
「……さ、佐久早さん?!えっと、ここで、何を?」
「ちょっと休憩してただけだけど。」
「ここで、ですか…?」
「丁度人いなかったから。」
「あの、佐久早さん……ここ、女子更衣室、ですけど。」
明暗さんに頼まれて、今日もお手伝いに練習場へ。正式なサポートメンバーにはなれないけど、業務は定時で終わらせて、基本的に夜の練習時間だけの手伝いが主になってきた今日この頃。土日はたまに宮さんに強制的に連行されて手伝わされるけれど、そんなに多くはない。
大体は業務から練習場に直行しているから、着替え類は女子更衣室のロッカーに置かせてもらっていて、今日もまずはジャージに着替えようと女子更衣室のドアを開け、中を覗き込めば、電気の点いていない部屋の中心に置かれたベンチに人影が。そんなところに、しかも暗い中で人がいるとは思わず、幽霊か何かだと思い喉元で「ひいっ」と小さく悲鳴をあげれば、聞き知った声が聞こえて、目を凝らして人影を見れば佐久早さんがベンチに一人静かに腰掛けていて、これはこれで心霊現象以上の怖さがあった
いや、本当なぜここにいるんですか…。
練習を手伝っているスタッフさんに女性は少ない。ほぼ男性スタッフばかりで、日によってはわたししかいないこともあるぐらいだ。だからといって女子更衣室が使われないことはない。確かに人がいないけど、それなら男子更衣室も同じでは…なんて、色々ぐるぐると考えたが突っ込むのも面倒で、はあ、と溜め息を一つ吐き出して、とりあえず部屋の電気を点け、佐久早さんに向き直った
「あの、わたし着替えたいんですが。」
「着替えればいいだろ。」
「…いや、その、ですね。出て行ってほしいんですよね。」
「なぜ?」
「なぜって…佐久早さんがいたら着替えられないですし。」
「おれは気にしないけど。」
「わたしが気にするんです!」
「なんで?」
何、この人宇宙人なのかな!
なんでって、こっちこそなんで出て行かないのか聞きたいよ!と言おうとして、溜め息に変える言葉たち。何を言っても無駄なような気がしてきた。言ったところでなけなしのわたしの体力が奪われるだけなのが目に見えてわかる。だからといって、着替えないと動きづらいし…どうしよう。ぐるぐると思考を巡らせてみるも、何も思い浮かばない。このままだと約束の時間にも遅れてしまうし。そもそも、練習中の佐久早さんがなぜここにいるのか
じっと佐久早さんを見つめれば、佐久早さんに見返されて、黒目がちな瞳に居た堪れなくなる。何だってわたしの方が気まずい思いをしなければいけないんだろうか。佐久早さんの方が侵入している立場なのに、自分の部屋かのようにどんと構えているし、意味わからん
「そろそろ行かないと明暗さんに怒られると思いますけど…。」
「まあ、そうだね。」
「では、行った方が…。」
「都築真緒さんも早く着替えなよ。」
「あなたがいるから着替えられないんですけどね。あと、そのフルネーム呼び、何とかなりませんか…。」
「間違いではないだろ。」
「そうなんですけどね、すごく事務的な感じがして緊張するんですよ…役所とか病院に来た気分。」
「ふーん。」
いや、だから、と佐久早さんの反応の薄さに、暖簾に腕押し感がすごくて脱力。もうこれは何を言っても仕方ないような気がして、はあ、と溜め息を吐けば、ベンチをがたりと鳴らして立ち上がった。そして、つかつかとロッカー前にいるわたしのところまで歩み寄ってきて、わたしの顔を覗き込むように大きな体を屈める。ジャージのポケットに手を突っ込んでこちらに迫る姿はヤンキーさながらで、カツアゲに遭っている気分だ
「近っ!近いですって!距離感バグってるんですか?!」
「都築真緒さんが小さいから距離感掴みにくいんだよ。」
「わたしのせい!?」
「都築真緒さんが小さいのはおれのせいではない。」
「確かに…じゃなくて!」
そのまま、ずいずいこちらに近づいてくる佐久早さん。手で佐久早さんを制しながら「何ですか!」と聞いても、何も答えず、ただこちらににじり寄ってくる。逃げようにも背中にはロッカーで逃げ場がない。追い詰められて、距離を保つために前に出していた手も掴まれ、踏み出した佐久早さんの一歩が大きい。一気に数十センチの至近距離で顔を覗き込まれて、肩がびくりと跳ねる。そんなわたしをじとっと見つめて、なぜか、ふ、と小さく優しい笑みを溢す佐久早さん
「なんだ、意外と元気だな。」
「へ?」
「早く着替えてきなよ、真緒ちゃん。」
「なっ、な、ななな何、え、ちょ、何!」
ジャージのポケットに仕舞われていた手をぽん、とわたしの頭に乗せて一撫で。すぐに離れていく手。耳元に落とされた、わたしの名前が脳内にまでこだまして心臓が妙に早くなる。そんなわたしは他所に、くるりと踵を返し、ひらひらと手を振って、再度ジャージのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて女子更衣室を出て行く佐久早さん。ドッドッとうるさいくらいに心臓が脈打って、熱を持ち始めた耳を押さえて、佐久早さんが出て行ったドアを見つめた
「も、もう少し心臓に優しい心配の仕方してくださいよ…。」
たぶん、佐久早さんも知っているんだろう。飛雄のあの記事。だから、心配してくれたのだろうか。何だかそれがひどく擽ったくて、仕方ない
というか、さっき、佐久早さん笑った…?
なんて珍しいもの見ちゃったんだろう。あんな風に優しく笑うことも、あるんだな。いや、まあ、人間だし、笑うことだって普通にあるだろうけど、佐久早さん、だし。たぶん、そのせい。そのせい、だ。普段笑わない人が、笑うし、しかも、その笑みが優しかったから
「今日は、吉日、なのかも。」
ジーンズを下ろしながら、ぽつりと呟く。まだ心臓が痛いくらい鼓動を刻んでて。すー、はー、と深呼吸を繰り返す。少しマシになった心音に、脱いだジーンズを畳んでロッカーに突っ込んで、ジャージを履こうと手を掛けた瞬間、バンッとけたたましい音を響かせ、「おみおみー!ここにおるんかー!!」と言いながら開かれたドア。仕切りのカーテンもバッと勢い良く開かれる。ギョッとして振り返った先に、ばちりと目が合う顔がみるみる内に青ざめていって
「いや、ま、ちょ、ちゃう、ちゃうって、真緒ちゃん!」
「はあ?何がですか?何が違うんですか。」
「怖っ。ちょ、怖いって、真緒ちゃん。よお考えて。事故やん?!ほんまに事故なんやって!!」
「使用中の文字が見えなかったんですか?!」
「あ、あー、ほんまやー!使用中やった!いや、あはは。故意じゃないんやで。そう、故意やなくって!ちょっとラッキーって思ってるけど断じて故意じゃないんやで!!あ、真緒ちゃん、今日のパンツ可愛ええやん?!ええ感じやで!グッ!!」
「……出て行って、この変態っ!!」
「ぎゃっ!」
弁解の言葉をつらつらと述べて、グッジョブポーズで締めた宮さん。震える怒鳴り声とともに投げつけたタオルが見事、宮さんの顔面に命中して、少しだけスカッとする。逃げ出すようにドタバタと慌てて女子更衣室から出て行く宮さんに深い溜め息が出た
ここの人たちは本当にもう…!
そもそも佐久早さんがここに入り込んでたのもおかしいし、宮さんもここを探しに来て、しかもノックもなしに入ってきて馬鹿じゃないのか。使用中の札だって引っ提げていたのに、猪突猛進か。もう馬鹿、阿保、変態!
嫁入り前…ではないけど、パンツ見られたし……それもがっつり、見られたし。何がパンツ可愛いだ、腹立つ。グッジョブされたし。何にグッジョブしてるんだ、あの人は
「やっぱり、厄日だ!」
足に引っ掛けたジャージを腰まで勢い良く引き上げながら放った言葉が一人の更衣室にこだました。
微笑にハプニング
吉日転じて厄日と化す。
(タイミング悪男!)
(何やねん、もー、わざとやないって言うてるやろ!)
(はあ?!開き直りましたね!…もうお嫁に行けない。)
(パンツ一枚で大袈裟やな。自分、普段からあんなレースのやつ履いてるんか?とんだドスケベさんやな!)
(……明暗さん!!)
近くを通りかかった明暗さんに「宮さんがセクハラしてきます!」と泣きつけば「こら宮!」と拳骨されていていい気味だ。涙目でわたしの隣に戻ってきた宮さんが「何すんねん!自分のせいで怒られたやんけ!」とか意味わかんないことを言ってくるもんだから、あっかんべーをしてやった。責任転嫁もいいところだ。大体事故だとか故意じゃないとか言って、わたしがどういう下着をつけていたか記憶してるとか、それってがっつり見てるじゃん!そもそも、だ。佐久早さんがあんなところにいたせいで着替えられなくて、早く着替えていれば見られなかったし、宮さんも探しにくることもなかったはず。唇を尖らせながら少し離れたところにいる佐久早さんを恨めしげに見つめればぱちりと合う目。こちらにつかつか寄ってきて「何、真緒ちゃん」なんて言う佐久早さんに、宮さんが苦虫を噛み潰したような、ひどく面白い顔をした。あとがき
佐久早さんも心配してるんですよ。