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マンションへ続く道を一人で歩く頃にはすっかり酔いも醒めて、歩く足取りは確かなものになっていた。マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。10階のボタンを押し、この狭い匣に背中を預けて、はあ、と溜め息を一つ


ひどい、別れ方だ。


あと、1ヶ月もしない内に、飛雄はイタリアに行ってしまうというのに、なんて別れ方をしてしまったのか。じゃあ、あのまま流されていれば良かったのか?と聞かれると、わたしにも何が正解なのかわからない。自己満足かもしれないがきちんと自分の中で折り合いをつけて、背中を押すつもりだったのは確かなのに、どうしてこうなってしまったんだろう

エレベーターがわたし一人を10階まで運んでいく。到着を告げるアナウンスに、開くドア。エレベーターから一歩足を踏み出して、脱出すれば、わたしの部屋まであと少し。角を曲がって少し薄暗い廊下を進んだ先にあるわたしの部屋の前で、蹲る何か



「……宮さん?」


「ん……あ、真緒ちゃん。」


「ちょ、ちょっと!え、な、何してるんですか、こんな時間に、こんな場所で!」


「帰ってきたんか。思ったより早かったなぁ。」


「は?だってここわたしの家だし…。」


「うん、そうやね。」


「また風邪、引いちゃいますよ?」


「うん。」



暖かい日だと言っても、夜は冷える。風だって冷たいのに、こんな寒い廊下で蹲っていたら風邪を引いてしまう。それに、先日風邪を引いたばかりの宮さんだ。病み上がりならもっと体調崩しやすいだろうと、慌てて駆け寄り、蹲る宮さんと目線を合わせるように屈んで触れた手の冷たさにギョッとした



「冷たっ!何で自分の部屋にいないんですか!馬鹿ですか!!」


「真緒ちゃん帰って来たかわからへんやん。」


「いや、いやいや。そもそも何で待ってるんですか。」


「飯。」


「は?」


「飯、食いたい。」


「…はあっ?!食べてくださいよ、ご飯ぐらい!どんだけ寂しがり屋!!」


「真緒ちゃんの作ったのが、食べたかってん。」



だからって、プロのスポーツマンとしてどうなのよ!


喉元まで出かかった文句はごくりと飲み込んで代わりに、はあ、と溜め息を一つ。蹲る腕の中に隠した顔を上げて、わたしを見る宮さん。まるで捨てられて子犬を見ている気分だ。もうこんな時間だし、今からご飯なんて作ってられるか。ていうか、いい大人が一人でご飯食べられないなんてどうかしてるよ!とか色々言いたいことはあるが、仕方ないなあ、で片付けてあげよう。なんかいつもの元気がないし、今日だけ、特別に

こちらを見る宮さんに手を差し出す。きょとんとした顔でわたしの手と顔を交互に見る宮さん。あなたが待っていたんでしょうに、と思いながら肩を竦めて「ほら」と言って、すっかり冷え切った手を握り締めれば、握り返される力。手の甲を掴んだはずのわたしの手はいとも簡単に、その長い指に絡め取られて、指と指の間に宮さんの指を通し、キュッと握られる



「変な握り方しないでくださいよ。」


「こっちの方が暖かいやんか。」


「それは知らないですけど。」


「あと、好みの問題やな。うん。おれが、この握り方が好きなだけや。覚えといて。」


「もっと知らないですし。どうでもいいことはすぐ忘れる質なんで、ごめんなさい。」


「どうでもええて…めっちゃ傷ついたんやけど。」


「あー、はいはい。寒いし、中入りますよ。」


「ん。」


「何だってこんな夜中にご飯作らないといけないんですか。」


「オムライスが食いたい。」


「何言ってんだ、この人。お茶漬けしか出しませんよ。」


「お茶漬けて…せめて、うどんぐらい作れや。」


「ここに捨てておこうかな、本当!」


「あー、ここで野垂れ死ぬことがあれば、自分のせいや。」


「それこそ自分のせいでしょ!…はあ。はいはい、わかりました、わかりました。うどんね、うどん。」



どんだけわがままなのよ、と思いながらも、部屋の前で死なれたら寝覚めが悪いし、自宅が事故物件になるなんて堪ったもんじゃないので、結局わたしが折れて、うどんを作る羽目に。「寒いから早く入りますよ」と言って、手を引けば、小さく丸めていた体を起き上がらせて、「ん」と頷いた

ドアの前から避けてもらい、鍵を開けて中に入るよう促すわたしの後ろで、なぜか直立不動でいる宮さん。「どうしたんですか?」と振り返るわたしの首筋に、氷のように冷たい宮さんの指先が触れて、びくりと肩が跳ねた。触れられたそこが、ピリッと痛む。慌てて、宮さんの手を退けるように首筋を隠そうとするわたしの手の平を宮さんが捕まえた。手の感覚があるのか不思議なほど、冷え切った手の平がグッと力強くわたしの手を握り締める



「手、痛い、ですよ。」


「これ、どうしたん…?」


「え?あー…。」



宮さんの指先が、飛雄に噛まれた首筋をなぞる。擽ったさに身を捩りながら、投げられた問いの返答に困惑。別に隠すことでもないし、話しても何の問題はないが、先日のこともあり、何となく言いづらい。愛想笑いで乗り切ろうかと思ったけれど、宮さんの目がそれを許さないとでも言うように細められて、逃げ場を失う渇いた笑い。目を泳がせながら「手、離してくださいよ」と言っても、わたしの手を握る力が緩まることはなく、逃さないようにと更に力を込められる始末だ



「酔っ払いに、噛まれたんですよ。」


「下手な言い訳やな。」


「下手でも何でも別に、宮さんには関係ないことでしょう。」


「……飛雄くん、なんやろ。」


「いや、だから、酔っ払いに。」


「真緒ちゃん、おれに関係ない言う時、大概飛雄くんが絡んだ時や。」


「そ、そんなこと。」


「あるよ。自分は気づいてへんやろけど。」


「もし、仮に飛雄だとして、宮さんには関係ないことでしょ。」


「関係あらへん。あらへん、けど、自分また、捨てられた子犬みたいな顔しとるで。」


「誰がっ。」


「その顔見て、放っておけなんて阿呆ちゃうか。」


「……阿呆は、余計ですよ。」



宮さんの目を合わせるのが嫌で、俯かせた顔。きっと、見透かされてしまう。宮さんは阿呆だけど、そういうところ鋭くて、嫌な人だから


捨てられた子犬みたいな顔してたのは、宮さんのくせに。


さっきまで、わたしの部屋の前で蹲っていた時、同じ顔をしてたくせに何を偉そうに。そう文句を言おうとしたけど、結局固く引き結んだ唇。今、何かを発そうとすれば、きっと言葉が震えてしまう。バレてしまう。それは、何だか癪で震えが収まるのを待って、「手、痛いですから」とだけ紡いだ。それでも、宮さんは手を離してくれない。許してくれない。別に宮さんには関係ないことなのに、何をそんなにわたしに関わろうとしてくるのか。わたしにはよくわからない

手を離してくれない宮さん。グイッとその手を引かれて、すっぽり宮さんの腕の中に収まる体。よくわからないまま、宮さんの胸に顔を押し付けられて、ぽんぽんと頭を撫でられる。耳に宮さんの鼓動が、よく聞こえた。はあ、と溜め息を一つ。たった一つ吐き出しただけなのに、じわり、と滲む視界。まるで、水の中にいるかのような息苦しさで、溺れないよう、もがくかのように、掴んだ宮さんの背中に応えるように、抱き竦められる腕の強さが少し心地良く感じた



「話したくないんやったら今は何も聞かへんよ。」


「ん。」


「聞かへんから、もう少し。」


「ん、仕方ないなあ。」



まるで、宮さんが懇願しているみたいだった。仕方ないから、抱き締められててあげよう、なんて上から目線でいるわたしこそ、もう少しだけ、なんて思っていてお笑い種。「まるで都合の良い女の男版みたいですね」と冗談めかして言うわたしに「今はそれでええよ」とわたし以上に泣きそうな声で、宮さんが溜め息を肩口に落とした



二匹の迷子の子犬
帰るお家がわからずに、ただ身を寄せ合うだけ。


(うどん食お。)
(作るのわたしじゃないですか、何を偉そうに。)
(作るたって、うどんぐらいで何を偉そうに。)
(じゃあ、作りませんよ。お茶漬けしか出しませんから。)
(意地悪やな、自分。)


玄関で何をやっているのだか。ただ、抱き締め合って、他愛もない文句の応酬。うどんぐらいと言うが、うどんだってお湯沸かして、うどんを茹でて、汁を作ってと色々大変なのに、料理をしないこの人にはわかってもらえそうもない。素うどんならまだしも、具を入れるとなればもっと大変だ。作らない、と臍を曲げれば、それは困るようで「おれがすまんかった。堪忍してや」と全然悪いと思っていない顔で笑って言う。この人の思い通りになるのは癪だが、こんなところでやり合っても仕方ない。仕方ないな、と溜め息一つで手を打って、宮さんの背中からパッと手を離す。次いで、宮さんの胸元を押して体を離せば、宮さんの腕が名残惜しそうに下に落ちていった。それを見ないふりをして「うどん、作りますよ」とリビングに踵を返すわたしの背中に「うん」と溜め息混じりの返事が刺さった。


可愛い宮さんを目指したはずが、なぜかちょっと切ない感じになってしまった…
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