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「はあ……家、どっち。」


「……あっち。」


「ん、行くぞ。」


「あ、はい。」



そこまで寒くないが、アルコールで火照った頬には気持ちの良い冷たさの夜の風。さらりと頬を撫でて、通り過ぎていく中を飛雄と並んで二人で歩く。先程まで大人数で宴会をしていたのとは対照的にひどく静かな時間が流れた


少し、気まずい。


他の面々はこの後、二次会のカラオケへ行くようで、わたしはこの有様だし、そもそも合コン自体に乗り気じゃなかったこともあって、二次会はパスすることにした。ちらりと飛雄を見れば、どうやら飛雄も二次会には行かないようで、それを見た園田さんが要らぬ気の利かせ方をしてわたしを送り届けるよう飛雄に頼んでいたようだ。お店をみんなで出た後、園田さんがわたしをぐいぐい飛雄に押し付けて、みんな笑顔でカラオケへと向かっていった。そして、今に至るのだが、トイレでの一件もあり、少し、いや、かなり気まずい。それに、わたしと一緒に歩いているところを他の人に見られたりしたら、飛雄は困るんじゃないだろうか。というか、そもそも合コンなんて参加してたら彼女が困るんじゃ?とか、あんたいつイタリア行くのよとか色々考え始めちゃって収拾がつかない



「引っ越し、いつした。」


「………。」


「真緒。」


「えっ、あ、はい!」


「はあ…引っ越し、いつしたんだよ。」


「あ、えっと、先々週。」


「そ。」



興味ないなら聞かなければいいのに…。


自分から聞いておいて、さして興味なさそうな返答に唇を尖らせながら歩く。飛雄は今どんな顔をしているのか、ちらりと横目で確認するも、わたしより幾分も高いところにある顔の表情はよく見えなかった

別に飛雄との沈黙なんて慣れっこで何とも思わないが、黙って歩いているのも何だよなあ、とも考え、どうにか話題を探そうにも、思いつくのはあの週刊誌絡みの話ばかりで。これを聞き始めたら、もうそんな資格ないのに詰問口調になりそうだ。でも、気になる



「っと、危ねえ。考えごとしながら歩くんじゃねえよ。」


「あ、ご、ごめん。ありがと。」



ぼーっと歩いていたせいで赤信号の横断歩道に飛び出しかけたらしい。飛雄に腕を掴まれ、一歩踏み出しかけた足が歩道に引き戻される。お礼を言えば飛雄は、はあ、と溜め息を一つ。さっきから飛雄は溜め息ばかり吐いている。そんなにわたしと歩くことが迷惑なら断れば良かったのに。でも、意外と面倒見の良いところがあるから、迷惑でもきっと断りはしなかったんだろうな、と思う。それは素直に嬉しくもあって少し複雑な気持ちになった



「なんか、懐かしいね。」


「何が?」


「こうして、飛雄と歩くの。久々だね。」


「ん?あぁ。まあ、そうだな。」


「おめかししてなんて、何年ぶりだろう。」



こんな風に、スカートなんて履いて、二人で並んで歩くことが久々で。もう、ないことだと思っていた。飛雄とこうして歩くことはもうないことだと思っていたのに、まさかまたこうして歩けるなんて、と感慨深いものがある

飛雄を見上げれば、少し複雑そうな顔をしてわたしの話を聞いていた。その顔の真意はよくわからなくて、困惑。よくよく考えれば、飛雄にとっては迷惑な話、か。もう、関係のない女と二人で歩いて、今の彼女に誤解でもされたら大変だ。浮き沈みの激しい心。飛雄はもう前に進んでいるのに、思い出に浸っているのはわたしばかりで。もう、共有などできないことがひどく寂しく思った



「ねえ、飛雄。」



もう、これで最後にしよう。きっと、これが最後なのだろう。神様がくれたチャンスだと思った。わたしが前に進めるための機会をくれたんだ、そう思ったから



「……飛雄は、わたしと結婚して幸せ、だった?」


「は?何だよ、急に。」


「わたし、ちゃんと飛雄のこと幸せにできてたかなって。」


「………。」


「見ちゃったんだ、わたし。この間の週刊誌。」


「……あぁ。」


「あの、別に責めるつもりはなくて、ね。結婚してても、人を好きになるのはあるだろうし、仕方ないことだしさ!もし、もしも、わたしが飛雄のこと、幸せにできてなかったなら、申し訳なかったなあって!」


「真緒…。」


「それに、ほら、わたしは飛雄のこと失望させちゃったから…それでも、言ってくれたら良かったのにって思っちゃったんだよね。」


「……。」


「あんな綺麗な人が相手なら、わたし納得できたのにさ。水臭いよ。わたし、知らなかったから、あの日飛雄に縋っちゃって、ごめんね。あの、ほら、なかったことにするから、全部。ちゃんと、なかったことに出来るから。わたしのせいにして、大丈夫、だから。」


「真緒、あれは。」



飛雄の言葉を遮るように、電話の着信音がわたしたちの間を駆け抜けた。夜の静けさを壊す、けたたましい音。無機質なその音を聞いて、飛雄が口を閉じ、ディスプレイを見て溜め息を一つ。「悪い」と一言断りを入れて、出る電話。誰からなんて、安易に想像できた



「……はい。」



納得する、なんて言っておきながら、彼女と会話する飛雄の声は聞きたくなくて、飛雄から数歩、距離を取る。二言、三言会話をして、切った通話。飛雄がこちらに駆け寄ってきて「悪い、待たせたな」と謝ってきたので、精一杯口角を上げて「大丈夫だよ」と笑ってみせた



「彼女、から?」


「いや。」


「別に嘘吐かなくていいって。彼女、心配してるんでしょ?行ってあげたら。」



本当は、行かないで、なんて思ってる。なんてずるい女だと思った。聞き分けの良い女を演じているくせに、もう飛雄はわたしだけの人じゃないのに。まだ、自覚できてなくて嫌になる


逆の立場だったら、嫌なくせに。


もし、わたしが彼女の立場だったら、物凄く嫌だろう。別れた元奥さんと二人で夜道を歩いているなんて。まあ、そもそも合コンなんかに参加してたなんて知ったら堪ったもんじゃない。その上、それに元奥さんが参加してたなんて最悪以外の何物でもないだろう。それでも、つい思ってしまった。もうここで別れたら会えないかもしれないなら、もう少しだけ、なんて。でも、そんなのはわたしだけの感情で、自分勝手で、ひどいもんだ



「わたしは大丈夫。」



素直に吐露できたらいいのに、なんて思いながら、飛雄の背中を押す。とん、と触れた飛雄の背中の感触がいやに指先に残る。軽く触れただけなのに、名残惜しささえ感じて。震え出しそうな言葉たち。軽く下唇を噛んで、堰き止めた



「ほら、もう酔いもだいぶ醒めたし!行った行った!」


「真緒。」


「彼女、心配してるから、ほら。」


「真緒、聞けって。」


「わたしは大丈夫だから、もう行って!」


「真緒!」



しんどくて、泣きそうで。そんな顔を見られるのが嫌でくるりと踵を返して、走り出す。履き慣れないヒールに、アルコール入りの体ではそんなに早く走れなくて、あっさり飛雄の手に捕まる腕。振り解こうとしても、がっしり掴まれて振り解けない。それどころか、グイッと腕を引かれて、飛雄の胸に鼻を強打。暴れるわたしに構わずに、腕の中に閉じ込めて、痛いくらいに力一杯ぎゅうぎゅうと抱き締められる

背中と後頭部に回る飛雄の手と耳にかかる飛雄の浅い呼吸。飛雄の胸を押してできた僅かな距離を埋めるように、重ねられた唇。また、いけないことをしている。ダメなことだってわかっているのに、抗えない弱い自分に何度嫌気を差せばいい?そんなわたしの目を覚まさせるように、また存在を知らせる飛雄の携帯電話



「だめ、ちょ、んうっ、とび、お、鳴っ、てる。」


「いい。」


「だ、めだっ、て。」


「ん、いいから。」



これって、わたし、浮気相手になってるんじゃ?


酸欠になっていく脳味噌で冷静に分析。そんなの冗談じゃない、と飛雄の胸をどんどん叩くも離れない唇。それどころか酸素を求めて開いた唇の隙間を縫って舌が侵入してくる始末だ。深くなっていく口付けに比例して大きく鳴り響く着信音。頭の中で警鐘となってガンガンと共鳴した



「だめっ、とび、お!」


「ちっ……はあ。…はい。」



飛雄は舌打ち一つして、上がった息を整えるために一呼吸。上着のポケットから携帯電話を取り出して通話ボタンを押す。聞きたくない会話が、耳に入る。離れたいのに、がっしり腰を掴まれて身動きが取れない。電話の向こうで「早く来て」と言う女性の甘い声に息の仕方を忘れてしまうほど胸の痛み。苦しくて堪らない


振り回されるのは、もう嫌だ。


この感情にも、飛雄にも。通話に気を取られたのか飛雄の手が腰から離れ、頭の後ろを掻く瞬間、どん、と力一杯飛雄の体を押して距離を取る。ふらふらの足でも何とか踏ん張って走り出せば、今度は追いかけてこない飛雄。それに、ホッとすると同時に、なぜか少し落ち込む自分がいて遣る瀬なくなった

飛雄が追いかけてこないことを確認して、少し歩を緩める。力任せに唇を拭えば、ピリッとした痛みが広がった。構わずにごしごしと拭って、下唇を噛んで、空を見上げる。星が見えないこの都会で、月明かりだけがわたしのことをただ優しく照らしてくれた



ルール違反者の言い訳
わたしはまだ、なんて言い訳にもならない


(影山くん?)
(はい。)
(今、何してるの?)
(あー…。)
(お願い、早く来て。)


電話の向こうで聞こえたのはひどく甘い声だった。甘ったるくて胸焼けをしてしまいそうな、そんな声できみを呼んで、きみに甘えていて。わたしには持ち得なかったもの。美人で可愛くて、ちゃんと甘えられる人。わたしとの違いを思い知らされているようで嫌になる。わたしだけがきみを支えられる、幸せにできるって勘違いをした。そう思っていた。でも、それはなんとひどい驕りだったのか。だから、きみは答えてくれなかったんだと思う。わたしはきみを幸せにできたのかという問いに。出来ていたら、こんな結末にはならなかったはずだから。弄ばれた唇に触れる。力強く拭きすぎてピリッと痛んだそこが熱を持っていて、少し泣きたくなった。

あとがき


言葉足らずな男と面倒臭い女の攻防…
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