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週刊誌に顔を埋めて、目を瞑る。側から見たら、物凄く変な人だろう。それでも、人目も憚らず、深い溜め息を一つ落とし、次いで、隣に置いていたビールが並々に注がれたジョッキを呷った



「未練がましい。」



泣きたくなった。記事を見て、じわりと視界が歪む。ぽつりと呟いた自分に向けた一言は、ビールの泡と一緒に飲み込む。何を今更ぐじぐじするのだ。もう終わってしまったのに。一度ヒビの入ったグラスは元には戻らない。それと同じだ。元に戻れるはずなどないのに、ひどく狼狽している自分にイラつく


あの人が、飛雄の彼女。


以前、街で見かけたあの人が。なんだ、わたしだけなのか。足を止め、後ろ向きで前に進めていないのは。飛雄はとっくに、前に進んでいるのにわたしだけ、置いてけぼり



「半年前から、交際って何だ。」



記事の中には交際期間も書いてあって。記事によると半年前から交際していたらしい。半年前、というと、まだわたしと飛雄は夫婦だった。つまりは、不倫していたということになる。わたしに失望したから、別れたのではなかったのか。他所に、女がいたのか。そんな器用なこと出来る人だったのか。わたしは知らなかった。何だ、それ。何だそれ



「……真緒ちゃん。」


「………何でここにいるってわかったんですか。」


「飲み屋なんて、自分知らんやろ。おれと一緒に行ったお店以外に。」


「知ってますよ、別に。焼き鳥が食べたかっただけですし。」


「生二つ。」


「ちゃっかり隣に座らないでくださいよ。しかも勝手に頼んで。」



なぜかわたしの居場所を見事探し当てて、カウンター席の隣に座る宮さん。探していたのかはわからないが、何となく、そんな気がした。わざわざ一人で焼き鳥屋に来ないだろうし。だって、やたらと一人でご飯食べるの寂しいアピールしてくる人だもの

宮さんが頼んだビールが運ばれてくる。仕方ないので、半分くらい残っていたそれを飲み干して、店員さんに空いたジョッキを渡した。お代わりのジョッキがそっと横に置かれる。宮さんが小さく「乾杯」と言って、置かれたジョッキに自分のジョッキを打ちつけて、ごくりと一口嚥下した。それを見ながら、わたしは目の前に置かれた焼き鳥を一口齧る。今日はやたらと塩味の効いたタレ味だな、なんて馬鹿みたいに思った


一人に、なりたかったのに。


だから、ここに来たのに意味がない。誰にも見つかりたくないと言うなら部屋にいる方が確実だが、しんと静まり返った部屋にいるのは、耐えられそうになかった。がやがやとしているここなら、紛れられそうな気がしたのに、何で来るかな。宮さんはお節介みたいだから、見つからないようにここに来たのに。一人で飲みに行くなんて思わないだろうから逃げ込んだ場所なのに、何で



「おれは別に、一人で飯食いに来ただけやから、気にせんでええよ。」


「嘘吐き。一人でご飯食べるの寂しいって言ってタカリに来るのはどこのどいつですか。」


「…一人で食いたい時もあるやろ。」


「じゃあ、一席向こうに座ったらいいじゃないですか。」


「ほんま可愛くないな、自分。」



こつん、と宮さんがわたしの頭に軽く拳をぶつける。「暴力反対」と言えば「愛の鞭やから暴力ちゃうし」とか屁理屈が返ってきた。ひどい男だ


どうせわたしは可愛くないですよ。


いつもならそう言い返すのに、言葉が出ない。言葉を発する気力が、ない。ただ、唇を尖らせて眉根を寄せるだけ。今のわたしはそれだけで精一杯だった



「おれは、それ見てへんけど。」


「見たいなら、どうぞ。」


「そんなもんいらん。」


「遠慮せずに見たらいいじゃないですか。宮さんの大好きなわたしの揶揄いネタですよ。」


「は?」


「馬鹿みたいですよね、離婚したのに。というか、まあ、その前から。半年も、前から。」


「…何で馬鹿なんて思うんや。」


「だって、気づかなかった、んですよ、全然。それなのに、馬鹿みたいにわたしばかりっ。」



泣き言を言っていると、わかっている。何でとか、どうしてとか、今更思ったって仕方ないのに、宮さんにぶつけたってどうしようもないのに、涙が止まらなくて。泣くなんてみっともない。わかっているのに、どうやって止めたらいいのかわからない。宮さんならわたしを怒らせて止めさせてくれるのかと思ったのに、いつもみたいに茶化してくれたら怒れるのに、なんで今日はしてくれないのか。どうして望んだ時にしてくれないの、なんて八つ当たりもいいところだ。その上、宮さんは意地悪だ。わたしの頭をぽんぽんと優しく撫でて、涙を止めようとするわたしを泣かせようとしてくるんだから

嗚咽が漏れ出ているくせに、泣いている顔を見られるのは嫌で、顔を手で覆った。そんなわたしの頭を抱き寄せる宮さん。何度も頭を優しく撫でて、やっぱり意地悪な人、だと思った。数分、いや、数十分もの間、宮さんは何も言わずにずっとそうしてわたしの頭を撫でてくれて。しゃくり上げるわたしの背中を時々さすってくれもした。おしぼりでまだ涙が残る目元を拭い、深呼吸を繰り返して何とか息を整える。次いで、ぽつりと零す胸の内



「わたし、飛雄に言っちゃったんです。」


「うん。」


「バレーとわたし、どっちが大事なのって。」


「…ああ。」


「本気で選べなんて思ってなかったんですよ。どっちも大事だって言ってくれると思ってただけで。馬鹿みたいにバレーしか見てない飛雄が好きだったし、それで良かったはず、なのに。少しだけでいいからわたしを見て、確かな言葉が欲しかっただけ、なのに。」


「うん。」


「失望したって、出て行って。どこにいるのかもわからなくて。時々着替えを取りに帰ってくるだけになって。彼女、のところにいたんですね…。」


「……。」


「半年前ってわたしたちまだ…いやそれより、ついこの間、わたし、飛雄と。」


「真緒ちゃん。」


「わたし一人知らないで馬鹿みたいですよね。あー、くっそ未練がましくってみっともな、」



宮さんがわたしの顎を捉える。吐き出そうとした悪態を全部食べ尽くす唇。人目も憚らず押しつけられるそれは何度目だろうか。でも、初めて抵抗をしなかった。それを宮さんも感じ取って、少し離した唇。わたしの目の奥を探る瞳。じっと強すぎる光を放つその目に見つめられながら問われる



「抵抗しいひんのか?いつもみたいに怒らないんか。」


「……もう、疲れたんですよ。宮さんの好きにしたらいいじゃないですか。」


「ふーん?…すんませーん!お勘定頼んます。この子と一緒で。」


「え、ちょ、ちょっと宮さん。」


「これで。…ほな、行くで。」


「は?ど、どこに。」



自棄になって放った言葉に、眉尻を上げた宮さん。わたしの問いに答えてくれる人はおらず、宮さんに腕を引かれて、ばたばたと出る焼き鳥屋。バッグは宮さんの人質にされて、腕を引かれるまま連れ去られる。どこに向かっているのかわからないまま、宮さんはタクシーを捕まえて、二人乗り込めば、何やら目的地を告げ、感情の読み取れない顔のまま、ただわたしの腕を掴んでいた。ほどなくして、タクシーが停まり、財布から現金を取り出すと「お釣りはいらん」とか言ってさっさと降り、ぐいっと引かれる腕。降りた先に見えた、やたらと目をちかちかと刺激するピンク色のネオン



「ちょ、ちょっと、待って、まっ。」


「宿泊で。」


「えっ、待って。宮さん、待ってってば!」


「どうぞ。」



戸惑うわたしを無視して、お金と鍵の物々交換。鍵を受け取るやいなや、腕をぐいぐい引かれてエレベーターに乗り込み、目的の階に到着して降りれば、そのままずかずかと廊下を進み、一つの部屋のドアを受け取った鍵で開けた。どたどたと足音うるさく中にお邪魔して、腕が解放されるとともに、ベッドに押し倒される

わたしの顔の横に着かれた手。この間と同じような構図に肩が震える。薄暗い部屋に、いやらしい色合いのライト。そういうことをするために作られた部屋特有の作りに、背中がぞわりと寒くなった



「み、宮さん?待って、あの、わたし別にそういうつもりじゃ!」


「うるさい。」



噛み付くようなキスをして、開いた隙間に舌が入ってくる。息継ぎが上手くできなくて、頭がくらくらする。苦しくて、ドンドンと宮さんの胸を叩けば、それには全く応えてくれず、代わりにするりとわたしの足を撫でる宮さんの手に、肩がびくりと跳ねた



「んっ、あっ、ちょ、ちょっ、んう、ま、待っ、て。」


「はあっ。ん、何でや?」


「やっ!」


「自分がさっき言うたやんか。おれの好きに、してええんやろ?」



そう言って、わたしの肩口に顔を埋める宮さん。噛みつかれた首筋に、チクリと痛みが走って、じわりと視界が歪んだ



喉元に膿が溜まる。
手を伸ばしても、もう届かない。


(やっ、待って。待ってって!)
(嫌や。待たへん。)
(やだやだっ、宮さん、宮さんってば!)
(この間みたいに、飛雄くんでも呼ぶんか?)
(っ!)


喉元で、悲鳴を上げた。呼びかけた名前が宮さんの口から出てきて、ごくりと空気を飲み込む。そんなわたしを尻目に、首筋、鎖骨、と宮さんの唇が移動して、その度にチクリチクリと刺すような痛みが走った。宮さんの言う通りだと思った。今、ここで、きみの名前を呼んでどうなる。あの日のことなんて、気まぐれだったのに、夢は夢でしかないのに、大切にしているのはわたしだけで。突きつけられた現実は夢ばかり見たわたしの胸に深く突き刺さって、息ができない。本当はもう終わった関係だとわかっていた。もう戻れないと。それでも、瞼を閉じればきみとの幸せだった毎日ばかり思い出す。じわり、と歪む視界の中で、宮さんがVネックを脱ぐ姿が見えた。

あとがき


無理矢理感強めで本当すみません。やっと、影山出せると思いきや宮さんでした。二重ですみません…。
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