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「お休みなのにごめんね。付き合ってくれてありがとう、仁花ちゃん。」


「ううん、そんなそんな!わたしも楽しかったから!」


「日向にも謝っておいてね。仁花ちゃんとの時間奪ってごめんねーって。」


「も、もう!真緒ちゃん!!」


「ごめんごめん!あ、もうこんな時間かー。夕飯食べに行こ?奢るよ。」


「あ…えっと、ごめんね、これから日向と約束してて。」


「あ、そうなの?それじゃあ仕方ないね。今度お礼に奢らせてね。」


「うん、約束!」



土曜日の17時30分。仁花ちゃんと2人で潜った不動産屋のドア。土地勘がなく、家探しに不安を感じていたわたしは仁花ちゃんに頼み込んでついてきてもらった。午後一で入店し、色々と不安な点を一緒に聞いてもらい、内覧して、納得のいく物件があったので、即決で申し込みを済ませたのが、ついさっき。わたしの家探しのため、休みの日にこんな時間までわざわざ付き合ってくれた仁花ちゃんにお礼をしようとご飯に誘ったけれど、生憎今日はこれから日向と会う約束らしい。仲良しで良いことだ。頬を赤く染め、日向との予定を楽しそうに話す仁花ちゃんがキラキラしていて、微笑ましくも、とても羨ましい


わたしにも、あんな時があったなあ。


仁花ちゃんを見て思い出す昔のこと。飛雄とデートなんてそうないことだったから、毎度楽しみで仕方なかったあの頃。最後に飛雄とデートしたのって、いつだっけ。結婚してからは、年に一回の結婚記念日とお互いの誕生日にしかデートをしなかったな。まあ、デートというかレストランで食事する程度なんだけど



「仕方ない。引越し準備しよ。」



仁花ちゃんと駅で別れて、どこへ行くわけでもなく帰路に着く。これから出費が多くあるし早く帰って荷物をまとめよう。家財はほとんど飛雄がお金を出して買ったものだから、わたしの荷物なんて数えるほどしかない



「あれ、都築ちゃん?」



駅のホームでぼんやりしていると、背後から声がかけられてびっくり。誰かと思えば、振り返った先に見知ったニヤニヤ顔のトサカ頭。「なんだ黒尾さんか」と思わず心の声がぽろり。黒尾さんは片方の口角を上げながら「なんだって何だよ」と笑って言った。相変わらず読めない人だな、と思いながら、迂闊なことを言わないように唇を引き結ぶ



「何してんの、こんなとこで。」


「ちょっと野暮用で。黒尾さんは…仕事中です?」


「いや、プライベート。」


「え、スーツで?」


「結婚式よ、結婚式。お友達の。」


「ああ、なるほど。」



スーツ姿だったから、てっきりお仕事かと思えばさっきまでお友達の結婚式に参加していたらしい。披露宴が終わったらみんな二次会に移動する人が大半だけど、そういうの好きそうなのに今一人でいるなんて不思議で、黒尾さんに「二次会は?」と問いかければ、黒尾さんは苦笑しながら「欠席」とだけ答えた。なんか黒尾さんらしくない返答に、訝しく思っていると降参だと言わんばかりに両手を上げて「元カノの結婚式だったんで」と訂正し、ああ、なるほどなんて思った


元カノの結婚式に呼ばれるって、なんかすごい。


気まずくないんだろうか。わたしだったら欠席しちゃうなと思っていたことが顔に書いてあったようで、黒尾さんは困ったように笑いながら「都築ちゃんは素直だねえ」と言った。それはどういう意味だろうか。なんか、あんまり褒められているようには感じないんだけれど



「新婦は元カノだけど、新郎は中学からのお友達だったからな。」


「え、なんか余計気まずい。」


「まあ、お互い気にしてないし、今は本当に二人ともいいお友達。」


「へえ…終わってからもそういう良い関係でいられるのはいいですね。」


「お宅だってそうでしょ。」


「え、誰と誰が?どういう?」


「都築ちゃんと影山が。ああ、でもお宅はお友達って感じじゃなさそうね?」


「はあ?」


「うわ、すげえ顔するじゃん。え、何、別れてから恋人に戻ったクチじゃないの?」


「そんなわけないじゃないですか。」



訳のわからないことを言われて頭が混乱。何を言っているんだ黒尾さんは。訝しげな顔をするわたしに、「いや、冗談とかじゃなくてさ」とふざけてるわけじゃないアピールをする。確かにふざけている感じはしないが、何を言いたいのかさっぱりだ。なんだ、別れて恋人に戻るって。それなら離婚していないと思うんですけども。何を見て黒尾さんがそんな素っ頓狂なことを思ったのかわからず、ただただ首を傾げるばかり


恋人になんて、戻れるわけない。


つい先日の出来事を思い出して胸がチクリ。あの日の飛雄と華奢な背中を思い出して、目頭が熱くなる。あー、やだやだ。全然吹っ切れてないし、思い出すのも嫌って。向こうはそんな気ないのに、わたしばっかり馬鹿みたいだ。おもむろに、はあ、と深い溜め息を吐くわたしに黒尾さんが思案顔で「結構飲んでたもんな…」と小さく呟いた



「もしかしてさ、都築ちゃんってあの日のこと覚えてない?」


「あの日?飲み会の時のことですか?」


「そうそう。宮が無理矢理都築ちゃんを連れてきた飲み会。」


「あー…そうですね。実は、あんまり。」


「なるほど。そういうこと。」


「え?何ですか、わたし黒尾さんにもやらかしました?」


「も?」


「あ、いや、違います。今のは言葉の綾で…!」


「ふーん?」


「本当に!言い間違いです!!」



黒尾さんがニヤニヤと趣味の悪い笑顔をわたしに向ける。黙っていた方が得策だというのに、沈黙に耐えられず、再度否定する言葉を紡いでしまえば、それはまるで何かありましたと白状しているようなものだった。これ以上墓穴を掘るわけにもいかず、居心地の悪さに歯噛みしながら、わたしはもう答えませんといった態度で黒尾さんを見据えると、黒尾さんは「はいはい」なんて仕方なくやめてやるわといった雰囲気を醸し出しながら笑って言った



「都築ちゃん、結構がばがば酒飲んでただろ?水飲まねえって言い張ってさ。」


「あー…そこは何となく覚えがあるような、ないような…。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ないです。」


「いや、そこは別にいいって。宮にやたらと絡んでる都築ちゃんが面白かったから気にしてない。」


「うわあ…。」



最悪な絡み酒をしてしまった記憶が今微かに蘇る。そうだ、確かあの時、赤ワインとビールをちゃんぽんして悪酔いしてたし、以前はお酒なんてあまり飲まなかったから。飛雄のことも相俟ってお酒が進むわ、酔いの回りが早いわで酷かったらしいことだけは何となく頭の片隅に記憶がある。そもそもは宮さんが悪いと思って絡み酒したんだろうと思うが、それでも絡み酒とはタチ悪い話だ。記憶になかったこととはいえ、今度謝っておこう、一応…いや、いいか、別に。絡んだ相手、宮さんだしな



「まあ、それは置いといて。あまりにも酔い回ってっから、赤葦とか心配して水頼んで飲まそうとしても飲まないわけよ、あなた。」


「ああ、方々にご迷惑をお掛けして申し訳ない…!」


「水飲まないからどうするかって思ってたら、影山が都築ちゃんに口移しで水飲ませてたから、びっくりしたんだよな。なんか事情があって離婚しただけで、実は恋人に戻っただけなんじゃねえかと思ったんだけど。」


「……え?」


「お宅の反応を見ていると、そうじゃない感じ?」



かくんと首を傾げて聞いてくる黒尾さんの言葉がどこか遠くで聞こえているような錯覚に陥った。それほど、先程の黒尾さんの話はわたしにとって衝撃の新事実で頭が考えることを辞めた。それにわたしは黒尾さんの質問に対する答えなんて持ち合わせていない。だって、わたしはもう完全に終わってしまったものだと思っていたから。確かに、イタリアに行くって話をされたあの日、一度関係を持ってしまったけど、結局飛雄は何も言わずにまた出て行って、帰ってこなかった。その上、この間の、あれだ



「わたしには、もうわかんないですよ…。」



ひどく小さな声で答えた言葉は、ホームに入ってきた向かいの電車に攫われた。



抜け落ちた水の行方
じわりと滲み出て、広がっていく染み


(あー…うん。まあ、そうだよな。)
(飛雄が何を考えているのかなんて。)
(まあ、影山ってわかりやすいようで、なんか読めないところあるもんなー。)
(黒尾さんが言えたことじゃないですよ。)
(結構ぼくは素直に生きてますけど。)


そんな馬鹿な、という顔をしていると黒尾さんが「都築ちゃんって結構失礼だよな」と苦笑いを一つ。それを言ったら、黒尾さんも似たようなところあると思うんですけどね。これ以上何か言ったら何をされるかわかったもんじゃないから口を噤んでおくけどさ。そう思うのも束の間、アナウンスが二人の間を通り抜けて、ホームに電車がやってくる。攫われたわたしの思考。きみがあの日、関係ないと放っておきながらどうしてそんなことをしたのかも、あの夜なぜわたしを抱いたのかも、先日見たあの華奢な背中の人も何もかもわからなくて。それを言葉にするには勇気がいった。だから、口を閉ざすしかなかった。知る、ということには勇気が必要だ。必ずしもわたしの欲しい答えがもらえるわけではないと、わたしはもう痛いほどよく知っているのだから。人の流れに逆らいながら乗り込んだ電車はわたしの溜め息をただどこかへ運んで行った

あとがき


黒尾さんは結構気遣い屋さんよね。そして元カノの結婚式とか普通に招待されそう。
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