08

すずめが一日の始まりを告げる朝。肌寒さにぶるりと震えて目を覚ます。起き切らない脳みそを少しずつ働かせて、頬に張り付いていた髪を払い除けたら、伸びを一つ



「……薄情者。」



少しだけ残っていた温もりを手のひらで確かめて、唇を尖らせながらぽつりと一言。わたしの言葉は誰に聞かれることもなく、一人の部屋に霧散した。


なんで声も掛けずにいなくなるのかなあ。


ひどい話だ。少しは通じ合えたのかと思ったのにやっぱり甘い考えだったみたいだ。はあ、と溜め息を一つ。これじゃあ、やり逃げもいいところではないか。いや、まあ、元夫婦なので、やり逃げも何もないのだが



「寒っ。」



ぶるりと体が震えて鳥肌。急いでベット脇に無造作に落とされた服をかき集める。思考を巡らせるのも良いが、このままでは風邪を引いてしまう。ぐるぐるする思考は一旦他所にやり、風邪を引く前に、と、急いで脱ぎ散らかした服を取り合えず身に着けて、そしてベッドサイドに置かれた目覚まし時計が視界の端にちらり



「やっば!」



時計の短針が差す数字にぎょっとして、足を縺れさせながらベッドから転がり出ると、シャワーを浴びるために浴室へと駆け込んだ



***



「都築さん、おはよー。」


「あ、おはようございます。」



何とか間に合った始業時間。良かったと一息吐いて自席に座る。走ってきたせいでじわりと額に汗が滲む。それを見て、隣に座る先輩社員の河村さんが「ギリギリだったね?」と笑いながら書類と金庫を手渡し。受け取った金庫を席に置き、金庫を開けながら「すみません…ギリギリ過ぎましたね」と謝れば、「間に合ったんだから大丈夫だよー!」と背中をポンとわたしの背中を叩いた


起こしてくれても良かったのにさ。


そういうところも薄情者だ。まあ、わたしの出勤時間なんて飛雄が知るはずもないので、起こしてくれるなんてことはないんだけどさ。ていうか、そもそも何も言わずにいなくなる?普通。昨日の今日で。しかもあの後で。まさかもうイタリアに行った?ボストンバッグ一つで行くってバックパッカーみたいじゃん



「あ、都築さん。」


「え、あ、はい!」


「今月の前半分の経費精算、お願いね。」


「はい。わかりました。」



今日は16日。月の前半の経費精算の締め日の翌日。部署ごとに分けられ、積み上げられた経費精算書を見て、量の多さに息を呑んだ。先月末分は河村さんと二人で手分けして処理したのでそんなに時間は掛からなかったが、今月分から一人でやらなければいけない。前半は量が少ないとは聞いていたが、予想の倍はある。何せこの社員数だ。今月末の経費精算を考えると少し気が滅入るが、今は目の前のこれを片付けようと気合を入れて、電卓の電源をオンにした



「バレーチームの分の経費とかも、あるんですね。」



ほぼほぼ営業さんたちの経費精算チェックが終わり、仕訳を入力し、次の経費精算書に手を伸ばして気付く。見覚えのある名前。宮さんの経費精算書だ。隣に座る河村さんに聞けば、バレーチームの人も試合がないシーズンは一般社員として働いているらしい。飛雄からはそんな話聞いたことなかったけど、そうしているところもあるのだそうだ。それぞれ色んな部署に配属されているらしい


日向や宮さんは営業部の管轄なんだ。佐久早さんは…情報セキュリティ室。木兎さんはまさかの総務。


色んなところに配属されているとは言っても、この配属は適材適所の配置なのだろうかと目を疑った。一般社員として働いているということだが、宮さんしか社内で会ってないなあ。午前だけ職務に当たって、午後は練習だと言っていたっけ。なら、会わないのも無理ないかもなあ。基本的にわたしはここから動くことはないし



「あ、都築さん。これ、領収書必要だよ。」


「え、あ、本当ですね。」


「木兎さん、またか…。」


「まさか常習犯ですか?」


「そうねえ。まあ割と。数字間違いも多いし。悪いんだけど、直接木兎さんのところに行って領収書回収してきてくれる?午前は総務部の方で業務に当たっているはずだから。都築さん、知り合いだし、一人で行けるよね?」


「あ、はい。」



知り合いとは言っても、学校は違ったし、本当顔見知り程度なんだけどなあ。


そうは思いつつ、仕事だから仕方ないと河村さんに背中を押されるまま、席を立ち、向かうは木兎さんが配属されている総務部へ。総務部は経理部と同じフロアに配置されているが、まさかここに木兎さんがいるとは。何度か行き来したことがあるのに気付かなかったな

経費精算書を持って、総務部の島をちらり。総務部長がわたしの視線に気付いて手を挙げてくれる。そして、手招きされるまま、小走りで駆け寄ると総務部長は困ったように笑いながら「木兎くんに用かな?」と言った。どうやら、毎度お馴染みのことのようだ



「木兎くんなら、今備品運びを手伝ってもらってるよ。」


「え、そうなんですか?」


「一時間前に行ってもらったからそろそろ帰ってくると…あ、いたいた。木兎くーん!」


「部長がおれを呼んでいる声がするっ!…って、おー、都築。どした?」


「木兎さん、お疲れ様です。」


「お疲れー。」



ゆらゆらと手を挙げて挨拶。なんか、部活の延長のままだなあと苦笑い。「おっすー」と言いながらこちらに近付いて、ぽんぽんとわたしの頭を撫でる木兎さん。他の人の視線もあり、恥ずかしさが込み上げてくる。「やめてくださいよ」と言えば「ああ、すまん、つい」なんて言われて、わたしと木兎さんを見る視線が訝しさを増した



「で、どうしたぁ?」


「経費精算書の領収書が足りません。この分の領収書ください。」


「うがーっ!おれはまたやってしまったのかあー!!」


「えっと、あります?」


「あー…確かここら辺にこう、くしゃくしゃっと入れたような……。」


「くしゃくしゃって…。」



どうやら領収書はデスクの引き出しの中に丸めて入れていたらしい。ここら辺に、と言う木兎さんの手元を覗けば、引き出しのカオスさに息を呑んだ。どうやったらここまでデスクの中が汚くなるのか…触れるのも怖くて、それらは見なかった振りをし、領収書が見つかるのをただ見守った

数分、ここでもない、そこでもないと繰り返し、やっと見つけた領収書は先ほどの宣言通りやはりくしゃくしゃに丸められていて苦笑。まあ、見つかったからよしとしようと、その領収書の裏に木兎さんのシャチハタを押印してもらい受け取って頭を下げた


何だか視線も痛いし、早く戻ろう。


そう決意して、お礼も早々に踵を返す。経理部へと戻る足を一歩踏み出したところで、がしっと掴まれる肩



「都築、なんかここ虫刺されてるぞ?痒み止め、いるか?」


「え?……〜っ!」



首筋を指差されながら木兎さんの無駄にでかい声で指摘され、一瞬何のことかわからなかったけれど、すぐに察しがついて一気に顔に熱が集中した



「いらないですっ!失礼します!!」



失礼ながら指を差す木兎さんの手を振り払って総務部の島を足早に立ち去る。フロアに響いたわたしの声。背後で木兎さんの「え、おれなんかしたか?」と戸惑った声が聞こえたけれど、それにフォローを入れる心の余裕などなく、顔を俯かせながら経理部へとダッシュ。バタバタと戻ってきたわたしを見ながら課長と河村さんが心配そうに「どうかした?」と聞いてきたが、「何でもないです!」と答えるので精一杯だった


ほんっとに、どっちもデリカシーがない!


木兎さんが悪気なく言ったことはわかっているが、もう少し察してほしい。何より元凶となったあの王様の顔を思い出して、どいつもこいつもデリカシーがないな!と歯噛みした



「真緒ちゃんたら、昨日は誰とお楽しみやったん?」


「ぎゃーっ!出たー!!」


「何やねん。人を幽霊みたいに。」



その上、一番聞かれたくないと思っていた人に聞かれていたとは。なんでタイミング良くいるんだとなぜか経理部にいる宮さんを恨めしげに睨め付ければ、にこりと笑って「なんや、面白そうな話が聞けそうやったんで」と聞かずとも答えてくれちゃって



「成仏してください。」


「成仏て何やねん!面白そうやったのにー。」



何が面白いってんだ!と言いたいところだが、ここは会社だということに気付いてグッと堪える。早く自分の部署に戻れと言わんばかりに宮さんを手で追い払うわたしを見て、「都築さんは強いなあ」と、課長が一言呟いた



厄災は首筋から
昨日掴んだきみの胸元から、だったのかも。


(都築さん、宮くんと仲良いね?)
(仲良くしようという気は微塵もないんですけどね。)
(そうなの?宮くんとはやっぱり旦那さん繋がりで仲良いの?)
(元、です!それに仲良くないですって。)
(何が元?)


間に入ってきた課長の言葉にハッとして河村さんに人差し指を立てる。別にやましいことじゃないけれど、ムスビイブラックジャッカルとは敵対するチームのセッターが元夫だなんて聞こえが悪いし、居心地も悪い。できるなら、あまり知られたくないのが本音だ。課長に「何でもないです!」と言って会話にシャッターを下ろす。そして、河村さんに向き直り「宮さんとは別に何でもないですから」と一言。本当に何でもないと思ってはいるが、何分ついこの間何やらあったかのような口振りで揺さ振られたし、状況証拠は黒だと言わんばかりだったので、少しの後ろめたさが胸に巣食って、木兎さんに指摘された首筋の痕を隠すように手で覆った

あとがき


無神経木兎さん!
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