いっぱい
いつだってわたしは挙げた手を、下げる子だった。人と争いたくないから、といつも自分からどうぞと譲る子で、言いたい言葉はいつだって喉に刺さったまま放置してた。そしたらいつの間にかそこから膿んだ傷。じゅくじゅくと痛み出して、重傷。そして、気付けば、わたしの手は何とも寒々しいことか
「協力、ねえ。」
携帯電話を片手に、溜め息。はあ、と一つ吐き出せば、誰にも見えないわたしの想いはただの空気と一緒だ。気体になって、二酸化炭素、窒素、酸素と混ざり合って、さようなら。ただ消えていくだけの存在
何でも、譲る子だったなあ。いや、今でも、そう。それいいな、これいいな、と言う子に、どうぞ、と言って争うことを極端に避ける。ずっとそうしていたら、何もなくなった。何も
恋、すらも。
昔、友達と好きな男の子が一緒になってしまったことがあった。その子はわたしがその男の子を好きだと知らず、わたしに協力してと頼んだ。友達のその願いに頷いた時、わたしの恋は終わったんだ。ああ、また被ってしまったって思った。もうこの恋は終わらせないと、と蓋をして腐らせた想い。もうあんな想いはしたくないと心のどこかで人に対して壁を作ってばかりいた
「赤葦が好きだから、協力して、か。」
そう言って頬を染めたその子はとても可愛かった。ああ、本当に赤葦のこと、好きなんだって思った。協力してあげたくなるな、そんな顔されたら。頭を下げるその子を見ながら、そんな風にどこか他人事。頼まれているのはわたしなのに、どこか遠い世界の話を、そう、まるで液晶画面一枚隔てたドラマの世界を見ているような感覚だった
思わず頷いた。何年も染み着いた癖のように。頷いたくせにその後で、なぜかひどく胸が痛んだ。ちくちくと何かが突き刺さって、痛い。でも、それはなぜなのかはわからないから、わたしは今、携帯のメール画面を開いて溜め息を吐いている
「屋上で、待ってます、ね。」
呼び出し。それが協力してと言われた内容。いつもなら、赤葦宛のラブレターやプレゼントを渡してほしいと頼まれる、代役のような役割だったから、いつもとは違う協力の仕方にびっくりしたんだ。ああ、この子はちゃんと自分で赤葦に伝えるんだなあって。だから、いいよ、って言った。押し付けられるだけのラブレターと違って、この子の赤葦への想いは本気なんだってわかったから
協力しよう、って思ったのに、何でかなあ。
どうしてかわらかないけど、胸がちくちくと痛い。まるで数本の針を心臓に直接刺されているかのような、そんな感覚。本当はどこかで協力しきれない自分がいる。したくないと思っている自分がいる。でも、わたしはそんな自分の拒絶の手を無理矢理下ろして、その手で、メール送信のボタンを押した
「赤葦はどうするのかなあー。」
草の汁が付くのも構わず、ごろりと寝転がりながら、そんなことを考えた。空がひどく青い。照り付ける太陽に舌打ちをしたくなるほど、いい天気なのに、わたしのこの気持ちはこの空とは対照的なほどにどんよりとした曇り模様だ
赤葦が屋上に着いた頃だろうか。
二人は会えたのかな。あの子は赤葦に好きだと言ったのかな。赤葦はそれを聞いてどう思うのかな。どうするのかな。なんて返事をするのかな。二人は付き合うのかな。二人が付き合ったら…永遠ループ。わたしには関係のないことばかり考える。考えたところでわたしは手を下げた人間だ。そんなわたしに二人のことを考える資格はない
理屈としては理解している。わかっているけれど、どうも心がついていかなくて。溜め息ばかり、吐いてる。赤葦は、赤葦は、なんていつからわたしは赤葦に頭を占拠されていたのやら。なんだか、やるせない。やるせないけど、メッセージは送信してしまった。だから、もう後戻りはできない。今更そんなことを考えている。なんて愚かな結末だろうか
「……最悪だ。」
「それは、こっちの台詞なんだけど。」
「っ!?」
ぽつりと呟いた独り言。それに対して返事などあるはずがないのに、その声は一人きりだと思っていた空間によく響いた。草を掻き分ける靴の音。びっくりして起き上がろうとしたわたしの顔のすぐ横に勢い良く突かれた手。そこからそろりと伸びた腕を辿れば、ひどく怒った顔の赤葦がいた
「どうしてっ!」
何とか吐き出した言葉。その一言にいろんな意味を込めた。
どうしてここにいるの。どうしてここに来たの。どうして、どうして。吐き出したらキリがないほど、胸の内から溢れ出る。そうしてぶつけたわたしの質問に、赤葦は普段はポーカーフェイスを気取っているのに、今は随分とわかりやすく、むっとしたような顔でたった一言
「おれは、みょうじが来ると思ってた。」
「え?」
「屋上に、みょうじが来ると思ってた。」
「あ……ごめん。」
「あんなメールもらったら、誰だってそう思うだろ。なんで騙すようなことするの。」
「ごめん。」
「そんなに、おれにあの子と付き合ってほしかった?」
「え……。」
「みょうじが持ってくるラブレターの子たちと付き合ったら、屋上にいたあの子と付き合ったらみょうじは満足するの?」
「赤葦、怒って…いや、だって。」
「おれは前から怒ってた。」
「え?」
「おれは前から怒ってたよ。」
「は……。」
赤葦が何を言っているのか、わからなかった。怒っていたって、全然そんな素振り今まで一回も見せなかったくせに。預かったラブレターを渡しても、赤葦宛のプレゼントを渡しても、一回も。だから、今回も同じなのだと思った。同じように、何でもないという顔で、崩れないポーカーフェイスでわたしと関わっていくんだと、思ってた
急に、なんで。
意味がわからない。わからない、よ。どうして赤葦が怒っているのか、そんなことを言うのか。今、わたしの目の前にいるのか。わたしが、どうしたらいいのか、わからない。手を下げ続けて、膿んだ傷を見て見ぬ振りし続けたわたしはなんと言葉を発したらいいのかもわからずに、赤葦の真っ直ぐな目を見ていられなくて、目を反らす。それを見た赤葦は、ふう、と小さく息を吐き出して立ち上がった
急に視界がひどく明るくなった。影はもうない。反らしていた目を赤葦がいたであろうところに向けると、赤葦は困ったような顔をしてわたしを見下ろしていた。何、その顔。そう思うのも束の間。その顔のまま、赤葦はわたしに背を向けて、草を掻き分け始める
「……わかった。」
「え……。」
「あの子と付き合う。それで、みょうじは満足するんだろ?」
「あか…っ!」
残された赤葦の言葉。思わず赤葦の名前呼ぼうとしたわたしの言葉。躊躇って、途中で途切れる。ちくちくと喉が痛い。下げた手。呑み込んだ言葉が、喉に刺さる。それでも、赤葦の背中はずんずんと遠くへと行ってしまう。屋上へと、行ってしまう。あの子のところに行ってしまう
本当に、それでいいの?
自問自答。うじうじと答えを出すことを、躊躇う。どうしよう、そう思っても、そんなわたしを置いていく赤葦の背中。躊躇っている暇など、与えてくれない。赤葦が行ってしまう。もう、今日までの日々は返ってこない。赤葦は、もう戻ってきてくれない。呆れたように、仕方ないと言ってわたしの隣にいてくれた赤葦が、行っちゃう
勝手に、足が動いた。自分でもびっくりするほど、俊敏に動いた。勢い良く起き上がって、その足で遠ざかる赤葦の背中を追い掛ける。一歩、一歩、赤葦よりも早く距離を詰めて、腕を伸ばせば捕まえる背中
「赤葦っ!」
勢い良く、その背中を捕まえた。逃げられないように腕を回して力を込める。縋り付くように赤葦に抱き付いたりして。いつの間にか、空っぽだったわたしの手は、溢れるほど、きみでいっぱいになってた
きみでいっぱいになる、瞬間。
本当は、ずっと前からこの手はきみでいっぱいだったのかもしれない。
(赤葦、待って!行かないで!!)
(行かないよ。)
(え…。)
(おれも、みょうじが好きだから。)
(なっ。)
勢い良くぶつけた言葉。それに余裕の表情のきみ。おれも、ってどういうこと。そんな言葉、愚問だ。こうやって追い掛けて、縋り付いていてもまだ、わたしの心を見て見ぬ振りをしようとしている。もうやめようと思ったんだ。手を下げること。たぶん、まだわたしは争うことが嫌いだし、それを避けるように「どうぞ」と言ってすぐに人に譲ってしまうこの悪癖は直らない。でも、きみのことだけはどうしても、挙げた手を下げられなかった。「どうぞ」と譲れなかったわたしのこの気持ち。認めよう。認めなくちゃ。そうだよ、わたしはきみが好きだよ。だから行かないで。観念したようにわたしがそう言えばくるりと振り返るきみ。今度はきみの腕がわたしでいっぱいになった
あとがき
学校でそんな草生えてる一人の場所なんてあるかいな。
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