世界を変える
物言わぬ寂しそうな背中に、なんて声を掛けようかと悩んだ。そこで、いつも遠くを見つめている姿を見て、何度も声を掛けようとしたけれど、いつもやめていた
わたしが、声を掛けたところで、何が変わる?
変わらないだろう。だって、わたしはきみのこと、よく知らないし、きみもわたしのことをよく知らないだろう。だから、きっと何も変わらない。わたしのこんな小さな声じゃ何も届かない
「あの。」
「え?」
それでも、声を掛けてしまったのは、居ても、立ってもいられなくなってしまったから。我慢、できなかった。見ていられなかった。なんでここにきみがいるのか、わたしにはわからない。でも、きみの居場所はここではない気がして。だから
何回も自分に言い訳を脳内で繰り返す。その間、声を掛けられたきみはぽかんとわたしを見上げて、首を傾げて。その反応は正しい。だって、よく知らない人に声を掛けられて、しかも続きの言葉はなし。首だって傾げるだろう。何か用ですか、と聞くあたり、とても親切だ
「隣、いい?」
「…?ど、どうぞ。」
「ありがとう。」
制服のスカートに草の汁がつくのも構わずに、きみが座る横に腰を下ろす。ふわっと鼻孔を刺激する草の匂い。青い、匂い
「えっと…。」
「わたし、同じクラスの。」
「あ…みょうじ、だよな?」
「えっ?!あ、う、うん。」
まさか、きみがわたしの名前を知っていたとは思わなくて、ついびっくりした声を上げたわたしを見て、きみが笑う。「さすがにおれでもクラスメイトの名前は覚えているよ」なんて。それが、少し、嬉しかったりして。わたしのこと、ちゃんと認識してくれていたんだ、なんて
でも、なんで声を掛けたのかはわからないままなんだろう。どうして、急に声を掛けてきて、隣いいですか、なんて言ったのかわからない顔でいるけれど、それ以上は何も聞かずに、きみは遠くを見つめている
何、言えばいいんだろう。
声を掛けたはいいものの、何も思い浮かばない。どうしよう、なんて脳内で慌て始める。だって、きみと言葉を交わしたのは、これが初めてで。何から、どこから話をすればいいのか、わたしにはわからないままで、数分。ごくり、と生唾を飲み込んで、わたしはやっとの思いで口を開く
「東峰。」
「おー。」
「ここで、何してるの。」
「……何、してんだろうなあ。」
白々しく、そんな事を言う。溜め息混じりで吐き出された言葉。ふわり、と宙に吐き出されて空中分解した。わたしは膝裏に仕舞い込んだ手をぐっと握り締めながら、言葉を探す
何をしているかなんて、知っているのに。
なんでここにいるのか、はわからない。東峰のことなんて何も知らない。それでも、ここで何をしているのかは知っているの。だって、わたしずっと見てたから。下校中、この土手で東峰が一人、遠くを見ていること。そんな東峰が、ひどく寂しそうなこと、歯がゆそうなこと、知っているの。でも、掛ける言葉が見つからなくて、毎日わたしはその背中を見ているだけで
何をどうしたのか、わたしはその背中を毎日見ていることで、何かが澱みたいに心に降り積もっていたみたいで。なぜか突き動かされてしまったらしい。突き動かされたはいいが、どうすればいいかはわからないまま、東峰の横に腰を下ろして、何も発せずにただ時間だけが過ぎる
「はは…うーん、おれにもわからないよ。」
「東峰。」
「ん?」
「バレー、楽しい?」
わたしが放った言葉に、ぴしり、と固まる東峰。さっきまで自嘲したような笑みを浮かべていたのに、その顔は泣きそうな顔にがらりと変わる。わたしの言葉は、見事東峰の地雷を踏み抜いてしまったらしい
楽しいって、答えてくれるって思ってた。
だって、わたし、知ってるもん。何も知らないけれど、東峰がバレー部で、バレーを好きなこと。そんな当たり前で、単純な事柄。だから、「楽しい?」って聞いたら、「楽しいよ」って答えてくれると思っていたのに、なぜか、東峰はその質問の返答を渋る。草ばかりが生い茂る地面を見つめながら、ぽつり。東峰が落とす、言葉の欠片
「どう、なんだろうな。」
自嘲混じりの笑い声。東峰と目は合わなくて。一方通行の視線。胸が、ちくりと痛くなるのは、なんで。わたし、そんな東峰の顔が見たかったわけじゃないの。そんな顔させたくて言ったんじゃない。同じクラスの生徒として、聞いただけ。世間話のついでに、なんてそんな言い訳を心の中でしても、東峰にそんな顔をさせたのは紛れもなく、わたしのこの唇から紡いだ言葉たち
「はは、わからないや。みょうじ、ごめんな。」
なんで謝るの。
そう言いたいのに、唇は空気を吐き出すだけ。東峰の胸を突き刺した言葉はあんなに簡単に発せられたのに。どうして、こう思い通りにいかないの。わたしの聞きたかった言葉はそうじゃない。でも、それを伝える言葉をわたしは持ち合わせていない
やっぱり、わたしの言葉じゃ何も変わらなかったじゃないか。ほんの少し前の驕った過去の自分を責め立てても、どうしようもない。時は戻ってくれないし、一度口から飛び出した言葉は戻ってこない。これ以上どうしようもない。そう唇を閉じようとして、やめた。それでも、わたしは東峰に言いたいことがあって。ただのクラスメイトであるわたしのこんな言葉でも、東峰に伝えたい思いがあって
「でも、わたし知ってるよ。」
「え?」
「東峰が、バレー好きなこと。」
「みょうじ…?」
「わたし、ずっと、見てたから、知ってるよ。東峰がバレー好きだったことだけは、知ってる。」
常に上を見上げて、上に向かって飛ぶそんな姿をわたしはずっと見ていた。よく見えたんだ。渡り廊下の向こうにある、第二体育館。男子バレー部が使っているあの場所で、いつも東峰はきらきらしてたよ。辛い練習のはずなのに、東峰はいつだって、楽しそうだった。眩しくて仕方なかったんだ。そんな東峰にわたしは目を奪われたんだよ
クラスでは、強面のくせに、どこか気弱で、いつも優しくて。そんな東峰の違った一面に、目を奪われたの。打ち込んだボールが地面に到達する時の衝撃音。びりびりと鼓膜を刺激して、しばらく耳が痛くて仕方なかった。でも、それ以上に、胸がうるさいくらいに脈打っていて
「東峰、いつも楽しそうだった。」
「みょうじ…。」
「わたし、東峰がどうしてこんなところにいるか、とか、そんなの全然わかんないけど偉そうなこと言って本当は東峰がバレーを嫌いなのかもしれないけど。でも、それでもわたし、東峰がバレーしているところ、好きだよ。わたしは、好きだよ。」
「……っ。」
「あ、いや、あの、ごめん、えーっと、今のは、東峰を好きとか、そういうんじゃ、なくて…えっと、その。」
「みょうじ。」
「は、はいっ!?」
言ってから、やっぱり後悔。一人で何を言っているんだか。急に恥ずかしくなって、言い訳を繰り返すわたしの言葉を東峰が遮る。上擦った声で返答。ゆっくり、こちらを向いた東峰の目。ばちり、視線が交差
「おれ、行くわ。」
「え?」
急に立ち上がって東峰が言う。鞄を掴んで、どこに?なんて愚問だ。東峰が向けた爪先の先は一つだけ
「…いってらっしゃい。」
「おう。ありがとな。」
お礼を言う東峰に「言いたいことを言っただけだよ」と言えば、東峰は照れたように笑いながら一歩、前へ。ぴんと伸ばした背筋。もう下は向かない、かな。そう思いながら東峰の背中を見送ろうとしたら、ふと、思い出したかのように、その背中がくるり。東峰がゆっくりこちらを振り返り、「あ、言い忘れてた」なんて言ってわたしに言うの
「みょうじ。」
「な、何。」
「バレー、楽しいよ。」
「……っ。」
「じゃあ行くわ!」
次は振り返らずに走り出す、東峰の背中。小さくなって、見えなくなるまで、わたしはその背中を見つめることしかできずにただ立ち尽くして。心臓がうるさく主張する。治まれ、なんて思いながら、胸元に手を置いて、ゆっくり深呼吸
きらきら、見えた。わたしが羨んだ、目を眩ませたきらきらの世界の端っこ。
「かーえろ。」
草の汁が付いてしまったスカートを二回手でほろって、ふと思った。そうだ、わたしも上を見て帰ろう。そうして見上げた空がとてもきれいで思わず溜め息が零れた
世界を変えることができないちっぽけな言葉でも、
きみの背中を押すことはできたみたいだ。
(みょうじ!)
(あ、東峰。)
(今休憩中なんだ。)
(そっか。)
(それで、良かったら…見学していかないか。)
きみが放った言葉に目が点。そして思わずフリーズ。そんなわたしを見て慌てるきみの姿。端から見たらとても怪しい構図だ。思いがけない提案に、「びっくりしただけだよ」と言えば、きみはほっとした顔。「もちろん」なんて大きく頷けば、良かったとやっと笑顔を一つ零す。わたしのちっぽけな言葉では世界を変えることはできない。でも、きみの笑顔を見ることはできるみたいで。そうして、変えられなかったこの世界は、なぜか、きみの言葉と笑顔で急に色づき始めて変化していくんだから、何だか少し悔しくなってしまうね。
あとがき
アニメを見返したけど、やっぱりネガティブひげ可愛い。
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