二つ
「あ。」
「……ああ。」
流れる空気が何とも言えない。ばちり、と目が合って思わず放った声に今更後悔していても遅いのだ。放った言葉が喉に返ってくるわけではない
背中を預けていた壁が暖かい。居心地の良かったそこに足を踏み入れようとする足音。ゆっくりこちらに近付いてきて、わたしの隣を陣取る。べつにわたしの場所ではないのに、なぜか自分の部屋に勝手に入られたかのように、少しむっときたりなんかして
「何。」
「べっつにー。」
「じゃあ、帰れば。」
「うわ、冷たっ。」
そう言いつつもけらけらと楽しそうな菅原。調子が狂う。気まずい空気。息苦しさ。そう感じているわたしとは違い、菅原は特に何とも思っていないようで、ただぼんやりとわたしの横に座っている。菅原がどうして、なんでここにいるかわからずにもやもや。聞いてもはぐらかされるし
何なのよ、もう。
何も用がないなら早く帰ればいいのに。そう、菅原に言おうとして、口を噤んだ。よく、考えればそれはわたしにも言えることだな、と気付いて苦笑。用がないのに、ここにいるのはお互い様で、それを言う資格をわたしには持ち合わせていないのである
「あのさあ。」
「……何。」
「寒くない?」
「……べつに。」
「そっか。」
「うん。」
気まずい沈黙わたしも菅原も話題を振ろうとはせず、沈黙がこの場を占拠する。ほう、と吐き出した息は、色もなく、どこかへ消えていくだけ。いつの間にか吐く息は無色透明で、誰にも見えなくなっていた
俯いて、足のつま先を見つめた。ボロボロになったスニーカーのつま先。三年間、履き続けていればそりゃそうなるだろうと頷けるほどだなあ、なんて他愛もないことを思っていると、おもむろに口を開く菅原。わたしの名前を呼ぶ声が、この沈黙の中を静かに、且つ、はっきりとこだました
「みょうじ。」
「何。」
「あのさあ……。」
「帰るか、道宮。」
「そうだね、澤村。」
「………っ。」
近付く足音。人気の少ない体育館に響いた二つの声。菅原の声を掻き消してしまうほど、わたしの耳に大きく反響した。二つの声に、ぐっ、と思わず噛み締めた唇。ぴりりと痛んで、口の中に広がり鉄の味が胸を締め付けた
見たくない、のに。
何をやっているんだろう。ばかみたい。ドMか、わたしは。こうなるってわかっていたのに、こんなところで、待っていたりして。知っていたのに。澤村と、結ちゃんが、ここにいるって。知っていたからこそ、わたしはここで待つしかできなくて
動いてくれない足。逃げ出したい。見たくない。そう思っているのに、わたしの足はそこに根を張っているかのようにぴくりとも動いてくれなくて。その間にもこちらにどんどん近付く足音。耳を塞ぎたくなるような体育館の床を擦る、耳障りなバレーボールシューズの高い音
「あれ、何してんだ、スガ。」
「菅原…?あ、なまえも。なんで、菅原と一緒にこんなところに?」
「おっすー道宮。はは、ちょっとなー。」
「?まあ、いいけどさ。二人とも、遅くならない内に帰りなさいよー。」
「おー、さんきゅー。」
「じゃあね、二人とも。」
ひらひらと手を振って、二人がこの場を後にする。遠くなる足音。わたしはまだ爪先を見つめたまま。ずきずきと痛みだした胸元を掴んで、呼吸困難。二人はもう目の前にいないのに、二人の声が耳の奥でずっと響いている
「みょうじ。」
「……何。」
「あのさ。」
「わかってる。惨めだと思ったでしょ。ばかだろって。わたしもそう思うし、うん。ドMかな、わたし。あはは。」
「みょうじ、ちゃんとおれの話を聞けって。」
「言わなくてもわかってるって!菅原に言われなくても!!大体、菅原にわたしのこの気持ちなんかわからないくせに!!」
「わかるって言ってるべや!少しはおれの話を聞けよ!!」
「……菅原、痛い。」
「あ……悪い。」
「ううん…こっちこそ、ごめん。」
珍しく怒鳴る菅原。取り乱して、掴まれた手首。ぎりっと力を込められて痛む。痛い、と言えばすぐに離れていく菅原の手の平。気まずそうな顔で、ごめん、と菅原に謝られて、わたしもごめんと謝る
菅原のあんな声、初めて聞いた。
いつもにこにこと笑っていて、あんな風に声を荒げることなんてなかったから。だから、ちょっとびっくりした。心臓がどくどくとうるさいのはそのせいだ。急に、大声上げられたから
「おれには、みょうじの気持ち、わかるよ。」
「なんで。何が、どう、わかるの。」
「大地のこと、好きで。道宮も、好きで。二人がお互いを好きだって、想い合っているって知っていても、諦められなくて。傷つくってわかっていても、ここに足を運んでしまうみょうじの気持ち。」
「どう、して。」
「みょうじが大地のことを好きだってばればれだし。嘘吐くの、下手くそだしな、みょうじは。」
「……うるさい。」
何でもお見通しだ、と笑う菅原の顔がむかつく。でも、うるさい、としか言えなくて、ちゃんと反論できないのは、菅原の言う通りだから
ずっと、ずっと前から、一年生の時から同じクラスの澤村のことが好きだった。少しでも近付きたくて、なんて不純な動機でバレー部のマネージャーになったりなんかして。結ちゃんとも、バレー部繋がりで仲良くなって、わたしは二人とも同じくらい好きで、大切で
そして、いつの間にか、嫌いになってた。
大好きな二人のはずなのに、いつの間にか、二人のことを嫌いになっていた。一人一人、単体でいてくれる時は好きなのに、二人が一緒にいるところを見ると、どうしても胸が痛くなって、苦しくなって、勝手にわたしの心は二人を嫌いになっていく。わたしの心なのに、全然自由にならない。思い通りになってくれなくて、なのに、わたしはばかみたいにここで、二人を待つようになってさ
「ばか、だよね、本当。」
「なんで。」
「二人のこと、好きなのに、嫌いなんだ。本当、自由にならないの、わたしの、心なのに、想いなのに。」
「みょうじ……。」
「知っているの。菅原の言う通りなの。ばか、みたいでしょ。」
見つめたつま先が、ぐにゃり、と歪む。度数の合わないレンズを覗き込んだみたい。鉄の味のする唇を引き結んで、体の前でクロスした手の平を強く握り締めた。震える言葉を放てば、菅原はわたしの横からすっと消える。顔を思わず上げそうになった瞬間、引き寄せられる体。さっきまでぴくりとも動かなかった足がなぜか今はいとも簡単に動いた
自分の今の状況がよくわからなくて、瞬きを数回。数回繰り返した瞬きのせいで、塩分を多分に含んだ水が頬を伝う。地面に落ちる前に菅原の制服の肩口に落ちて、小さな染みになる
「菅原…?」
「みょうじは、ばかじゃないよ。」
「え。」
「ばかじゃない。」
「菅原……。」
「おれもさ、二人も、みょうじのことも好きだけど、三人のことすごく嫌いだったよ。」
「え?」
「みょうじと同じように、みょうじが大地を想うように、道宮を想うように、おれも、みょうじのことを想っていたから。」
そう言って、わたしの背中に腕を回して、より一層わたしと菅原の間に距離がなくなる。0センチの距離。わたしの背中に回っている菅原の腕が、小刻みに震えている。もしかして、菅原泣いてるの?なんて聞いてみたら、「うるさい」といつものわたしの口癖のような返答
ああ、何だか、ホッとした。
この気持ちをわたしだけではなく、菅原も持っていたことに。ばかじゃないと言われたことに。この想いはごく自然なことなのだと言われたことに。抱き締められた、抱き締めてくる菅原の体温に
「ねえ、菅原。」
「ん?」
「わたし、前を向ける、かな。前を向きたいな。」
「ん。」
擦り減ってぼろぼろになったつま先ばかりではなく、きらきらしている世界を。言葉にして初めて、気付いたんだ。
振り向いた気持ち、二つ。
ゆっくり向かい合って、一つ。
(みょうじ、帰ろ。)
(うん。)
(今日も、明日も。一緒に。)
(うん。)
(おれが、手を引いてあげるから。)
つま先ばかりを見てしまうわたしにきみが言った。手を引いて、今日も、明日も、ずっと一緒に歩いてくれると。わたしはまだ、つま先を見てしまう。きっと、今日も、明日も。でも、少しずつ、少しずつ前を向いていけると思うんだ。だって、思うの。見たいって思うの。きみがわたしの手を引いて見せたいと言った世界を、わたしも。わたしのことを、わたしが澤村を想うように想ってくれていたきみが手を引いてわたしにどんな世界を見せてくれるのか。わたしはぼろぼろのつま先を見ながら、少しずつ力を込めてきみの手を握り締め、一歩踏み出した
あとがき
好きな人が仲の良い友達と良い感じだったらちょっと、いや、かなり凹む。
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