息をする


何をどこで間違ったのだろうか。


一人自問自答しながらわたしは息を潜めて、どうすれば己の気配を消すことができるのか思案する。どこで間違ったのかを考えたら、最初から、としか言いようがない。そもそも、だ。わたしが明日提出しなければいけない数学の課題をうっかり机の奥にくしゃくしゃに入れてしまったのが間違いだった。それを忘れなければ、わたしは今こんなにも忍者のように物陰に潜む必要はなかったんだ。



「つ、月島くん!」


「何?」



そして、自分のタイミングの悪さを呪うばかりである。まあ、もう一つ、間違っていると言うとすれば、何でこんな廊下の真ん中で、というところだろうか。人通りが絶対あるだろうに、どんだけ自信があるというのだ。もしもの事態があれば公開処刑そのものではないか。しかも、その廊下というのも、わたしが今目指したいところナンバーワンであるわたしのクラスの真ん前


月島、と…誰だっけ。


月島くん、と呼ばれていたから、恐らく、というか、十中八九それは同じクラスの月島で、もう一人は誰だろう、と気配を殺しつつもここからこっそり様子を窺ってみれば、月島を呼んだ子はわたしでも知っているほど学年で一番可愛いと有名な女子生徒だった

長身の月島より頭二つ分ほど小さい身長。もちろん顔だって小さい。制服のスカートが皺になってしまうほど、きゅっと握り締めて緊張した面持ち。女子のわたしから見ても、溜め息がこぼれてしまうほど、その様はなんと可愛らしいことか



「あの、えっと…。」


「何?話があるなら、早くしてほしいんだけど。」


「あ、う、うん。ごめん……。」



月島、なんだその態度は!


いや、べつにわたしはその女子の友達でも何でもないんだけど、月島のその態度と言葉に、盗み聞きをしている自分を棚に上げて憤慨してしまったりして。月島が背を向ける形になっていて、ここからじゃ月島の顔は見えないけれど、口調や声音から言って、心底うんざりとした様子が窺える。女の子が緊張ゆえに上擦った声で謝罪を言って、余計に震えた小さな肩が何とも儚い。わたしが月島と同じ立場だったらその姿のいじらしさに思わず抱き締めてしまっていることだろう

誰がどう見ても告白するシチュエーションにわたしまで自分のことのように鼓動が早くなる。月島ってモテるんだ。初めて知った。いや、確かに身長は高いし、顔もまあ、整ってはいる。けど、性格の悪さは天下一品。嫌みったらしいし、なんかひねくれているから、モテないもんだと勝手に思っていたけど、どうやらそういうのは関係ないらしい



「あの!わたし、あの、その…。」


「何?」


「わたし、ずっと前から月島くんのことが…。」



可憐な女子がスカートを握り締めている。なぜかそれを見てわたしも手に汗を握っていた。彼女の気持ちに同調するかのように、なぜかわたしの心臓が、ひどくうるさい



「好きです、付き合ってください。」



震える形の整った唇からやっと放たれた一言。しんと静まり返った廊下に深くこだまする。テスト期間だからか部活に行く生徒もおらず、もうすでに帰宅した生徒たちばかりのここは人気がないためか、余計に音を反響させた


月島は、どうするのかな。


なんて答えるのだろう。わたしが月島の立場だったら、はい、って言ってしまいそうだ。だって可愛いもの。女のわたしから見ても、その子は可愛いと断言できる。目なんか大きくて、さ。しかもその目が潤んでいて、なんていうか、庇護欲を掻き立てるというか、さ



「えっと…月島くん?」


「え、ああ。ごめん。」



突然の告白に驚いてぼうっとでもしていたのか、月島は女の子に話し掛けられて少しびっくりした様子。「大丈夫!」と言って健気に笑顔を見せる女の子はすごく可愛い。これは月島くん惚れてしまいますわ、と思いながら、もし月島がこの子と付き合ったら、なんて勝手に想像なんかしてみる

同じ中学校出身のわたしと月島と山口三人はなんだかんだ高校でも一緒にいた。もし付き合ったら、月島はあの子と行動をともにするようになって、三人で帰ったり、部活がない日に遊びに行くことなんて、ほとんどなくなるんだろう。わたしと山口が一挙一動ばかみたいに騒がしくする中、月島が溜め息を吐きながら後ろを付いてくる、なんてそんな風に当たり前に過ごしていた日常がなくなるってことだ


それは、なんだか嫌だなあ。


素直にそう思った。嫌だ、と。なんだかんだ言って、わたしは山口と月島とそうして過ごすことが結構好きだったりしたから。だから、その日常が急になくなってしまう現実は、想像でも、身勝手ながらにちょっと寂しい。ずっとそうして過ごしていけるはずもないのに



「ごめん。ぼくはきみと付き合えない。」


「あ…そ、っか。」


「ごめんね。」


「えっと、月島くん、好きな人とか、いるの?」



月島はなんて答えるのかな、なんていやに鼓動を早くしながら答えを待っていると、ごめん、と言う月島の謝罪が聞こえて、なんだか急にここにいるのが気まずくなった。その気持ちをさらに掻き立てるように、女の子は言葉を続ける


月島の、好きな人?


興味をそそられるようで、何となく聞きたくないとも思ってしまうような彼女の質問に、わたしは耳を塞いだ。これ以上、聞くのはよくない。さっきまで盗み聞きしておいて今更だと言われるかもしれないけど、そう思った。息を殺して、耳を塞いで、わたしは何をやっているんだろうか。いや、でも仕方ないのだ。プリントの提出は明日で取りに行かなければいけないのだから、と自分に言い聞かせたりなんかして。わたしはただそこに立ち尽くして、二人がどこかへ消えて、教室にプリントを取りに行くことだけを考える

自然と俯いていた顔。廊下の床がよく見える。掃除当番がきれいにしたばかりの床を見つめていたら、急にそこに影が差した。なんだ、と思って顔を上げれば、そこには「不機嫌」という文字を顔いっぱいに湛えた月島の姿。びっくりしすぎて心臓が止まるかと思った



「な、なっ!なな!!」


「悪趣味。」


「な、ちがっ、ばっ。」


「最初からいたくせに、何が違うの。」


「ちょ、なんで、気付いて…!?」


「気配でわかる。」


「何それすっご。」


「で、こんなところで何してるわけ。テスト期間だしもうみんな帰ってるけど。」


「え、あの、いやー、あはは。」


「大方、明日提出の数学のプリントでも忘れたんでしょ。本当、そういうところ変わらないよね、きみ。」


「うっ…返す言葉もございません。」


「そうだろうね。」



飄々とした態度で、会話。わたしばかりなんで気まずいなんて思わなければならないのだ!べつに遭遇したくもなかった告白現場に居合わせて、でもプリント取らなくちゃって迷惑被ったのはわたしなのに、なんてプリントを忘れた自分を棚に上げて目の前の月島に心の中で悪態を吐こうかと思ったら、くるりと月島の踵が反転。わたしに背中を向けて、月島が歩を進めるはわたしが入りたかった自分の教室



「何してるの。プリント取りに来たんでしょ。」


「え、ああ!うん。」



そうだ。わたしは明日提出の数学のプリントを取りに来たんだったとすっかり見失っていた当初の目的を思い出してわたしの数歩先を歩く月島の背中を追い掛けて教室へと向かう。がらりと誰もいない教室のドアを開けて、自分の席へ。お目当てのプリントはやっぱり机の奥でくしゃくしゃになっている

わたしのくしゃくしゃのプリントを見た月島は呆れたように溜め息を一つ吐き出して、「帰るよ」と言ってまたわたしに背を向けて歩き出す。どうやら一緒に帰るらしい。家の方向だって同じなんだから、まあ、一緒に帰るのが普通なんだけれど、ちょっと違和感。置いて行かれそうになってその違和感はとりあえず頭の片隅へと追いやって、くしゃくしゃのプリントを鞄の中に押し込み、急いですっかり小さくなりかけた月島の背中を追った


なんか、変。


月島の隣を歩く帰り道。頭の片隅に追いやった違和感が戻ってくる。いつもはうるさくて月島に怒られてばかりの帰り道も今日はひどく静か。むしろ無言がここを占拠している



「何黙ってんの。」


「え。」


「いつもは山口とうるさくしてるくせに。」


「あー、うん。」


「ぼくと二人はそんなに嫌なわけ。」


「え?そ、そんなことないよ。」



そんなことはないんだけど、ただ、違和感が。なんて説明したらいいのかわからないけど、と隣にある月島の顔を見上げて気付く。月島ってこんなに大きかったっけ、とか。背が高いのは知っていた。だけど、隣を歩く月島がこんなに大きかったなんてわたしは知らなかった


こうして歩くの、初めてだ。


いつも、三人でいたから。わたしと山口が先を歩いて、ばかやって騒ぐのを月島は後ろで溜め息を吐きながらついてきて。だから、隣に並んだ月島の顔がひどく高い位置にあるって事、わたしは知らなかった

なんだか、胸が変な音を立てた。鼓動が早くなる。何これ、と思っていると、突如頭の中に響く、さっきの言葉。彼女が聞いた、言葉。「月島くん、好きな人いるの?」なんて。告白した、彼女の言葉。想像をした、月島の姿



「ねえ、月島。」


「ん?何。」


「もし、もしさ。」


「だから何。」


「告白したのが、わたしだったら、月島はなんて答えたの?」



きみの隣を初めて歩いて、気付いたわたしが放った言葉。



まるで息をするかのように、きみに恋をしていた。
それが当たり前すぎて、気付かなかったの。


(べつに。)
(べつにって何!)
(まあ、そうだね。)
(うん?)
(断りは、しないかな。)


目を見開いて、夕日に照らされたきみの横顔を思わず見つめた。ぎょっとした。心臓がひどく鼓動を早めて、痛い。言葉を失ったわたしを見て、きみはおかしそうに意地悪く笑いながら、「きみから言ってきたのに、何その顔」なんて言われちゃって。何だか、負けた気分だ。そんなことを思いながらわたしは仕返しをするように、隣にあるきみの手を握り締めてみる。初めて握ったきみの手。隣を歩くきみの顔。胸が高鳴る。ああ、初めて気付いた。今更のように、当たり前のように、きみに恋をしていたこと

あとがき
きっと月島くんは告白を面倒そうに受けるんでしょう。ああ、その面倒そうな顔も可愛いんだろうな…!

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