剣刻 創作(4/3)
武人にとって舞人とは、同じ川の水を汲む、対岸の人なのかもしれない。武芸を極める人の、流れるような動作を見るとき、そう思うことがあった。
稀代の猿楽師、七太夫長能──もしこの方が武家の生まれだったら、今頃は武勲の誉れ高き若武者として世に知られていたかもしれない。
(……いや、それでも坊ちゃんは、踊りのほうに行っただろうな)
──にゃあ。
茶半次の膝で猫が鳴いた。道場に来ると、いつもこうしてすり寄ってくる子猫だ。じゃれて前肢を伸ばすのを、
「おっと! これで遊ぶのは無しだぜ、猫さん」
そう言って上に上げた茶半次の手にあったのは、平素持ち歩く人形ではなく、一本の扇子だった。
修理の終わった扇子と、思い付きで作った小物を渡しに来た。が、依頼主の七太夫はちょうど稽古の最中だった。邪魔するのは忍びない。
風は木枯しの気配がするが、さほど冷たくはなかった。真剣な様子の猿楽師の舞を覗き見しつつ、人懐っこい猫と遊んで待つことにした。
◇◇◇◇◇◇
稽古用の扇子を預かったとき、要の締まりが弱くなっていた。親骨を持って振るだけで、へこへこと開いたり閉じたり、これでは稽古に支障がでるだろうと思った。
「おや? ちょっと小さいな」と茶半次は言った。舞台で使われる舞扇より五分ばかり丈が短い。
「はい、子ども用です。これは私が初めて持ったお扇子なんです」
なるほどね、と頷いた。道理で使い込まれている。間近くの紙の傷みが目立ち、扇面の折り目は擦れて毛羽立っている。金泥で描かれた小さな縁起物の絵は、おおよそが剥げかけていた。
「お下がりにでもやるんで? 地紙の張り替えもやっときましょうか」
申し出ると七太夫は頭を振った。
「いいえ、こればかりはあげられません……。ただ、ちゃんと使えるお扇子として、手元に置いておきたくて。直してもらうのは要だけで結構です。……頼んでおいてなんなのですが、使いはしないのです。すみません、茶半次」
伏し目がちになられたので、茶半次は焦った。余計なことを言ってしまった。扇子の傷みは、天才と言われる少年の、影で積み重ねてきた努力の証だった。
「謝らないでください、こっちこそ失礼なことを言っちまいました。そんなに大事なものを任せてくださって、嬉しいですよ。……そうか、坊ちゃんはこいつと一緒に稽古してきたんですね」
「……はい」
茶半次の言葉に花のように笑っていた。
◇◇◇◇◇◇
「声をかけてくださってよかったんですよ。寒かったでしょう」
「ちょうどいい“あんか”がいたんで、平気ですよ」
茶半次の手を離れた子猫は、次なる遊び相手を探しに行った。七太夫に扇子が差し出される。
「直した扇子です。ご確認を」
水平に開き、縦にたたむ。手に伝わる感触に、笑みが漏れた。
「──うん。大丈夫です。ありがとうございます、茶半次」
お代はいくらかと七太夫が聞くと、茶半次は手を振った。
「いりませんよ。このくらいのことで貰ってたら、相模坊の旦那なんか破産に追い込まなくっちゃなんねェ」
「それはそうでしょうが……タダというわけには」
茶半次は「律儀ですねェ」と感心半分、苦笑半分という感じ。
「稽古を見させてもらっただけで、儲けもんだと思ってるんですが。どうしてもって言うんなら、そうですねェ……そいつが“つくもがみ”になるくらい、大事にしてやってくださいよ。それが礼だと思ってください」
「つくもがみ、ですか?」七太夫は首を傾げた。
「物が百年、可愛がられて魂が宿って──物作りの人間からしたら、夢ですよ。ま、俺はちょちょっと直しただけですけどね」
そう言って茶半次は、にかっと笑った。この男の子ども時代が見えるような笑顔だった。
「百年……気が遠くなりますが──」七太夫は額のお面にそっと触れる。「──この鬼面も、つくもがみとなることがあるでしょうか」
「そうなりゃ、面と扇子で坊ちゃんの話でもするんでしょうな。……あ、あとこれ、よかったらもらってください。日月堂にあった余りもんなんですが」
飴でも分けるように渡されたのは扇子立てだった。
「坊ちゃん、綺麗な扇子をいっぱいお持ちでしょう。飾ってみたらどうです?」
「……ありがとうございます。さっそく使います」
じゃあ俺はこのへんで、と茶半次は立ち上がった。
「お稽古終わりに失礼しました。風邪など召されませんよう」
去っていく背中に、ふと、言ってみる。
「──茶半次は、笑うと子どもみたいですね」
振り返った顔は、笑いながら赤くなっていた。そうなると更に幼く見えた。
◇◇◇◇◇◇
「七太夫はん、かくまってっ!」
自室に戻った七太夫のもとに、白天狗が転がり込んできた。返事も聞かずに障子をぴしゃんと閉めて箪笥の影に素早く隠れる。
七太夫は扇子を扇子立てに掛けていた手を止めた。
「どうしたのです、飯綱?」
声をかけると、しーっ!と口の前に指を立てる。
すると遠くから、相模坊の大声が聞こえてきた。もう怒ってないから出てこいと飯綱を呼んでいるが、飯綱は不信な視線を声の辺りに向けている。
「今度は何をしたんです?」
七太夫がため息混じりに訊くと、飯綱は頬を膨らませた。
「何もしてへんよ! ただおっさんがでっかいくしゃみして、『風邪か?』とか言うから、『おっさんが風邪ひくわけないやん』って言うただけやもん!」
「……あぁ……」
また飯綱を呼ぶ声がする。声の調子を聞くかぎり、本当に怒ってはいないようだ。むしろ心配する声色に聞こえた。いじける飯綱を宥めることにする。
「飯綱、相模坊は怖くないですよ。一緒に行ってあげますから」
「別に怖いわけやないけど……ほんま?」
「ほんま、です」
しゃあないの、七太夫はんが言うなら……と、唇を尖らせながら、しぶしぶ立ち上がる。
部屋を出る間際、飯綱が訊いた。棚に置かれたものを見て、
「なあ、七太夫はん、これってわざわざ飾るもん? なんか……下の台のほうが綺麗やん」
七太夫も振り返る。
飯綱の疑問はもっともだ。きらびやかな物ではないし、新しく綺麗なものでもない。それでも──
「ええ……わざわざ飾るもん、なのですよ」
微笑む主人に見つめられ、扇子は誇らしげに佇んでいた。
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