鷺舞い(21/1)
屋根に登るのが好きだった。
銀扇のように光る初夏の田んぼ。
雨の翌日の痩せた川。
病のように紅葉した山々。
夕日。
空の高きを飛ぶ猛禽。
洗ってくれるような風。
屋根の瓦は日に温まって足の裏や尻に心地よい。冬は悲しくなるほどつめたいけど。
安らぎを与えてくれるなら、どんな景色も感覚も、くしゃみが出たって、愛していた。屋根にいる時だけ、深く息を吸えた。心からほっとできた。
つかの間の何でもない時間は、母さんの声が聞こえたらおしまいになる。
無視をすれば酷く怒るので、返事をしてから、せめてもの抵抗でゆっくりと下りる。登るのは木を伝って登っていた。だから下りるのも木に帰る。
私は様々な習い事をさせられていた。下界に戻ればお稽古が待っている。稽古着も習い事によって違うものが用意されている──どれも派手が過ぎた。
体を動かす踊りだけは好きで、猿楽師の先生も熱心に教えてくださっていた。私も、その先生にだけは懐いた。踊りの日くらいか、地上に下りるのが苦でなかったのは。
障子を外した二部屋を、稽古のために使った。欄干が邪魔でしょうがなかった。贅沢なことかもしれないが、道場に出かけていた兄さんが羨ましかった。
母さんの目がない板の間で、型にはまって、ただ踊るために踊れたら・・・どんなに良いか。
真面目に習っていたつもりはなかったが、他の習い事でもそこそこの才能はあったらしい。先生方からはよく誉められた。母さんはそれを聞いて、我がことのように鼻高々になっていた。
お祭りの余興や、お偉方の宴に出されれば評判を得た。
秋月の町で噂になって、父の上司のお武家さまの屋敷に招かれ、言われるままにお披露目すると、反吐が出るほどお誉めの言葉を頂いた。
小躍りする勢いで喜ぶ両親の傍らで、私は冷めていた。
良い縁談が来るかもと浮き立つ母、金をかけて習わせた甲斐があった、と、父。
我が身が女と知った時から、儘ならないことが多くあることを、幼心にも分かってはいたけれど。
二人が喜ぶ姿を、なにかおぞましいものを見る気がして嫌気がさし、上を向いた。天井の先にある、屋根の上の異界を思った。
ある日また、屋根で休んでいた。もやもやした心を風に晒した。
木に移るまえに、ふと、下を覗きこんだ。
思考が止まった。
地面に吸い込まれる感覚。
頭から落ちそうになる寸前に気がついて、その時は、雨樋を掴んで事なきを得た。
冷や汗が出た。
ああ、今自分は、死に誘われたんだ、と思った。
兄さんに話すと、俺もそういうことがあったなあと言う。
家の近くにあった寺の、もう使われていない井戸の底を覗いたとき、水底から呼ばれたように思えて、落ちそうになった。友達が腕を掴んでくれて助かった、と言っていた。
あんまり屋根に登るなよ、どうせ逃げられんぞ、とも付け加えて。
兄さんの苦言を聞き入れたつもりはないけれど、その日から私は屋根に登るのをやめた。
また誘惑されることがあったら、抗える気がしなかったから。死ぬのは怖いから。
でも、心のどこかでずっと、埋み火のように消えない思いがあった。
もう一度、何度でも、あの虚無の感覚に──叶うなら永遠に──浸っていたい、と。
◇◇◇◇◇◇
寛永七年三月某日。江戸城の一室にて。
時の将軍、徳川家光は、寛永寺の大僧正天海の使者から報告を受け、ため息をついた。
「・・・そうか。犠牲になった者は、残念であったな」
使いの僧は、恭しく頭を下げる。
「お心くばり、有り難く存じます。誠に不甲斐なく・・・」
寛永寺で起きた異変についてだった。
昨夜のこと。
寺で保管、封印していたある物に、取りつかれてしまった小僧がいた。
深夜、寝床を抜け出し、それが置いてある倉の鍵を開けた。事前に合鍵を作っておいたらしい。封呪の札を破り、箱を開け、それを取り出そうとしたところ、小僧が寝床を出たきり帰ってこないことに気づいた別の小僧に見つかった。
小僧は暴れたが、騒ぎを聞き、駆けつけた僧兵たちによって、犠牲者は出ずに済んだ──その小僧以外は。
凶事に及ぶまで、何も怪しいところのない、良い子だった、と使いの僧は言った。
「やはりあれは、すでに主を定めているか」
家光の言葉に、僧は顔を上げる。
「そういうことであろうと、大僧正も申しておりました。正確に呪を施しても、必ず破られます。絆が結ばれているのでしょう」
脇息に凭れ、扇子を開き、指の腹で要を撫でる。骨をつなぐ金具が冷たい。
「如何にして運ぶ?」
「大僧正自ら呪をかけなおし、箱を用意しておりますので、渡されるまではそれに。しかし充分にお気をつけくださいますよう。宿主の元に帰れば、何があるか分かりませぬ」
「うむ。天海にも苦労をかけるな」
用件を終え、僧は辞した。
立ち上がり、襖に寄れば、控えていた者がさっと開ける。
縁に出て中庭の空を見上げると、花の香りが届いてきた。
曇天の、所々の切れ目から、冴え冴えとした陽光の柱が幾本も降りていた。三羽の春禽が、なんの鳥か判別がつかないほど上空を、追いつ追われつ、時おり日光に身を照らしながら飛んでいた。
少しつつけば降りそうな灰色の空は、家光の目に、ある刀の刀身を思い起こさせた。
ぬめるような光を放つ、麗らかな、ひたつら・・・
家光は近づいてくる足音を聞いた。
半身を返し、声をかける。
「宗矩」
やってきたのは、徳川家の剣術指南役、柳生宗矩だった。
「上様・・・」
眉間の皺が深く刻まれ、神妙な面持ちだ。
「寛永寺でのこと、聞いたか」
「・・・は。先ほど」
──上様、と、ためらいがちに、
「あれを駿府へ持ち込むこと、やはり、お考え直しくださってはもらえませぬか。あまりに危険だと思われます。お渡しになるなら、黒田に言いつけ、寛永寺に連れてくれば──」
「それでは意味がない。余は見極めたいのだ」
忠臣の提案を家光は、はね除ける。
しかし、と食い下がろうとするのを目で制した。宗矩は黙するが、心配げな表情は変わらない。
下がる眉尻を見ていると悪戯心が働いて、
「存在させない方が良いと分かっていて、そうできない。余も魅入られ、取り憑かれたと言えるだろうな」
冗談めかして言うと、宗矩は息を詰まらせ、顔が強張った。
「う、上様っ・・・そのようなご冗談を・・・」
「ふふふ」
すまんすまん、と謝る。
中庭に目を戻せば、鳥たちは書院の屋根の向こうに消えていくところだった。
五年前、筑前国にて捕らえられた刀があった。家光の命によって封印の呪術を施させ、寛永寺まで運ばせた。稀代の霊験を持つ大僧正、天海の元で管理させている──
「妖刀千五村正・・・か」
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