雨中鶯(21/21)
「なあなあフミさん、姫さん大丈夫かなぁ」
供待ち部屋で待機する黒田家家人の一人、草介がフミに声をかけた。家人らは宴のお裾分けを貰ったり雑談などして過ごしていた。
そろそろお上がりかという頃合いになっても、我らが女主人はまだ帰らないらしい。昼間は上様からの差し入れなどもあったせいで、みんななんだかそわそわしていた。
草介は人の輪から一歩引いているフミに、待つあいだ何度となく話しかけた。いつも仕事熱心で涼姫にべったりの人だから、こういう時じゃないとろくに話もできない。
昨日、涼姫が城から男に連れ出されたとき、必死になって探していたフミだから、今も気が気でないのではと草介は思っていたが──
「お城の中ですから、不味いことにはならないでしょう。あの方も一応はお姫様ですから」
と、案外冷静だった。
「そうかー」
草介が勇気を出そうが出すまいが、何を話しかけようと、返ってくるのは淡白なものだ。これは涼が黒田家に入り、それにフミが添ってきたときからずっと変わらないことだった。
「・・・あのさ、フミさん」
草介は他の侍女がいるほうへちらりと目線を向けて、こっそりと声をひそめた。
「姫さんが失くした財布、あったろ。あれ、あいつら持ってるぜ。なんかしてくるつもりだよ」
「そうですか」
「そうです・・・」
ためを思っての警告も暖簾に腕押し、草介の心も折れかけたところで、フミが立ち上がった。
「・・・お帰りのようです」
言って供待ち部屋を出ようとするので、草介は後を追う。それを見て他の者らも続いた。
振り返りざま、フミは草介に、この日はじめて自分から喋った。
「ご忠告感謝します。──でもそれくらい、わたしもひぃさまも察しておりますので、ご心配なく」
そして薄く──大海に落とした一滴の墨ほど薄く──笑った。
「あっ・・・はい」
草介はしばらく、呆然と立ち尽くした。横を同僚たちが邪魔そうに通りすぎていく。
フミが笑いかけてくれるのは貴重だった。これまでで片手で数えられる程度しかない。
そしてその笑顔が可愛らしいことを、黒田家家人の中で自分が一番最初に気づいたんだという自負が、草介にはある。
フミが自分に笑ってくれた。
馬鹿にされているようでもあったし、涼姫に向けての笑顔とは天と地ほどの差があるのが残念だが、いつかもっと穏やかな、自分が引き出した笑顔を、草介は見たいと思っている。
「父ちゃん、母ちゃん、俺・・・俺、めげねえっ・・・!」
結局部屋を出たのは草介が一番最後だった。
◇◇◇◇◇◇
城を出る髪に雨を感じて見上げれば、夜の空だった。暗い雲がたちこめて、また頬に一粒落ちた。
自分に用意されていた駕籠に潰れた一番刀を乗せて、「丁重にお連れするんだよ」と念を押し、涼は歩いた。家人が差し出した傘を避けて先頭を行く。松明の明かりがついてくる。従者の中にフミもいて、それがなおも傘を差そうとする家人を止めていた。
女主人の腰に増えた物に侍従たちは気付きはしたが、腕組みをしながら無言で歩くので声を掛けることは躊躇われた。
ぽつぽつと降りだしたものが強まる。鳴神の瞬きが遠くで光った。
この雨は花散らしとなるだろう。
ここからではもう見えないはずの桜を涼はもったいなく思って、駿府城の方向を振り返る。所々にある松明の灯りの他には、雨と闇があるばかりだった。
月の光も届かない中空の一点を見つめる。この闇のどこかに、将軍、徳川家光がいる。
涼は腰に差した二振の刀をまさぐり、感触を確かめた。どちらも馴染み深くない柄。
頭の芯まで冷やしたかったのに、春の雨は生ぬるかった。
◇◇◇◇◇◇
「そなたが村正の主だ」
と、家光は言った。
その時胸に受けた衝撃を、涼はどう言い表せばいいのかわからない。幼い時分に、大人たちの気に入らないことをしてしまって母に頬をぶたれた時。思いがけない驚きのあと、一瞬の間を置いて、涙がじわりとあふれた。もうとっくに昔の、過去のものになったはずの頬の痛みを思い出すようだった。
こちらが何か言い出すのを待っている家光に涼は聞いた。
「私に、どうしろとおっしゃるのですか」
家光は軽い咳をし、
「そなたにのみ扱える刀だ。他者にその柄をとらせるな。人は誰しも恨みを持つ。容易く憑かれる。これ以上の罪人も犠牲者も増やしてはならぬ。肌身離さず、片時も目を離さず、管理しろ。昼も夜も、寝ても覚めても──」
──死ぬまで、という言葉が、言外に聞こえた。
「寛永寺にできなかったことが、そなたになら可能だ」
涼は袖を握りしめた手の、力が入るあまりに白んだ自分の指を、他人事のように見ていた。
「もし・・・」
「もし、は無いと思え。だがその時が来たならば、そなたの技をもって斬れ。それが一番、苦しませずに済む」
涼が顔を上げ、家光の青い眼に映る灯火の像が、いつかの赤い花を思い起こさせた──椿。
どうして首を斬らなかったの。
「命じる。村正を御してみよ」
◇◇◇◇◇◇
「毒でも飲まされたんですか、黒羽さまは?」
風呂上がりの濡れ髪を乾かしてもらう。手拭いで拭きながらフミが聞いた。
連れ帰った黒羽殿は宿に着くなり布団に入れられ、そのままうんうん唸りながら寝ている、と家人が伝えてきた。昼間とまったく違う黒羽殿の様子に家人たちは戸惑っている。心配なら医者を呼んでおやり、と言ってある。ちょっと早めに来ただけの、ただの二日酔いみたいなものだと思うが。
「人によっては毒なんだろうよ、酒というものは」
「ひぃさまにはまったく効かないと」
「私には薬にもならない」
「では、なぜ飲むんですか?」
フミが咎める声で言うのは、窓近くの文机に徳利と猪口があったからだ。風呂上がりに飲みたいからと宿に用意させた。酒宴帰りなのに・・・と、飲んだくれの亭主に呆れる女房のように言って、力加減を強くして頭を揉んでくるのでちょっと痛かった。違うよ違うよ、と手を振って、フミの手を止めさせた。
「これは、こうすんの。危ないから離れててよ。・・・もっと離れて」
私は刀──新しい方のそれを持って窓際に寄り、障子を少し開ける。部屋は二階を使っているので縁はない。外はざぁっと降っている。少し身をのり出せば、屋根から零れて簾のようになっている雨に乾きかけた髪を濡らしかねない。稲妻が光った。
刀を抜き、その上に徳利を傾けた。酒は雨脚に混ざり流れゆく。ねっとりとした空気が部屋に入り込み、酒の香りをぷぅんと漂わせた。
刀に酒を滴らせて、耳を寄せてみたり、目を凝らしてみたりする。
しかし何があるわけでなかった。妖刀のあやかしたる姿現れず、音は雨音ばかり、刀身も艶を持ちその美しさに変化をつけたのみ。
酒は聖なるものだから、断末魔でも聞けるかと思ったのだけど。駄目か。
「うーん、ただの綺麗な刀だ」
五年前は刀のことなどじっくり見ていられる状況ではなかった。こんなに美しい刀だとは知らなかった。恨みの心を食うあやかしに美しさが宿っているとは。神の不平等を思う。
「──黒田殿には大典太、私にはこれか」
素晴らしい名刀を授けられたのは同じであっても、しかしこちらは何人もの人間を取殺した刀──胸の内が、ずん、と重くなる。
この刀が人を惑わしたとき、どんな声がその人には聞こえたのだろう。何を言われたのだろう。
後ろで衣擦れの音がする。私が何をしているのか、フミは聞きたくて焦れている。
この子の姉のトキに浅からぬ縁のあるこれが、今また私の手の内に戻った。
トキは兄さんによって殺された。この妖刀に、ではない。しかし、こいつがトキと出会い、トキを惑わさなければ、また違った今があったかもしれない。死んでいなかったかもしれない。なのに私はこの刀の主だった。
濡れた刀を拭って鞘に戻し、障子を閉める。村正を布団に投げておく。今日から同衾だ。
「ひぃさま・・・?」
フミに向き合うと、幼なじみは首を傾げている。膝を合わせて座った。
フミ以外は下がらせていたが、念のため耳を
「私たちはこれから江戸に行く。明日発つよ。とりあえず、義父上と義母上にご挨拶申し上げる。筑前に戻ることがあるかはわからない。私は駒だからね。大凡人(おおよそびと)ではなくなった」
「はい」
「フミ、お前、国に帰ってもいいんだよ」
子供のときから自分のことには頓着しない娘だった。だけどよく見れば目鼻立ちは愛らしいから、ちゃんと気を遣えばいいのにと、よく言われる娘だった。
私の侍女になってからは簡単な化粧をさせている。髪の扱いは苦手だと言うから、朝は私が結ってあげるのがお決まりになっていた。
フミは、思ってもないことを言われたという風に息を飲んでいる。言うと怒るだろうが、驚くと目が真ん丸になって可愛かった。
「私も田舎育ちで勝手がわからないから、きっと苦労も気苦労も多い。義父上は何を言い出すか知れない。今回は試合だったが・・・命令されたらやらなきゃいけない。そういう生活にお前まで巻き込む必要はどこにもない。身の丈に合わない場所に行くのは、私だけでいいと思う。だから──」
「それ以上はおっしゃらないでください」
小さな、温かい手が私の手を包んだ。
「いつでも、何があっても、わたしはお側にいたいんです。わたしに今さら帰る場所なんてありません。でも、だからって仕方なく付いてきたわけじゃありません。いたくて、いるんです。どうかお側に置いてください」
「・・・外には連れていけないよ」
「はい。待っています」
絶対にここで手放したほうがいいはずなのに。私は──ほっとしてしまった。ごめんね、と、心のなかで謝った。
「・・・草介のやつに嫉妬されるな」
「させておけばいいんです。わたし、あの人に興味ないので」
「ふむ? そうか」
私はフミの髪を撫でた。編み込みが歪んでいる。明日の朝になおしてあげよう。
「痕、痛む?」
「雨の日は、少し。うずくような・・・でも平気です」
フミはこちらを安心させるように優しく微笑んでいる。この娘だけは、守らなければ。
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