鷺舞い(21/2)
視界の端に雪柳の花弁が舞っている。
蔦の細道には、昨日、雨が降ったらしい。
山深いために陽が射しにくく、石は乾かず、土が雨水を吸い、滑りそうで危うい。
草鞋も足袋も、すっかり濡れきって冷たい。
宇都ノ山の峠は、東海道の岡辺宿と丸子宿の間にある急峻な山道だ。
由井のさった峠に並ぶ有名な難所と聞いていた。
余裕を持ってゆっくりと登りたかったが。
「ひ、ひぃさま、もう、フミは、走れませんっ」
ちらりと後ろを見る。
息も絶え絶えに言うのは、侍女として連れてきた娘だ。
細道に入ってから、私たちは走りっぱなしだった。
着物は乱れ、髪の結びもほどけそうなほうほうの体のフミを見て、自分も同じようになってるだろうなと思う。
汗が冷えてじっとりと寒い。
それでも、つないだ右手だけは熱かった。
彼女は、か弱いながらも頑張ってくれてるが、脚が追い付いてきてない。
(──私も息が切れてきた)
この山道をあとどれくらい走れるかわからない。
さらに奥に目をやる。
坂の下に、まだ追ってきていた。
汚ならしい見た目の、狼のような、しかしそれは妖怪だった。
目やにの溜まった視線とかち合う。
「姉ちゃん、まだ逃げるのか? 諦めなって!!」
──人語を犬が喋ってるのって、気持ち悪いな。
飢えているのかな。食うまで追ってくるか。
足を止めればすぐさま詰められ、終わるだろう距離・・・
せめて、あれを盗られていなければ──いや、考えても仕方ない。
握った手にぎゅっと力を込めた。
「走れ。弱気は嫌い」
乱れた髪が顔にかかる。鬱陶しい。
かきあげながら上を見ると、丸く、青い空が見えた。
開けた場所に出られそうだ。頂上か。
ならば後は下りのはず。この子を先に行かせるか。 想像してみる。
・・・転んで頭打って死ぬのが、食われるより先かも。
考えてるうちにてっぺんに来た。
「・・・ん?」
下り坂の先に見つける。
細く長く、白い──あれは、お髪?
黒い着物のせいで、体は陰に溶け込んで見えた。
人。
目が合う。
異人風の顔。
──帯刀してる!
◇◇◇◇◇◇
天正十八年より以前、宇都ノ峠を越える道といえば、蔦の細道だった。
今は東海道が整備され、歩きやすいそちらの道をとるものがほとんどで、それでも地元の住民や、山で働く樵たちには利用されている。
その細道に咲く雪柳の花を眺める男が一人。
名を実彰、姓を黒羽と名乗る。
名字帯刀を許された侍だ。
実彰は周囲を見回した。
風に乗って舞う花びらは、木陰に差し込む日射しに煌めく。
山は、春の長閑な日中にあって、雨の名残に湿気っていた。
道に沿うように、すらりと並ぶ雪柳。
蔦の細道の岡辺口を少し入った辺りから、丸子口まで続いているらしかった。
下り坂を案内するような可憐な花を見ながら実彰は、誰にともなく呟いた。
「・・・誰かが、植えたのか」
すると、
「なぁにー? その花がどうかしたの?」
と、気だるげな声がしたと同時に、何もなかった中空に、少女が現れた。
彼女は、実彰の愛刀、孫六兼元のはばきに憑いた妖。そのままハバキ憑きと呼ぶ。斬られた者の血を吸うことを最上の喜びとする。
ふよふよと、目方を忘れた綿のように飛んでいる。
もし、この突如として現れる様子を見る者がいたら、悲鳴を上げて腰を抜かしていただろう。
しかし実彰にとって幸いなことにか少女の姿は、刀の持ち主である自分以外に見えないものだった。
ただ困るのは──
「・・・雪柳は、株を分けるか、さし木をして増やす植物だ」
「ふぅん? そうなんだ」
「・・・このように道案内のように生えているのは、誰かが植えたということだろう、と考えていただけだ」
「ふぅん。あっそ」
「・・・お前が聞いてきたんだろ」
「だって。思ったよりどうでもよくてさー」
つまらなそうに合いの手をいれるハバキ憑きを横目に見る。
一応は会話をしているのだが、他の人間からすれば、独り言をぶつぶつ言っている人、という目で見られることになる。無視をすればいいのだが、たまに苦労する。
駿府城ではこの春、御前試合が開催される予定だった。
実彰もそれに参加する目的で駿府を目指しているのだが、駿府に近づくにつれ、周辺の町の警備も厳しく、同じ参加者であろう侍や、いかにも輩、という見た目の者が多くなってきていた。
実彰には、異国の血が混じる。見れば分かるその特異さ故に注目を浴びることが頻繁にある。
絡まれるのは御免だし、通りすがりにいちいち騒がれるのも煩わしい。急ぐ旅路でもなし、こうして人気の少ない道に入った。
(宇都ノ峠は東海道でも難所と聞いたが、急峻というほどの坂道でもないな。旅慣れない者にはきつかろうが・・・)
峠は越した。下るだけならさっさと山から出られる。
時刻はまだ午前。
(今日中に丸子宿を越えて、駿府につく。駿府は将軍の弟君の治める地。此度の御前試合、上様も御覧になられると聞いたが、東海道の賑やかさもそのためか・・・)
「・・・実彰」
考え事をしていると、ハバキ憑きが呼んだ。
理由はすぐに分かる。
実彰がつい先ほど歩いてきた坂道──木々のざわめきに紛れ、人の走る気配が聞こえる。
何か、逼迫した空気が感じられた。
「なんかくるよ」
「ああ・・・」
そもそもは面倒事を避けてここにいる。
隠れようかとも思った。
だが迫ってくる足音の、軽さにためらった。
女、それも二人。片方がもう片方を、引きずるようにして必死に引っ張っている。
そしてその後方から、四本足の生き物。
・・・後々、この辺りで女人が姿を消したとでも聞けば、さすがに夢見が悪い。
振り向いて見上げると、二人は頂上まで来ていた。
実彰と同じ旅の者か、旅装──しかし手ぶらで。
「あれ、もしかして助けるの?」と、意外そうに言うハバキ憑き。
連れの手を引く女と目があう。
陽光に遮られてよく見えないが、黒々とした瞳だけは分かった。
はっとして一瞬だけ立ち止まり、また駆け出してくる。
「そこの御方! 妖退治を──」
はっきりした声。
奥から獣も姿を見せる。
──実彰は抜刀する。それを見て、女は笑んだ。
「──頼めるかっ!?」
二人が脇を滑り抜け、実彰の後ろに庇われる。
ズザザーッと派手に聞こえたのは、手を引かれた者が転がり込んだ音らしい。
獣が飛びかかってくる。
一刀に斬った。
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