鷺舞い(21/15)
涼が侍女に片された後、それからの実彰は忙しかった。
まずハバキ憑きが、
「──ぷはっ!」
と溺れた人が地上の空気にありつけた時のようにあらわれた。と同時に篠が実彰に体を向けて、
「それで、どうだった?」
「──っ、なんと・・・?」
ハバキ憑きに気をとられて反応が少し遅れた。その様子が実彰らしくなかったからか、篠は口角を上げる。
「黒田涼と戦ってみて、どうだったか。常よりは歯応えがあったろう?」
「ふ〜〜っ! あー実彰、ちょっと提案なんだけどさ・・・」
ハバキ憑きは彼女にしては珍しく険しい表情で話しかけてきた。
しかし将軍と妖怪では優先順位は当然決まっている。
「──まあ、はい。女人と言えど、並ではない・・・興味深い方だと思われます」
「そうだな。変わった奴だ」
「あっ無視してる。ちょっとー?」
話なら後にしろ、後に。今横にとんでもない御方がいるんだ。
非難がましく間に割って入り目の前を飛ぶハバキ憑きを視界に入れないようにする。
「試合自体はどうだ、楽しめたか?」
「この町、離れない? 嫌な気配すんのよぉ」
なんの話だ。
篠の顔はハバキ憑きの姿に隠れて、実彰の目に見えなかった。だから篠の問いに素直に答えたのかもしれない。
「正直に言わせていただきますと──」
「うむ」
「怖い戦い方をされる」
「・・・うむ」
「経験にない異質な・・・試合で。楽しむというよりは、心配になるようでした」
言い表そうとすれば曖昧模糊として、自分でもよくわからない。
いまいち上手い説明ができないでいると、ぽつり、と篠が呟いた。
「まるで、自ら壊れゆく・・・」
「それは──」
自分も思ったことではなかったか。
妖の袖の乱れの隙間から、唇を指先で触る篠が見えた。
続く言葉が思い浮かばなかったらしく、肩をすくめる。
「何なのだろうな、あれは」
「実彰なんで敬語なの? 偉いの、この人?」
建物の陰、俄に騒がしくなった。複数の侍たちの気配。
篠は踵を返した。
「──余にも迎えが来たな。忙しないことだ。では」
またな、と言って立ち去る篠を見送る。靡いた髪が角に消えると、先ほどまでのことが夢だったような心地さえした。
「実彰? ねえね、おーい」
ハバキ憑きの袖がバサバサと眼前で振られる。
「・・・さっきからなんだ」
「だから、なんか嫌なの、ここ。息苦しいっていうか・・・出よう?」
「御前試合が終わっていないのに、出るわけないだろう」
少し前から同じようなことを言って姿を見せないでいた。
たまにあらわれたと思ったら臭い空気でも嗅いだようにすぐに引っ込むという滅多にない様子で、実彰には快適でよかったが。
「それ絶対やんなきゃダメ?」
「当然だ。仕事を得るためだぞ。決勝戦まできて不戦敗など、考えられん」
「そうだけどさ〜・・・」
一体何だと言うんだろう。ハバキ憑き自身、何が忌々しいのかわかっていないらしかった。
「じゃあさ、せめて試合終わったら、すーぐどっか別のとこ行こ! ね?!」
くるくるとまとわりついて取りすがるハバキ憑きに、実彰は適当に応えて返した。
◇◇◇◇◇◇
駿府城内に将軍様がお帰りになった。
主の出奔に悩まされた部下が、黒田家の他にもいた。
「まるで死人の顔色だな」
顎を摘まんでふむふむと感心している主君を見て、柳生宗矩はひくひくと顔面の筋肉を震わせた。
「ご無事で・・・何よりでございます・・・」
自分がどれほど気を揉んだか、毛ほども考えてくださっているだろうか疑問に思う。
この御方が突如として予定にない忍び歩きをされることは、決して珍しいわけではなかった。むしろ頻繁にあると言っていい。
しかし今回ばかりは事情が違った。この駿府ではやめてくだされと何度も何度も繰り返しご機嫌を損ねないぎりぎりのところまで釘を刺して、ご本人からも「分かっている」とやや気だるげにだがご了承いただいていた。
なのに・・・である。
しかも正体を明かしたも同じらしいと報告が上がっていた。何事もなく帰ってきたからよかったものの。つい小言が漏れる。
「肝が冷えましたぞ」
「すまんな」
「町中に連れ出さずとも、呼び出すご予定でしたでしょう」
「・・・そうなんだがな」
家光は薄く笑みを浮かべ、帯刀を解いて宗矩に渡す。
「想像していたより、明るい娘だった。忠行の誇張ではなかったな」
宗矩の心労を知ってか知らずかご機嫌がいい。家光は帯を投げ、宗矩はそれを側仕えへ渡した。屏風の陰でお着替えになられる。
娘とは黒田涼のことだ。
宗矩は主君が観戦後、疲れたから休むと言うので最低限の付き人を残して側を離れた。しかしどうも霊感が働いたかして会場に向かう途中、その娘と黒羽実彰をも連れて城を飛び出すところを目撃し、思わず叫んだ。通りがかった小間使いがあわれにも震え上がるほどの怒号となってしまった。
福岡藩藩主の養女に関する話は、藩主自ら上様へ話されたこともある。その時宗矩も聞いていた。
「暮らしぶりを見る限り、中身はどこにでもいる女子としか思えぬ、と言っておりましたな。疑っておられましたか」
「調子がいいからな、あやつは。気を引きたがって大袈裟に言いかねん」
言いつつも面白がっておられるのが声色で分かる。
「それを確かめに行かれたというわけですか、黒田の言葉の真偽を」
「そういうことだ」
──御自ら直々にお出ましにならなくてもよろしかろうに。
しつこく責めはしないが思った。
衣擦れの音がする。宗矩が着替えを待っていると家光は屏風から顔だけを出し、
「ああそうだ、言っておかねばならんことがある」
その言っておかねばならんことを聞いた宗矩の顔色の変化を、家光は楽しく眺めていた。
◇◇◇◇◇◇
月は朧に夜空に滲んでいる。涙する人の眼のようだった。
眠れない私は床を這い出て障子窓を開け、夜風を感じていた。
昼間の疲労が体を重くする。
足首から膝を擦った。むず痒いような怠さがあった。
明日起きたらすっきり回復してる、なんてことはないだろうな。
(でもしっかり踊らなきゃ。これは僥倖なんだもの)
「祝舞」ってものはだいたいがつまらないものだ、というのが経験からくる感想だった。
鶴とか亀とかに擬態するほどの動きならまだ面白いかもしれないけれど、さらっと模したフリがあるくらいで・・・やめておこう、悪く言うつもりはないけど、結果そうなってしまいそうだ。
奉納のお話は何分降ってわいたご依頼だった。宿にお城から人が来て打ち合わせしたが、元の曲よりずっと短い時間に納めてほしいとのことだった。
短いほうがいい。その点は助かる。
野に遊ぶ気高く美しい鷺が時の帝に見初められ、敕状と知って地に下り立って平伏する。フリは体で百篇、頭の中でも百篇さらった。
帝に見初められる鷺とはどんな美しさなんだろう。
きっと絹のように輝く羽を持ち、すらりとして天女様のような姿なのだろうな。
だけどどうもしっくり来ないな。
心がわからない。踊る心無くしては踊れない。
(鷺かぁ)
私が見たことのある鷺の姿は、魚を探して川を歩く白や灰色がかった鷺たち──足音は人間とまるで変わらない──冬に見かけては寒かろうにと哀れだった。
夏にかけては田植えが終わったばかりの、鏡のように空を写した水田に立つ、鷺たち。そこには野に生きるものを讃えるような厳かな風が吹いていた。
稲の根付いた田圃で子をつれて虫などを食わすところは子も親も愛らしくいとおしかった。親子の姿ほど尊いものがあろうや。
天女様にはなれないけど、記憶にある鷺を思えば私の鷺を踊れる気がする。
(これかなぁ)
ふと、月を見ていて、昔のことを思い出した。故郷のことだ。
こういう時──故郷を思うとき、思い出されるのは両親の顔でなく、お師匠さまの涙だった。
──あなたは悪くないのにね──
そう言って別れ際に泣いてくれた人を思うとき、いつも胸が引き裂かれそうに痛んだ。
この痛みが離愁のためか自分への憐れみのためか何なのか、私にはまだわからなかった。
(・・・弱気は、嫌い)
駿府の夜風は優しく我が身を撫でてくれていた。
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