toy box



birthday wishes


掠れた低い声に、髪に触れる少し冷たい指先。
ひきつった背中の傷跡に気づかないふりをして、静かにただ、唇を重ねる。


仕事終わりでも暗くなる気がないらしい空は、甘い暑さを纏っていて。肌に貼り付くシャツに、潮風の匂いが心を揺らす。今日やるべきことを終えて、帰る前に酒でも呑もうかなんて考えれば、見慣れたシルクハットが路地裏に消えるのが見えて。普段なら気にもとめないくせに、今夜はどうも足がそちらに向いて。
見上げた細い空はまだ夜には遠いのに、入り組んだ路地は闇を纏って悪友の背中を隠そうとする。何もない道を進み、人気のない通りに向かう相手に「ついて行くべきではないのでは」と考えながらも、引き返すことができなくて。悪いことをしているような後ろめたい気持ちと「今日ぐらい」という甘えが入り交じって。好奇心が背中を押した。
少し距離をとって、もしも相手に気づかれたのなら、正直に話せばいいと考える。「何処に行くのか気になったんだ」と伝えればいい。別に悪い事をしているわけではないのだし。女との密会、なんてことなら見なかったことにして、忘れるほど酒を呑んで眠ればいい。嗚呼、そうだ。それでいい。
葉巻に火をつけてくわえれば、吐き出した紫煙に昼間の記憶が揺れた気がして。なぜだか、足が竦む。ぱちぱちと瞬くように脳裏に映る普段と変わらない悪友の表情に鼓動が高鳴れば、身体の芯が熱くなる。

「パウリー。」
そう低く掠れた声が聞こえる。幻聴かと疑うような、そんな非日常。まるで愛の言葉を囁くような、切なさすら抱えたあの吐息。
作業場の隅、木材置き場の影。何もないそんな場所で、背中に投げられた自分の名前。振り返ったそこには、確かに普段なら一言も話さない相手がいて。いつも肩に乗せている白い鳩の姿もない。
「ルッチ、お前。」
振り返った自分の瞳が、きっと揺れているだろうことはわかっているのに、それを隠すほどの余裕はなくて。今日という日を思い出す。
何も言わず背を向けた相手に、なんと声をかけるべきかわからなくて。過去の自分の言葉に後悔する。


がやがやと騒がしい酒屋のカウンター。珍しくも奢ってやろうなんて気をきかせた同僚に甘い苺の香りのグラスが進む。
「特別感はないが、まァ、悪くはないな。」
酒に酔った勢いで深くも考えず告げた照れ隠しの一言に、ならどうしろと?と言いたげな視線。
「そうだな。お前から物をもらってもなァ。」
つまみを口に運んで、アルコールにぼやけた思考で小さく唸れば、戯けてみせる。
「お前の弱みとか秘密なら、喜んで受け取ってやるぞ。例えば、」
テーブル席から響く大きな笑い声に、グラスのぶつかる音。確かに騒がしいあの場所で、なぜかあの瞬間の記憶だけ、自分の声が満ち満ちて。

「お前の声とか。」

はっと意識を戻して、視線を小さくなった相手の背中に向ければ、その先に見えるスーツの男の姿に足が止まる。まるで昼間にアイスバーグさんに会いたいとやってくる、政府の役人みたいななりをした男たちとよく知るはずの悪友に共通点を見つけられなくて。見てはいけない物を見てしまったのでは、と息が漏れる。ふと違和感を感じたとでもいうように闇色の髪が揺れれば、シルクハットの影からギラリとした瞳がこちらを映したような気がして。くるりと背を向け、何も見なかったことにしようと歩き出す。
ようやく暗くなってきた空に、嫌なぬるさの夜風が頬を撫でて。まるで大きな獣の吐息を受けたような夢と現実の狭間のようなよくわからぬ感覚に包まれる。歩いていたはずの足が、何かから逃げるように速まれば、それに合わせて鼓動が高鳴る。
水路に沿って駆けた石畳は歩き慣れた街中のはずなのに、迷路のように今は何処に向かっているのかすらわからなくて。どんどんと暗闇へと迷い込む。
短くなった葉巻を捨てて、荒くなった息を吐いて曲がったそこは袋小路。振り向く間もなく背中から伸びてきた二本の腕が目の前の壁につけば、大きな影に包まれて。
「ルッチ、」
声が、震える。
「ルッ、チ、」
名前を呼んでも、その後の言葉が見つからなくて。
「わざと、つけた、わけじゃ、」
どうにか零した言葉は意味を持たなくて。今、こうして自分が戸惑っている意味すら理解できなくて。
相手が見知らぬ怪しげな男たちといるところを目撃してしまったからか。はたまた、相手を興味本位で追いかけ回した負い目を感じているからか。それとも、相手に支配されそうな、この状況に脳が興奮しているのかもしれなかった。


仕事仲間から、人様に言えないような行為を共にする悪い友人へと変わったのは、いつからだっただろうか。あの瞳が美しいと、あの少し冷たい体温で包まれる心地よさを知ってしまったのは。酒に酔った勢いで繋がったあの夜から、破廉恥な悪友関係は続いていて。無口な相手の本心なんて見えやしなくて、自分たちの関係がこれ以上になれないことを知っていて。なのに、欲しいと思っている自分の気持ちにも気づいている。愚かしい程に鮮明に。

「おれは、」
振り返ろうとした首筋に口付けられて、壁についていたはずの腕にぎゅうっと抱き締められる。
「ルッチ、おい。ここではっ」
慌てた声で告げながらも、抵抗しないことを悪友はどう見ているのだろうか。都合のいい相手だと考えているようにも、愛おしいと伝えようとしているようにもとれる無口な無表情。
ふうっと大きく息をついて離れた身体に、怒っているわけではないようだと考え正面から向き合えば、バックポケットに強引に押し込んでいたらしいリキュール瓶を差し出されて。
見開いた瞳には、きっと狂おしいほど愛おしい相手の顔が映っていて。胸の奥がきゅうっと痛くなる。
なんだ、さっきの男たちは酒の業者だったのか、なんてほっとする自分がいて。やはり、目の前の相手は自分の知る不器用な奴なのだと、身体から力が抜ける。

「パウリー。」

掠れた低い声が耳に届けば、それだけで泣いてしまいそうで。その声で愛していると、言って欲しくて。
シャツの胸ぐらを強引に掴んで唇を合わせた。
「なァ、ルッチ。」
夜なのに被ったシルクハットのせいで見えない瞳を見上げれば、
「無理して、声を聞かせなくたって、いい。」
冷たい指先が優しく髪を撫でてきて。
「そんなことしなくたって。何もくれなくたって、いいんだよ。」
こてんと相手の肩に額を押しつけて、
「誕生日だからって、特別じゃなくていい。ただ、傍にいてくれれば。」
嘘吐きな自分に気付かないでくれと願いながら、目を閉じた。
きっと、このままが一番いいのだと、そう自分に言い聞かせて。


それでも、もし、望みが叶うなら。

そう、小さな願いを込めて。


「次に、お前の声を聞くときは、」

隣で眠る、その人に、そっと静かに囁いた。




「おれたちの関係が、変わるときにしてくれ。」









2023.07.08
ほら、願い通りだろう?








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