toy box



真夏の野良猫



からりとした夏空を見て、思い出すのが爽やかでも何でもない戯事なんて。きっと、おれだけなのだろう。酒屋の席ですら話せないような、羞恥まみれの、それでいて戻りたくとも戻れない時間。

カランと音を立てた氷に、空になったグラスに注がれた強いアルコール。酔わせようと考え追加されているであろう強い酒に、この島の職人について何もわかっちゃいないな、とぼんやり考えた。大きな声で笑う旅行客団体に誘われ、奢りだとすすめられた酒の味は不味くはない。飲み慣れた島の酒。なのに、この明るい時間に喉を滑るこの味は、思い出したくない過去のそれには敵いっこなくて。甘味のない酒をぐいっと飲み干した。


目が回るような茹だる夏の午後。
人手は足りているから休んでおけと与えられた休み。急な自由に戸惑い空を見上げれば、眩しい太陽に入道雲が瞳に映って、夏なんだな、とようやく実感する。
こんな晴れた日にはテラスのある店でアルコールでも、と考えた途端に、ぬっと現れた大きな影に包まれて、上からずいっと覗き込まれる。
じっとりとした視線に、頬にかかる黒髪。愛想もくそもない表情のくせに、腰に伸ばされた腕は穏やかで。背中から抱き締められたまま、
「ギャンブルには行かねェよ。」
語り掛けてくる瞳にふうっと葉巻を外した口から紫煙を吐いた。

酒瓶を咥えていた筈の唇を開いて受け入れた苦い舌先に、背中をぐっと押し付けられたのは柔らかなベッドなんかじゃなくて。窒息しそうなほど余裕のない接吻に、暑さでくらくらする思考。空樽の上に置かれた酒瓶に纏わりついた水滴がじわりと染みを作るのが見えれば、甘ったるいアルコールが舌を満たす。


「この街を案内してくれないか。」
酔いが回りわいわいと煩い男達の声を掻い潜って、話しかけてきたのは物静かなスーツの男。
「今なら誰にも気付かれずに出ていけるだろう。」
そっと手首を掴まれれば、長く揺れた黒髪に違う男を重ね合わせて。高鳴る鼓動に導かれるまま、店を出る。大きな声で歌い出した旅行客一行は、チップ代わりにテーブルに置いた数枚のコインの音にすら気付かない。きっと、狙った獲物が消えた事すら気付きやしない。
腕を引かれるままに歩きながらも、
「下心があるだろう相手と飲む趣味でもあるのか?」
冷たくデリカシーのない低い声に、立ち止まりそうになる。
「それは、」
喉の奥がからりとして、いるはずのない相手を想って。目の前の他人に夢をみる。
「ああいうのは、虫唾が走る。」
人通りの少ない路地で足を止め振り返った男の顔は、整ってはいるものの確かに見たことのないもので。安堵すると同時に、何故だか落胆する。
「おれには、あんたも下心がないとは判断つきかねるんだが。」
目の前の自分勝手な男に告げれば、
「まあ、助けてくれたことには感謝する。あんたも気をつけてな。」
背中を向けて、ひらりと手を振る。
思い出したくない過去が脳内を満たして、冷汗が出る。今ではないだろう、と気付かれないように静かに息を吸って歩を速めれば、柔らかな低い声にそっと手首を掴まれて。
「体調が悪いんだろう。」
ぐっと身体が引き寄せられた。


職人見習いの頃から、厭な男達の視線には気付いていた。ガレーラをよく知る島民ではなく、大抵は旅行客。人の嗜好をとやかく言う資格などないが、だからといってその趣味を自分にあからさまに向けられるのは心地良いとは思えなくて。
すれ違い様に触れられる腰に、いやに奢りたがる飲み屋客。力では負けないという自負から抵抗しなかったツケか、積もり積もったよくわからぬ感情で、破廉恥なものが異様に目に着くようになった、そんなある日。
なんの下心もなさそうな仕事仲間が恋人になった。飲み屋でしつこく絡んでくる男を恋人が殴り飛ばしたのがきっかけだった。腕は確かで、自分より利口で。なのに、口下手で他人とは話せない初心な奴。初めは手も繋ぎもせずに、距離すら変わらず。だからこそ「こうするんだよ!」なんて笑いながら、ふたりの距離を詰めたあの淡い日々。
ゆっくり時間をかけて馴染ませた身体は、強張ることなく恋人を受け入れて。ハグだって、キスだって、その先のことだって、恋人と一緒なら何だってできた。声を発さない相手に、自分から「してくれ」と声を掛けて、同意であると示したつもりで強請って。数え切れないほどに、身体を重ねた。
だから、恋人が欲するならいつだってなんだって与えてやるよ、と。それでいいのだと、考えていた。

午後からの休み。賭け事をしないか監視してやる、と言いたげについてくる恋人に、
「酒を飲もうと思っただけだ。」
明るい水路脇を歩いて告げる。
こんなに陽気な天気の日は誰だって外食したい。お目当ての店は満席で、だからと待つ気にもなれなくて。近くの店でふたり分の酒瓶を買って、飲みながら、また歩き出す。隣に並んだ恋人がするりと前へ出て、向かう先があるかのように進めば、何ともなしに後を追う。こうして、ただ歩くだけでも新鮮で、柄にも無くデートのようだと嬉しくて。
路地を進む相手の姿は野良猫のようで、ゆったりしているのにスマートで。その姿を眺め歩けば、見知った筈のこの街も何故だか別の場所のように思われる。
「おい、どこまで行くんだよ。」
街のどの辺りを歩いているのか見失い掛けて、相手の手首を掴んでみれば、ふりかえった恋人の手がするりと滑って、手首を掴んだ手に指を絡ませ握られる。それだけで何故だかきゅんとして、文句を言う気も消え失せて。そっと触れるだけのキスまでされてしまえば、薄暗い建物の間を行く相手に従う事しかできなくなる。

ようやく着いた目的地は、赤煉瓦の行き止まり。見上げた細長い空は真昼なのに、この場所はひんやりして少し薄暗い。誰も知らない、今この時は、ここはふたりだけの休憩場所。
「こんな場所あったのか。」
空樽に腰掛け酒を煽る相手を見つめれば、ぐっと腕を引き寄せられて、唇が触れる。
ゆったりと絡まる舌に、ことりと樽の上に瓶底が当たる音が聞こえれば、柔らかな手付きで髪をそっと混ぜられる。先程まで露を纏った硝子に触れていた相手の指先の冷たさに肩が跳ねるも、甘い吐息に心地良くて。離れた唇とちらりと輝く瞳に、胸の奥が締め付けられる。
「ここで、いい、から。」
消え入りそうな声で呟くも、優しい恋人は無理を通そうとはしなくて。あの無機質的な瞳の奥、きっと自分しか気付くことのない柔らかな光を宿し、腰をゆったりと撫でてくる。
「ここで、いま、したい。」
同意したとはっきりわかる言葉で告げれば、そっと身体を持ち上げれて、酒瓶を置いた樽の横、少し低い木箱に座らされて。

恋人を口いっぱいに含んで見上げれば、整った表情が降ってきて。頬を包んだ手のひらの親指で目元をすりすりと撫でられる。これが愛というものなのだと教えてくれたのは、目の前の恋人だけで。喧嘩をしながらも、繋がりたいと、傍に居たいと思えるのは、ひとりしかいなくて。
前が張り窮屈なズボンのベルトを自ら外して、仕事終わり特有の匂いがする茂みに鼻先を埋めて、もういいだろうと瞳で告げる。
どうせ、こんな所になんて誰もこないだろうとたかを括って。いや、そんな事など考えられない程に、羞恥心なんて消し飛んでいて。ずるりと離れた身体を見上げ、のろのろと熱に浮かされた身体を動かし、相手に背中を見せるように木箱に両手をつく。ずれたズボンに、遠くに聞こえた小鳥の囀りがちぐはぐで、早くしてくれと振り返りかければ、背中に恋人の腹が密着して。覆い被さった恋人の掌が自分のそれと重なる。愛おしげに指先を撫でられて、それだけで腰が跳ねるのに、愛おしい人は意地が悪い程ゆっくりと手の甲を掴んだまま、木箱の上、前へずるずると腕を滑らせる。体勢を保とうと、肘をついた途端に、まるで親猫が子猫を褒めるように温かな舌が首筋をなぞって、頸にそっと吸い付かれて。それだけで熱が溢れそうになる。
低いそこに肘をついて、誰にも見せることのない場所を愛しい恋人に晒して。温かな舌がそこを濡らし解かし終わるのを待つ。痛みがないように、こちらに負担がないようにと考え、行われる行為がもどかしくて、早く欲しいと言いたくなる口元から深く息を吐けば、たらりと品のない唾液が木板に染みを作る。
暑さのせいか、行為のせいか、とろとろにふやけた思考で抱き上げられて移動すれば、行き止まりの煉瓦の壁に背をつけるように相手と抱き合って、唇を合わせたままに繋がった。真夏の筈なのに背中の壁はひんやりしていて。それでいて、擦り上げられるたびにジャケットが擦れて激しく揺れる。
鼻から漏れた声は、いったいどこまで聞こえるのだろうか。聞こえたとして、盛りのついた野良猫のものだと思ってもらえるだろうか。そんな風に考えた途端、なんだかおかしくなって。離れた唇に触れるだけのキスをして、
「いつもみたいに、うしろから、してくれ。」
猫のように、相手の首筋にかぷりと甘く噛みついた。


きゅうっと締まった首元に、食い込む縄を握るスーツの男を睨みつける瞳が霞む。圧迫された喉に声が出せなくて、圧倒的な力に抵抗する力が弱くなる。上がった視線には、状況とは不釣り合いな美しい青空が映っていて。
「こんな明るい時間に暗殺なんて想像もしなかった?」
穏やかに笑う男の目元は、全くと言っていいほど恋人には似ていなくて。ついてきた自分に、馬鹿だなと呆れてしまう。
「あんたはたくさん縄を持ち歩いているらしいから。縄の端を何処かに引っ掛けておけば、加害者がいるとは誰も考えないだろう。」
縄を掴んだ手に更に力がこもれば、手袋の裾に見える世界政府の刺繍。なるほど、今更、後始末をしにきた訳か。そんな風に薄れた思考で考えれば、ちらついた恋人の顔に、
「それなら、お前が、こいよ。」
掠れた声がぽろりと漏れた。

煉瓦の壁に両手をついて、甘い声を必死で抑えたあの時より、きっと苦しい夏の日なんてありはしない。
喉元を晒して、細く伸びた天を見上げて。幸せに飲み込まれるまま、羞恥心など捨て去って。まるで路地裏の野良猫みたいに鳴いた、あの日と比べれば、きっと。


大丈夫か、と優しく抱き締められて、汗だくの額を撫でられる。茹で蛸みたいに赤い頬に未だ荒い吐息の自分とは対照的に、涼しい顔をした恋人が憎らしくて、
「喉が、渇いた。」
少し不機嫌なふりをして囁いた。
空樽の上にあるのは、飲みさしのアルコール。恋人が口付けた瓶の中身は、自分が飲んでいた甘い赤い酒。ぬるくなったそれを相手の口内で温めて口移されれば、堪え切れずに、
「するつもりなら、水ぐらい用意しろよ。」
なんて、自分で強請ったことも忘れ告げ、そのあと笑った。
怠い身体でどうにかズボンを引き上げれば、もうそれだけで限界で。せっかくの休みが、と考えれば、相手の服をぎゅっと握って、
「めがさめるまで、そばにいてくれ。」
とろとろとした思考の波に身を任せれば、温かな腕の中、意識がすうっと遠くなる。
心地いい夏の風が頬を撫でて、低く甘い、それでいて聴き慣れない声が、囁いた気がした。


「おやすみ、パウリー。」


ふわりと瞳を開いて、はっと身体を起こせば肺に勢い良く入った空気にゲホゲホと咽せる。先程いた筈のスーツの男も見慣れた路地裏も、そこにはなくて。
背中を預けた赤煉瓦に、樽の上に置かれたふたつの瓶に目を見開く。栓の開いたストロベリーリキュールの瓶は、まるであの時のままのようで。ゆったりと立ち上がり、もうひとつの瓶を手にして、笑ってしまう。
あの頃の幸せな日々を思い過ぎて、もしかしたら戻ってきたのでは、なんて酸素の足りない頭で考えていた自分があまりに愚かで。過去の幸福を思い出すたび辛くて、好きだった酒を飲むこともできなかった自分が、あまりに滑稽で。
夏空を見上げて声を出して笑う。ふわりとした白い雲が、何故だか潤んで見えれば、それだけで泣いてしまいそうで。
「覚えてるんなら、」
空樽に置かれていたのは、恋人が好きな酒ではなくて、どこにでもあるミネラルウォーター。
「忘れていない、なら、」
飲みかけの酒瓶を手にして、
「めがさめるまで、そばにいてくれ。」
何故だか既に甘ったるい唇で、赤いアルコールに口付けた。




真っ青な細い夏空の下、真っ赤な爪を研いだ野良猫が、甘ったるい息をふわりと吐いた。









2021.07.18
頸に残った鬱血痕は、縄のそれとは無関係。





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