toy box



用水路の人魚



眩しい陽の光に、瞬く水飛沫。
どこか遠くで聞こえる波の音に、ぷくぷくと上がる泡達が憎たらしくも笑っているようで。
沈む身体に、そっと瞳を閉じた。


「大丈夫ですか。」
そう再度尋ねる声は、数秒前とは全くといって違う固い響き。どうにか相手の肩を押し離れようと努力してみたところで、そんなこと無意味なのに。
「帰るところだから、気にしないで。」
びしょ濡れの身体に、せっかく綺麗に乗せたマスカラはドロドロに溶けて。綺麗とは言い難い水に包まれた身体は、どこか嗅ぎ慣れない香りがして。
「その格好で海列車に乗る気ですか。」
他の誰もが気付かなくたってわかる。これはただの質問ではなくて、そんな馬鹿げたことを許しはしないという脅しにも似た言葉。ぐっと引かれた腕に、声をかける余裕も与えてくれなくて。何が悪かったのだろう、なんて泣きたくなる。

任務の様子を視察しにきただけだ、と言えば嘘になる。
恋心を向けたいつもと違う想い人の様子がみたくて、わざわざ遠く離れたこの島で歩く自分の姿をショーウインドウに映して眺めてみる。うまくいかないヘアセットに二度もシャワーを浴びて、事前に購入していた列車のチケットを部屋に忘れ、乗車券売場に駆けたことを思い出すも、そんなこと微塵も感じさせない凛とした横顔に光るパールの髪飾りと、くるりと伸びた睫毛に、胸が弾む。
潜入先であるガレーラカンパニーという船大工が集まる作業場は、木材の匂いやぶわりと立ち込める熱気に包まれていて、自分の知る世界との違いに書物の中の世界に紛れ込んだようだとすら思えて。
ふと大きな木材の向こう、ひとりの男について歩く綺麗な金髪が目について。名前を口にしそうになって、唇をきゅっと閉じる。ここは潜入の地なのだ。声をかけたり、自分の存在が知れる事は何としても避けるべきで。あの人の失望の眼差しはできることなら見たくない。
作業場から離れ、市長公務の為だろう、人の多い街中へ向かうふたりを追えば、水路を走るヤガラ達の立てる飛沫を避け進む。この街はいたるところに水路があって、細いものから大きな橋が必要なものまで様々、人々の暮らしに溶け込んでいるらしい。
赤煉瓦の建物前で立ち止まった想い人を確認すれば、市長らしき男と別れ腕時計に視線を向ける様すら美しくて。金色に瞬く髪はいつものように固められてはいなくて、ふわりと優しい風に揺れる。漆黒の仕事着姿を忘れてしまいそうな鮮やかなオレンジ色のジャケットにラフではあるが見慣れたブラックのスキニーズボンが、まるで彼の為だけに用意された衣装の如く、この街と愛しい人をとろりと融合させる。
歩き出した長い足に、街の人々に声をかける蕩けるような笑顔。まさか、こんな姿をみることができるなんて。幸せで溶けてしまいそうで、慣れない石畳をぼんやりしながらもずんずん進む。
と、見知った相手なのだろうか、数人の若い女性達に囲まれた想い人にはっとして、路地の影に隠れれば息を止める。きゃあきゃあと耳煩い高い声に、眩しい程に明るいこの島らしい女達。邪険に扱うでもなく慣れた様子で手を振り微笑む、その様に何故かきゅうっと胸が痛んで。
途端、何かを思い出したようにこちらに向かって歩いてくる彼の姿が見えて、このままでは、と慌てた拍子に脚が縺れれば。グラリ、世界が傾いた。

ドボンと鈍い音を立て視界がぼやければ、透き通った青緑に包まれる。
うまく動かない重い手足に、水路に落ちたのだと気付いたのは少し経ってからで。耳上で留めていたはずの髪飾りが緩んだのか、気付けば波打つ薄紫がふわりと広がって、太陽が射し込む水面に伸ばした指先は血が通っていないかの如く白い。
水を吸った衣服に鈍くなった思考。腰をぐっと掴まれれば、抱き締められる身体。
「大丈夫ですか。」
心配げに降ってきた言葉に、顔を隠す事すら叶わなくて。けほけほと咳き込む様を見て、優しいはずの瞳からスッと熱が引く。


水の都に映える細かなラメの美しいアイシャドウに、それを引き立てるマッドながらも甘いリップ。丁寧に丁寧に伸ばした睫毛は、もう見せられる状態ではなくて。髪を留めていたはずの真珠の髪飾りはきっとあの揺れる水の底。
朝からうきうきと鏡を覗いていた自分を思い出せば、間抜けとしか言いようがなくて。視線すら合わせてくれない大好きな人の動いていない唇から「無能だな」と呆れた溜息が聞こえた気がして。視界にぶわりと膜が張る。涙を零した時点で全てが終わってしまいそうな気がして。でも、こんなに寂しく切ない気持ちは初めてで。
引かれるままに立ち上がってみたものの、片方無くしたヒールではうまく歩く事すらできなくて。
「いいの。本当に。誰かに迎えを頼むから。」
せめて、この目の前の人の任務の邪魔をしないようにと、未だ集まってはいない野次馬を思えば他人のふりをして。そっと深く息を吸った瞬間に、見せた電伝虫を奪われれば、
「怪我がないか、確認しますから。」
そう抱き上げられれば脱いだジャケットをそっと掛けられて。
地獄とも天国とも言い得ぬ目的地に向かい、かつんとなるはずのない足音が響いた。


想像したこともない、ラフな室内。ものは少ないのに、何故か温かみは感じられる鮮やかな部屋。慣れた手付きでつけられたランプに言葉なく座らされた木製のチェア。消えた背中を眺めれば、すぐ側で聞こえる水音に部屋の狭さを知る。
キッチンもダイニングも、ベッドルームも混ぜ合わさった部屋。分かれているのはきっとバスルームだけで。全てが済んでしまう不思議な作りのそこは、衣装部屋を思わせる広さ。自分の見知った無機質な相手の部屋をぼんやりと思い起こせば、この部屋の方が生きている匂いがする気がする。
足を抜いたひとつだけのヒールがころんと床に転げれば、壁の影から見えた髪を崩した愛おしい人。
「あの、カリファ、」
何かを告げようと開いた唇に、
「話すなら身なりを整えてからにしてください。」
正面から抱き上げられて、浴室に押し込まれる。

するすると脱がされるシャツに、タイトなスカートという組み合わせは仕事着とさほど変わらない。ただ、白く揺れる膝下のレース地に、淡い桃色フリルの襟元は仕事中には選ばない。
ぺたりと張り付いた下着に手をかけた相手に、自分で脱げると指を伸ばせば、そっと名残もなく離れた身体。視線すら合わない相手に間違えた行為だったかと肩が跳ねる。
「タオルを取ってきます。」
そう背中を向ける相手に、どうするのが正解なのか選ぶこともできなくて。慌てて腕を伸ばせば、大好きな人の背中にぎゅうっと抱き付いた。
「ごめん、なさい。」
溢れた声は予想していたよりも小さくて。また機嫌を損ねてしまうのでは、と心配になって。
「朝から、失敗だらけで。何をすればいいのか、わからないの。」
ああ、もしかしたらこうして抱き締めることすら大きな間違いなのでは、なんて思えて。それでも、今、この腕から力を抜いて恋しい人の体温が離れてしまうのは堪えられなくて。
「この島でみるカリファはきらきらしてて、優しくて。生きてるって感じがするの。」
震える喉に力を込めて、浮かんだ言葉を紡ぐ。
「まるで、私の知ってるカリファが偽物みたいに。」
こちらの正体を知って、少し低くなったあの声も、不機嫌な表情もいつもの彼。
それとは対照的に、この島の住民に見せていた王子様みたいな甘い笑顔と優しい視線。蕩けるように柔らかな声に、職人達に混ざって動く柔軟ながらもしっかりとした仕草。時折、見せる砕けた態度は、本当に魅力的で。自然過ぎる程で。
「偽物だったら、どうします?」
そう意地悪に見つめてくる宝石に、ぱちんと背中のフックが外されて。
「おれを嫌いになりますか?」
なんて、どう答えたところで彼にとっては何ともない質問を投げ掛けられる。
それでもすきよ、と伝える代わりに、甘い声で吐息をついて。
「カリファ、」
そっとそっと唇を近付けて。
「貴方が貴方だって、わからせて。」
強請るようにキスをした。


「市長さんを迎えに行かなくていいの?」
まだ乾ききっていない髪を拭きながら尋ねれば、いつもの彼が
「今日はあの場で帰っていいと。今回は顔馴染みとの会食で。打ち合わせの後、プライベートで出掛ける予定だったそうです。」
金糸を掻き混ぜながら告げる。
身体に巻いたバスタオルに、すぐそばにベッドのある狭い部屋。ぐるぐる回る洗濯機の中には乱暴な水圧に耐え得る保証のないブランドウエア達。汗ばむ綺麗な筋肉を視界におさめるも、視線を向けるべき場所がわからずに宙を眺める。

ふと近付く指先が耳に髪をかけやれば、
「髪飾りがありませんでしたか?」
温かな息が耳にかかる。
「用水路にいる人魚姫に譲ったの。」
失敗ばかりのこんな日だって、彼は私を見ていてくれたのだと嬉しくて。なのに今の惨めな自分の姿に泣きたくなって。ほんの少し強がっておどけてみせる。
「そうですか。」
興味無さげに返された言葉に、ふうっと鼻から息を吐けば、
「では、返してくるべきですかね。」
きらりと瞬いた真珠の髪飾りをそっと髪に通されれば、胸の奥がぎゅうっと苦しくて。
ぽろぽろと大粒の雫が瞳から落ちて。

「水路のシンデレラとも交渉を?」
片足しかないヒールを指して告げられた言葉に、
「ええ、もちろん。」
今度は精一杯笑って見せて。

「貴方に抱き締めてもらう為に。」



額に落ちた金色の髪に、泣きたくなるほど優しい綺麗な瞳。それも全て、確かに彼で。


息を分け合い、溺れるように。

ベッドの上で尾鰭を絡めた。








2020.08.17
ベッドの海で王子様と。





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