toy box



sweat



ぽたり、顎から落ちた汗に視界が歪む。


くったりと沈んだシーツに金色の髪が触れる。どこかぼんやりとした視界に暑すぎる気候のせいだと思いつくも、窓を開けるためにと身体を動かすことすら億劫で。額に当てた腕の向こう、薄暗い天井を眺めた。
ふわり鼻を掠めたシャンプーの香りに身体の奧がじんと熱を持つ。もぞりと寝返りを打って頬を枕に押し当てれば、瞬く髪に鼻先を埋める。買い換えたばかりの夏の香りは、自分には不釣り合いなほど濃厚で刺激的。なのに普段買わないような店に入ってわざわざこの香りを選ぶ自分に、毎年買っていた癖だ、なんて言い訳までして。また、どこか潤んだ世界の真ん中で、懐かしく愛おしいその想い出に浸る。
この匂いは忘れるべき、憎い恋人の香り。同じ職場で同じようにもらった給料で、どうしてこんな高価なものをと考えていた過去の自分は、きっとアイツには余程の間抜けに見えただろう。ガレーラの船大工はひとりとして手にしたことがないだろう優雅なシルバーロゴに、夏季限定の深い青のボトル。
暑さにやられた頭の奥がちかちか瞬けば、あの優しい指先が自分の髪に触れている気がして。そっと開き掛けた唇に、心配げにこちらに向けられた甘い視線が消えてしまうんじゃないかと恐れまでして。呼びたい名前を飲み込んで。ぽたりと頬を伝った汗粒すら、自分のものなのか、恋人のものなのかわかりやしなくて。
ゆったりと伸びた自分の腕を腿に挟む。違う、アイツのことを思い出したからじゃない!そんなはずは!そう頭の中で何度叫んでも、泣きたいほどに愛したあの人の表情に身体の芯から熱されて。甘えるように首筋に埋められた鼻先から漏れる柔らかな吐息が脳内を満たす。するすると下着ごと降ろされたズボンは膝で引っかかって。恋人なら簡単に脱がして床に投げ捨てていたな、なんてぼんやり思い出す。
うっすらと開いた目に映る玄関に、そこから少しの距離のシャワールーム。玄関の扉が閉まると同時に触れた唇に舌を絡めて。まるで空腹だったと言わんばかりに、どちらともなく食らいつき貪りあう。汗くらい流してから、なんて告げたのは相手の指先が、貼り付くシャツの中、脇腹に触れてから。どうにか移動した脱衣所でシャツを脱いで洗濯カゴに投げたところで、我慢できないと衣服半分ひっかけたまま、熱い行為になだれ込む。
頭痛がするほど鮮明な記憶。まるで今、自分の手の中にある欲を握っているのはアイツなんじゃないかと錯覚するほど。ざらりとした舌に舐め上げられる、背筋をゾクゾクとさせられるようなあの快感。
高鳴る鼓動に、固さと存在感を増す熱。自然と手のひらがじっとりとして、肌を擦る動きが早くなる。
唇を少し尖らせて、あの名前が喉の奥でつっかえた。窒息しそうな苦しさは、あの夜の燃えさかる空気に似ていて。朦朧とした意識の中、にやりと笑うあの低い声が聞こえて。
ぱんっと弾けるように薄れゆく意識に、温かなあの手のひらが頬を撫でた気がした。



今年の夏はやけに暑い。職人たちの身体から上がる熱気をぼんやり眺めながら、首に掛けたタオルで汗を拭う。ぎらぎらと瞬く太陽に瞳を細めれば、くらりとする視界。午前中から続いた外仕事。確認にと呼ばれる自分の名前に気を取られ、気付けば昼食すらまだで。ごくごくと喉を鳴らし水を飲み干せば、ぐっと足に力を込めて。また自分を呼ぶ声に手を挙げる。
途端にぐらりと傾いた世界に倒れると気がつけば、ぐっと脇の下から伸びてきた手に支えられて。瞬時見えた恋人の横顔に声を掛ける隙もなく、ひょいっと軽々、肩に担がれる。
「体調が悪いのか?」
集まってきた職人たちに大丈夫だと伝えようにも、ガンガンと痛む頭に目の前が霞む。これは本格的に暑さにやられたらしい。いつもと変わらぬようでとんとんと背中を撫でる手から優しさが伝わるも、腹部を圧迫する体勢に胃液が迫り上がる。
「吐きそう、だ。」
小さな掠れた声が届いたのが、揺れ少なく横抱きに直された身体に、ようやく見えた恋人の表情は汗に瞬いて美しくて。こんな時まで真顔かよ、なんてからかってやりたくなった。

意識を手放し目覚めたのはそれから数時間たった、自室のベッドの上。
じんわりと熱の移った額の濡れタオルに、枕元には数種類の飲み物。少し離れたテーブルの上には幾つかの買い物袋があって。のそりと身体を起こすと同時に、浴室のドアから湯気が溢れる。
濡れた黒髪は大粒の滴を纏い、それをわしゃわしゃと無造作にタオルが混ぜる。少し乱れた髪の隙間、宝石のように美しい、それでいて氷のように冷たくすら思える瞳がちらりと見えた。
起きたのかとでも言いたげな視線に、こちらに伸ばされた手が枕元のドリンクのひとつを掴んで蓋を開ける。こちらに差し出すのかと思いきや、自らの口に運ばれたそれに、ごくごくと動く喉元が何故だかいやにハレンチに思えて。
声を出さないことを気にかけてか此方を静かに見つめてくる瞳に、そういえば礼もまだだったと思い出せば、開き掛けた唇に顎をぐっと掴まれて。深く口元が触れ合った。
タイミングを考えろと叫ぼうとした瞬間に、喉奥に流し込まれた飲み物。鼻先を掠めた胸を締め付けるシャンプーの香り。口移しで飲まされたドリンクは生温くどろりとしているのに、渇いた身体には心地よくて。唾液を絡め銀糸を引き、離れた口元に、
「もう一口、ほしい。」
未だ混乱しているふりをして、熱い接吻を強請った。

何度も繰り返し水分をとり、そのままベッドの上、なだれるように汗を流せば、気付けば夜は明けていて。らんらんと輝く太陽がまた世界を明々と照らし始める。
「その匂い。うちのじゃないだろ。」
生まれたままの姿で、汗に貼り付いた前髪を掻き上げ葉巻に火をつける。
「そんな洒落た匂いのシャンプーはうちにはない。」
窓を大きく開き紫煙を吐けば、汗に濡れた身体に海風は涼しくて。細めた瞳にきらきらと瞬く遠い海面と、幾多もの水路が映る。
のそりと近付いた肉食獣を思わせる気怠げな動きに、首に寄せられた鼻先。火傷をしないようにと灰皿に葉巻を置けば、ぐっと抱き上げられた身体に驚きつつも殆ど減っていない葉巻の火を擦り消す。
「朝の一服くらい待てよ。」
小言を告げながらも連れ込まれたバスルームには空になったシャンプーの容器と、それに並ぶように置かれた、新しく購入されたのだろう見たこともない深海を思わせるボトル。
考えてみれば、ギャンブル三昧の日々がたたり財布が軽くなっていたこの頃。どうにか次の給料日までと日用品の購入を控えていたことを思い出し、シャンプーのストックは愚か、水で薄めて使ってやろうかと考えていた記憶が頭の片隅に蘇る。
そんな思考を妨げるようにザーっと頭からシャワーの湯をかけられれば、文句を言おうかと上げた視線の先、わかったかとでも言いたげな少し意地悪な笑みが覗いて。嗚呼、なんて幸せなんだろう、と心の奧が疼いた。
柔らかな泡にふたりを包む濃厚で、どこか刺激的な香り。金色の髪を梳くように洗う手は、大きく温かな恋人のもの。その代わりに自分の手が包んでいるのは、昨夜自分の中にあった恋人のモノ。どくりと波打つそれを撫でる、その行為だけで恥ずかしくて。自身の欲が熱くなるのがわかる。職人らしい、少し固い指の腹が耳裏を撫でるように髪を後ろに掻き上げれば、それだけで切なくて唇が恋しくなる。口寂しい、など自分から言える訳なくて。言い訳になりうる飲み物もない。目を閉じてみたところで、きっとこの意地悪な人は気付かないふりをして、心地いい匂いの中、髪を洗い続けるに決まっている。
無意識に動いた身体に、頭の中ではあまりの羞恥に脳がパンクしてしまいそうで。それでも、と唇を噛みしめて、自身の欲を相手のものと重ねて両手に包み込む。
昨晩だって、それ以前だって、信じられないほどにハレンチな時間を重ねていても、自らこんな淫らな行為をする事に、きっと理性は堪えられなくて。頭がおかしくなりそうだとくらくらする。
それでいてこの瞬間が忘れられないのは、ぽたりと落ちてきた汗の滴と胸を満たす心地よい香りの中。

幸せそうに愛しい人が笑ったから。



はっと目を覚ましたのは、真夜中の二時。暑すぎる室温にべっとりと身体にまとわりつく汗。
開けた記憶のない窓からふわりと流れ込んだ風は、どこか懐かしい香りをはらんでいる気がして。

キッチンで水を飲んでバスルームに進めば、汗に貼り付いた衣服をそのままに頭から冷水を浴びた。
目に映る美しい青色のボトルに手をかけて、キャップを開ける。中に入ったとろりとした液体をそのまま排水溝に流そうとして、手を止める。
溢れんばかりの香りが浴室を満たせば、あの笑顔がまた脳裏に浮かんで。

「馬鹿だな。」
ひとり呟いた。

船大工を演じてきた空想の恋人。舞台を降りるのにあわせて香水やクリームなどは変えていたとしたって、きっとこの時期のこの香りだけは変わらないのだろう。なんて、証拠もないのに考えて。

「ほんとに、馬鹿だ。」
つんとする鼻奥に、目元が急激に熱くなる。

シャワーに隠れて、熱に浮かされ、
「キスが、したい。」
なんて。

期限の切れた願いを、ほろりと零せば。




瞳から溢れた汗が、排水溝に消えた。









2020.08.15
汗とシャンプーと、あの笑顔。





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