toy box



白い記憶



ぽたりと落ちる薬の音に、浅い吐息が心を冷やす。


ぽこぽこと音を立てるコーヒーメーカーに、トースターから香ばしい優しい匂いが溢れる。曇りのないシルバーのカトラリーに、柄にもなく鮮やかな色合いのランチョンマット。その眩しいくらいの平穏が自分でも気恥ずかしくて苦笑が漏れる。
秋を含んだ朝風に揺れる純白のレースカーテンに、愛しい人の言葉を思い出して、胸がきゅうと苦しくなれば、雪色の髪がふわりと俯いた頬にかかる。仕事時のあの凛々しい立ち振る舞いに比べれば柔らかすぎる雰囲気に、それでいて無駄のない動きに纏った空気は軍人らしい。白い肌に、桃色の唇。生死の最中、立ち向かう仕事とあってか整った横顔は、どこか儚くて。


「まー、そろそろ挙げちゃおうか。式。」
そう気の抜けたプロポーズを受けたのは記憶新しい数日前で。消毒液の香りに満ちたベッドの中、チューブが繋がったその人が、本当に恋人だと信じられなくて。あれだけの強さを誇るあの人の敗北が信じられなくて、デリカシーのない悪戯なのではなのかと真実を脳は拒絶するのに、扉の傍で立つ同僚の瞳は冷たいほどに真っ直ぐで。
そっと見下ろした寝顔は少し痩せていて、いつもふざけたことばかりを零す唇は乾いて、体中の火傷痕が痛々しい。
「いやァ、その髪ならどれも似合っちゃうよね。」
なんて、自分の衣装は後回しにドレスカタログを眺めながら、風呂上がり、まだ濡れたままの黒髪をわしゃりと掻いたあの低く甘い声が脳裏に浮かんで。
「クザン、さん。」
正義を背負ったマントを翻して身を屈めれば、冷たい頬に手の平を伸ばす。十日もの長い決戦後、やっと会えた恋人の、声すら聞くことができなくて。潤んだ視界に唇を噛みしめれば、何かを察したように桃色の髪が揺れて、
「少し席を外すわね。」
そう呟いた同僚は静かな廊下へヒールを響かせる。

ふたりきりの病室は怖いほどに静かで、浅い呼吸音だけがやけに耳に付く。
肩にのし掛かる正義を脱ぎ捨てて、そっと床に膝をつけば、点滴の刺さった細い腕にぐるりと巻かれた包帯が、まるで予定していた晴れの日の衣装を思わせて、皮肉たらしくて目元に熱が溜まる。
「クザンさん。」
掛ける言葉が見つからなくて、また名を呼ぶ。
部屋に入る前に聞かされたはずなのに、途中から膨らみの消えた左脛部に視線がいけば、熱く甘い時間に絡め合ったあの柔らかな脹脛を思い出して。ぱたぱたと収まりの効かない真珠が白いシーツに染みを作る。
目元を拭おうとも、ぎゅうと握った大きな掌を離すことができなくて。銀色の細い髪が、愛しい人の胸に落ちる。

「あらら、涙は式まで厳禁でしょうに。」

ふわりと響いた甘ったるい声に、薄く開いた瞳は優しくて。そっと頬に触れた長い指先が玉になった滴を掬う。極度の疲労からか、まだ少し残った震えが伝わるも、向けられる想いは真っ直ぐ歪みなくて。
「ただいま。」
そう囁く声に、更に溢れた涙に苦笑される。
ようやく色付いた唇は固く閉じて、眉間に寄った皺は以前と同じ、どうしたものかと戸惑った時の彼の癖。握りしめた手を離せば、きっとふわりとカールしたその髪を掻いて、困っていますとわかりやすくも主張するのだろう。
意を決したようにゆっくりと開いた唇に、謝罪の言葉なんか言わせてやるものかと強引に口付け声を奪えば、深く熱い舌を伸ばした。
ただ、貴方が居ればいい。言葉にできなくとも、きっと彼には伝わるから。
そっと背中に回された腕に、髪をするりと撫でられて。鼻から漏れた吐息と共に、純白のドレスが脳裏で揺れた。


病室に比べれば、ものが多い寝室。
ドレッサーに映った横顔は、いつも以上に美しくて。さらりと枕元に落ちる銀糸を掻き上げれば、寝癖のついた黒髪から覗く額に静かにキスをして。
「もう、起きないと。」
そう愛しい恋人に声を掛ける。
キッチンから零れるコーヒーの香りにエプロンについたトーストの匂いが、あまりに平和で。泣きたくなるのは、どうしてだろう。
温かな寝息を漏らす整った恋人の表情に、幸福感に満たされれば、涙が零れぬようにゆっくりと瞳を閉じる。
「その涙、あと数時間、我慢できる?」
タオルケットから伸びた大きな手に、ふわりと両頬を包まれて、開いた視界は揺るんで瞬く。
返事を待たずに引き寄せられた腰に、ふたりで沈むベッド。淡い色の髪が窓から射す朝日に反射すれば、それはまるで汚れを知らぬ清らかなヴェール。
鼻先を合わせてそっと視線を絡めれば、キスを強請る唇を指先で受けて。
「その口付け、あと数時間、我慢できます?」
なんて意地悪く笑って囁けば、驚いたように見開いた瞳が細まって、ふたりでクスクス笑う。

あと数時間。その時間が、長いか短いかなんて、きっと今のふたりには関係ない。
澄んだ涙が溢れれば、赤い唇を重ねて誓う。真っ白な教会の中、静かで厳かなふたりきりの挙式。
その瞬間まで、あと数時間。

「我慢できないって言ったらどうする?」
するりと外されたエプロンリボンに低く甘い声が心を捕らえるも、相手の手首を掴めば睫毛を揺らす。
「泣き落とします。」
きっぱり告げた冗談に、またけたりとした笑顔が恋しくて。
「ほんと、敵わないわ。」
のそりと起きあがった身体に合わせベッドから降りれば、ふと思い出したようにキッチンに向かう背中に名が呼ばれて。


純白が揺れれば教会の鐘が鳴ったと同時に、ちらちらと氷の結晶が瞬いた。


「結婚おめでとう。おれの可愛い花嫁さん。」









2017.09.10
汚れを知らぬ深雪に、そっと甘い純白の息。


(ひよこまめさんへの贈り物)






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