俺が初めてロップモンと出会ったのは、2000年の夏だった。
ある日、どこかで見たことのある機械が、俺の机の上にあった。
「あれ? この機械って……」
俺はその機械を手に取り、小さく呟いた。これは確か、湊海たちが持っていたのと同じ――。
「……デジヴァイス、だっけ?」
そう言った瞬間、触れていなかったノートPCが突然立ち上がる。俺は思わず、机から飛び退いた。
「う、うえっ!? な、な、何だあ!?」
そう言っている間に、デジヴァイスも光を放ち始める。俺はそのまま、ノートPCに吸い込まれていった。
そうしてたどり着いたのは、どこかの森の中だった。
「ここは……?」
俺は辺りをキョロキョロと見渡した。まさかここが、デジタルワールドってやつ――なのか?
「あーすか!」
「おわっ!」
その声に、俺は思わずひっくり返った。今日は転んでばかりだ。ついていない。
その声の主は俺のすっ転んだ姿に驚いたのか、慌ててこちらに近寄ってきた。
「だ、大丈夫……?」
「ちょっと痛いけど、何とか。えっと……」
その生き物は茶色くてモチモチとしていた。もしかして、これは……。
「……デジモン、だよな?」
「そうだよ。湊海ちゃんのお友達の、飛鳥くん」
「えっ、なんで湊海のこと……」
俺がそう訊くと、そのデジモンはにこりと笑った。
「前に、お世話になったんだ。私も、湊海ちゃんのお友達なんだよ」
「そうだったのか……」
湊海たちは1年前、デジタルワールドで世界を救うために冒険をした。もちろん、知り合いのデジモンもいるだろう。このデジモンはその1人、というわけか。
「君、名前は?」
「私はチョコモン。飛鳥のパートナーデジモンだよ」
「俺の……? じゃあ、このデジヴァイスも本当に俺のもの、なのか?」
「もちろん。飛鳥は立派な、選ばれし子どもなんだよ」
「……そっか」
俺はデジヴァイスをそっと握りしめた。1年前の俺は、妹1人守ることが出来ないほど無力だった。それどころか、大切な友達を失うところだった。――何も出来ない自分が、もどかしかった。
でも、このデジヴァイスと……パートナーがいれば、大切な人を守ることが出来る。俺だけの力じゃ難しいけど、チョコモンと一緒になら――。
「ふふ、本当に嬉しそうだね」
「俺もパートナーデジモンが羨ましかったんだ。チョコモンと出会えて、良かった」
「わたしも、良かった!」
俺たちは笑い合った。何だか初めて会った気がしないくらい、馴染みがある。湊海の知り合いだからだろうか。俺はチョコモンの頭をぽんと撫でた。
「これからよろしくな、チョコモン」
「うん! 飛鳥は、私がちゃーんと守るからね!」
それから俺たちは、色々な冒険をした。海辺を歩いたり、雪原で雪遊びをしたり、高い山に登ったり――。危険な目にも遭ったが、それ以上に楽しかった。たった1人なら、心が折れたかもしれない。でも、チョコモンと一緒なら平気だ。お腹が空いたら、元の世界に戻ることもできた。もちろん、チョコモンも一緒に。家族に隠すのは大変だったけど、チョコモンをぎゅっと抱きしめて寝ると、いつもよりぐっすり寝られた。
そう日々を過ごしていると、チョコモンはロップモンに進化した。成長期になったロップモンちょっぴり強くなり、頼もしくなった。そんなときの出来事だ。
「飛鳥、向こうから誰か来るよ?」
「ん、あれは……」
ロップモンが指さした方向には、人影が見えた。今のところ、俺以外の人間というのは、見たことがない。どうやら八神先輩たちも、自由にこちらに来られるわけではないようだし。でも、ここにいるということは――。
「もしかして、飛鳥の仲間?」
「行ってみよう!」
俺たちはその人影に向かって駆け出した。今まで仲間がいなかった分、もしそうなら、とっても嬉しいのだけど……。
「うわっ」
俺たちが近づくとびっくりしたようで、その子は尻餅をついてしまった。顔つきが少々幼いので、俺よりは年下。でも、結月よりは上、かな。男の子だけど、可愛い顔をしている。湊海が好きそうな子だなあ。
「おっと、驚かせてごめんな」
俺はその子に向かって、手を差し伸べた。怪しい人物ではないと判断したのか、その子はそっと俺の手を握った。
「俺は橘飛鳥。こっちにいるロップモンのパートナー。君は?」
「ぼ、僕は、一乗寺賢。さっき来たばかりで、何が何だか……」
「僕はワームモン。賢ちゃんとパートナーだよ」
賢くんはオロオロとした様子で、俺たちとワームモンを見た。ワームモンとの距離が微妙に開いているので、どうやらあまり馴染んでいない様子。
「そっかあ、初めて来たのか。そりゃ怖いだろうな」
「う、うん……。わ、ワームモンもちょっぴり怖い」
「賢ちゃんひどいよぉ、僕怖くないもん」
賢くんはワームモンから逃れるように、俺の後ろに隠れた。一方のワームモンはというと、ぷんすかと怒っている。
「はは、デジモンを初めて見るなら仕方ないさ」
「ワームモン、ちょっと不気味だもんね」
「う、うわああああん」
俺がそうフォローをすると、ロップモンがトドメを刺した。思わずワームモンが泣き出してしまう。フォローの意味!
「こ、こら、ロップモン!」
「だって、こんなにでっかい芋虫怖いに決まってるわ!」
「ふ、ふふっ……」
俺がロップモンを叱ると、ロップモンは頬を膨らませた。た、確かにちょっと怖いかもしれないけど!
そんな俺たちのやり取りを見て、賢くんは笑みを零していた。そのままゆっくりとワームモンの前に立つ。
「あっ、賢ちゃんが笑ってるー! ひどいよぉ!」
「ご、ごめんよワームモン。君は全然怖くないみたい」
「当たり前だよ、僕かわいいもん!」
「そ、そうだね……?」
賢くんがワームモンを抱きしめると、ワームモンは得意顔で、そんなことを言っていた。そんなワームモンに賢くんは苦笑いで応対する。賢くん、とっても大人。
「ワームモンとも打ち解けたみたいだな」
「かわいさは私の圧勝だと思うんだけどなあ」
「ま、まあ好みは人それぞれ……? 俺の中では、ロップモンが一番!」
「ふふ、とーぜんよ!」
ロップモンはぴょんと、俺の腕に飛び込んだ。かわいいけど、頼りになる。俺の大切なパートナーだ。
それから俺たちは一緒に、デジタルワールドで冒険した。
「賢ちゃん危ない!」
砂漠を歩いている途中、突然地面から出ガジモンが飛び出してきた。咄嗟にワームモンが体当たりをかます。
「ワームモン!」
ガジモンは何とか撃退したものの、ワームモンは地面に倒れ込んでしまう。賢は慌てて駆け寄り、ワームモンを抱きしめた。俺たちもその後を追う。
「ワームモン、ワームモン!」
「大丈夫、これくらい何ともないよ」
ワームモンは目をゆっくり開くと、賢を安心させるようにそう言った。
「ワームモン……」
「僕、賢ちゃんのパートナーデジモンで本当に良かった。だって、賢ちゃん優しいんだもん」
「優しい?」
「でも、優しいだけじゃだめ。もっと強くなって? そうじゃないと……」
「そうじゃないと?」
「そうじゃないと、自分の優しさに押し潰されちゃうよ」
そのワームモンの言葉に、賢の目が大きく開く。――そう。賢はとっても優しい。俺も全てを知っているわけではないが、賢にはお兄さんがいて、そのお兄さんは勉強も何でもできるらしい。賢はそれを嬉しそうに俺に話していたが、どこか寂しげだった。もしかしたら、それで賢は辛い目に遭っているのかもしれない。でも賢は、誰のことも悪く言わない。
もし、俺が同じ立場ならどう思うだろう。結月が俺より勉強できて、スポーツもできて、何でもできて……。うーん、結月はかわいいし、父さんも母さんも結月に夢中になっちゃうかもなあ。今でも充分だけど。そうなると、ちょびっと寂しいかもしれない。
賢は、そういう寂しい思いを抱えているのだと思う。せめて、ワームモンだけでも、寄り添えられると良いのだけど。俺では力不足だ。
「賢ちゃん。賢ちゃんが持っているデジヴァイスは賢ちゃんのものだよ。誰のものでもない、賢ちゃん自身のもの。賢ちゃんの心が賢ちゃんのものであるのと同じように忘れちゃだめ。そして……」
「そして……?」
「逃げちゃだめ」
ワームモンから発せられたのは、普段の彼からは考えられないくらいしっかりとした、力強い言葉だった。今思うと、ワームモンは賢の不安定な心を見抜いていたんだろう。流石というかなんというか……。俺もそれに気づいていれば、何かが変わったのかな。
冒険のときには、リョウさんっていう年上の子も一緒にいたが、あれは結局誰だったのだろう。気さくなお兄さんだったが、たまにしか会うことがなかった。
でも、ロップモンと二人での冒険より、賢たちと一緒の冒険の方がとっても楽しかった。やっぱり仲間は、いいもんだ。湊海にはいっぱい仲間がいたみたいだし、羨ましいな。でも、賢だけでも心強い。大事な仲間だ。
しかし、その日以来、賢はデジタルワールドに来なくなってしまった。
「賢、最近来ないね」
「んー、どうしたんだろうな。ちょっと心配かも」
ロップモンが道を歩きながら、そう俺に問いかけた。今までこんなに長い間来ないなんてことはなかった。ただ忙しいだけなら良いのだけど、もしかして何かあったのかな。
「そうだ。近いうちに現実世界の方で会いに行くよ」
「でも、ちょっと遠いんでしょ?」
賢は田町に住んでいるらしい。俺は住んでいるのはお台場だから、確かにちょっと遠い。とは言っても、それは俺が小学生だからで、大人からしたら大した距離ではないだろう。
「お小遣いも貯まってるし、大丈夫。賢は大事な友達で、仲間だから」
「……ふふ、そうだね!」
俺がそう言うと、ロップモンは微笑んだ。なんだかんだ言って、ロップモンも仲間が増えたのは嬉しいんだと思う。ワームモンのことからかってるけど、本当は大好きだもんな。
「じゃあ、賢によろしく言っといてね」
「うん!」
俺は頷くと、再び歩き始めた。そうしてしばらく歩いていると、道の先に謎の機械現れた。唐突に現れたその機械に、思わず足を止める。
「ん……?」
「ああっ! これって!」
ロップモンは大声を出し、その機械を指さした。どうやらロップモンには心当たりがあるようだ。
「どうしたの?」
「も、もうすぐ来る……」
ロップモンがそう呟くと、機械はひとりでに起動し始めた。するとその機械から、おじいさんらしき人の立体映像が浮かび上がる。
「うわっ!」
俺は思わずその機械から仰け反った。い、一体どうなっているんだ……!?
『ふぉっふぉっふぉっ、久しぶりじゃのう』
「じ、じじい!」
『これ! 湊海の真似をしてそんな呼び方をするな! 飛鳥に誤解されるじゃろ』
ロップモンの発言を、そのおじいさんが咎める。それにしても湊海やロップモンがそんな言葉遣いをするなんて、この人は色々な意味で何なんだろう。
『初めてまして、かの。飛鳥。ロップモンから話は聞いとる』
「ど、どうも……。ロップモンの知り合い?」
「いちおーね」
俺がそう訊くと、ロップモンは仕方なくといった様子で答えた。これを見るに、ロップモンとおじいさんはそれなりの仲らしい。
『こやつめ……。まあ良い。わしはゲンナイ。湊海たちの冒険のときも、色々と助言をしたお助けマンじゃ』
「あんまり役に立ってなかったみたいだけど」
『それを言うでない!』
ロップモンは横目でゲンナイさんを見ながらそう呟いた。お助けマンなのに役に立たないとは、どういう状況なんだろうか。
『おほん。飛鳥、お主はロップモンを進化させたことがあるかの?』
「えっと……トゥルイエモンまでは進化できるけど」
俺はロップモンのことを見つめながらそう答えた。少し前のことだ。俺がデジモンに襲われそうになった時、ロップモンは進化した。といっても、すぐ元に戻ってしまったけど。
チョコモンからロップモンに進化した後はずっとそのままなのに、ロップモンがトゥルイエモンに進化した後は何で戻っちゃうんだろう。
『うむ。その先の進化があることを知っているか?』
「その先の進化……?」
ゲンナイさんの言葉に、思わずロップモンを見つめる。ロップモンはおもむろに口を開き、説明をしてくれた。
「今、私は成長期で、トゥルイエモンは成熟期。その次は完全体になれるの」
『しかし、完全体になるにはあるものが必要じゃ』
「あるものって……?」
心意気とか、そういうものなのかな。しかし、様子を見るに、それとは別で何かが必要なようだ。
「紋章だよ」
「紋章?」
ロップモンの言葉を小さく繰り返す。うーん、確か前に湊海がそんなことを言っていたような……?
『紋章は、選ばれし子どもの最も素晴らしい個性に合わせて作られる、デジモンの進化に使うものじゃ。例えば、湊海なら慈悲』
「慈悲……うん、ぴったりだ」
俺はゲンナイさんの説明に頷いた。慈悲ってちょっと難しい言葉に感じるけど、意味は何となく分かる。湊海の優しさと慈しみは、彼女に助けられた人なら誰でも感じたことだろう。かっこいいなあ。
「ヒカリは光、太一は勇気。それぞれの選ばれし子どもに合わせて紋章はあるんだよ」
「……あっ、もしかして、俺や賢にも紋章があるってこと?」
俺がそう訊くと、ゲンナイさんは静かに頷いた。しかし、その表情は少々険しい。
『残念ながら賢の紋章は見つからんかった。この世界のどこかにはあるはずじゃが……』
「賢のは、なんて紋章なの?」
『優しさの紋章じゃ』
「ふふ、賢らしい紋章だな」
賢の優しさは、ワームモンのお墨付きだ。もちろん俺も。優しさゆえに自分を後回しにしちゃうところは不安になるけど、その分ワームモンが守ってくれている。とても良いコンビだ。
そう考えると、賢と湊海は少し似ているかも。会ったらすぐ仲が良くなりそうだ。
「紋章、早く見つかるといいんだけど……」
『わしも続けて探すから、そんなに心配しなくてもよいぞ』
「で、で! 飛鳥の紋章は!?」
ゲンナイさんの言葉を遮るように、ロップモンが叫ぶ。その目はきらきらとしていて、とても期待しているようだ。かわいいな。
『その紋章はこちらで預かっている。お主たちも近くまで来ているようだから、家に来てくれ。じゃあの』
ゲンナイさんがそう言うと、立体映像はぷつりと切れた。近くまで来てると言っても、どこにあるかくらいは教えてくれないのか……? うーん、やっぱりちょっと不親切。
「切れちゃった……」
「大丈夫、私に任せて!」
ロップモンは胸を叩くと、ぴょんと前へ飛び跳ねた。
「あのじーさんのお家はこっちだよ! ついてきて!」
「あ、待ってよ、ロップモン!」
そう言うやいなやロップモンが駆け出したので、俺は慌てて追いかけた。
そうしてたどり着いたのは、大きな湖の前だった。
「ほ、本当にここ……?」
「私が間違うはずないでしょ!」
俺は思わず辺りを見渡したが、それらしい建物はない。そんな俺の様子を見て、ロップモンはぷりぷりと怒った。い、いや、でもさすがにな……?
「たのもー!!」
そんな俺に構わず、ロップモンが叫んだ。それは道場破りのやつ……!
そのロップモンの叫びに反応したのか、突然湖が光り始めた。水面には泡がポコポコと浮き出ている。湖の中心に光の柱が立つと、真っ二つに割れた。その先には階段が続いている。
ロップモンはその階段に降り立つと、こちらを振り向いた。
「いこ、飛鳥!」
「う、うん……」
デジタルワールドは奥が深い――。
階段を降りていくと、和風の立派な家が見えてきた。その家の前では、ゲンナイさんが立っている。俺たちはそのまま駆け寄っていった。
「よく来たの」
「来てあげたわ!」
ゲンナイさんの歓迎の言葉に、ロップモンが得意げに鼻を鳴らした。な、なんでそんなに偉そうなの!?
「お主、ちょっと性格変わった……?」
「冒険してたら多少ずぶとくなるよ」
「んん……? まあ、そう……かの?」
ロップモンの言葉に、ゲンナイさんが疑問符を浮かべる。出会った時からそんな感じだったような気がしなくもない。
「それよりゲンナイさん、飛鳥の紋章を!」
「うむ。こっちじゃ。ついてこい」
美しい庭園や池の先へ進み、ゲンナイのお家にお邪魔する。通された居間では、窓の外でタイやヒラメが泳いでいた。
階段の横でも魚が泳いでいたが、居間からみると更に良い風景だ。俺は思わず頬を緩ませた。
「きれい……」
「ほっほっほっ、褒められると嬉しいのう。それはわしが作ったメカじゃ」
俺が小さく呟くと、いつの間にかゲンナイさんが背後に立っていた。どうやらあの魚はメカらしい。ゲンナイさん、結構万能。
「さて、飛鳥。手を出しなさい」
「は、はい」
ゲンナイさんは俺にそう促すと、手の上にそっと何かを置いた。その瞬間、それは激しい光を放った。眩しさのあまり、目をきゅっと細める。恐る恐る手に取ってみると、それは首にかけられようなペンダントだった。ペンダント部分は金色に輝いており、神聖なものを感じる。
「わあ……」
「これは、奇跡の紋章じゃ」
「きせき……?」
ロップモンが首を傾げた。普通では有り得ないようなことが起こる――みたいな意味かな。正直あまりぴんと来ない。でもこれが、自分の紋章だというのは触れたときにわかった。紋章も、それに応えるように、光を放ってくれた。俺にしか出来ないこと、俺だから出来るかもしれないこと……。大切にしよう――。
「これは光の紋章と同様、ちょいと特殊な紋章じゃ。大事に使いなさい」
「ありがとうございます、ゲンナイさん」
俺は紋章を首にかけ、頭を下げた。みんなのために働いてくれる、そんな紋章になるよう、俺も頑張らなきゃ――。
決意新たに、拳を握る。これからまだまだ、冒険は続くのだから。
その数日後、俺は賢の家へ出向いた。電車を乗り継ぎ、駅にたどり着く。確か聞いていた通りだと、あの辺りにマンションが……。
「あ、あれかな……?」
それらしきマンションの前に着き、一乗寺の苗字を探す。うん、間違えない。ここだ。俺は賢の部屋の階までエレベーターで向かった。部屋の番号は覚えている。俺はすたすたとその部屋の前まで向かった。一呼吸置いて、インターホンを鳴らす。
『はい……』
少しの間があいた後、弱々しい様子の女の人が応対に出た。恐らく賢のお母さんだろう。だ、第一印象は大切に……! 俺は息を思いっきり吸った。
「賢さんの友達の、橘飛鳥と言います。あの賢さんは……?」
『賢ちゃんの……?』
インターホンが切られると、すぐに玄関の戸が開く。
「は、初めまして。突然押しかけて申し訳ありません」
「いいのよ、さあどうぞ」
「い、いえ、賢さんに一目会いたかっただけなので……」
俺が慌てて首を横に振ると、賢のお母さんは優しそうな笑みを零した。
「遠慮しなくていいのよ。ゆっくり会ってあげて」
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
賢のお母さんに促されるまま、リビングへ向かう。友達のお家なんて、なかなか行かないから緊張するな……。
「治ちゃん、賢ちゃんのお友達が来てくれたわよ」
賢のお母さんが話しかけた先に――俺は思わず息を飲んだ。賢にお兄さんがいるのは聞いている。でも、そんなことって……。
俺は静かに仏壇の前に座り込んだ。そこには賢に似ている、眼鏡をかけた少年の写真が飾られていた。
「治ちゃんともお友達だったのかしら……?」
「……いえ。でもお話は聞いてました。何でも出来る、とてもすごいお兄さんだと」
「……良かったら、お線香を」
俺は頷き、線香を立てた。手を合わせ、静かに目をつむる。お兄さんが病気だった、という話を聞いていない。もしかしたら、事故にでも遭ってしまったのだろうか。全く会ったことがない人でもこんなに衝撃を受けるのに、身近な人が死んでしまうなんて――。賢は一体、どういう気持ちなんだろう。俺が想像できないくらい、辛くて、悲しくて、どうしようもできないはずだ。
「賢ちゃんは奥のお部屋にいるわ。ジュースとお菓子、持っていくわね」
「……あ、ありがとうございます。僕が持っていきますよ」
「あら、いいの? じゃあお願いしようかしら」
「はい」
賢のお母さんに託されたジュースとお菓子を持ち、奥の部屋へと向かう。とりあえず、賢と話をしてみないと……。ちゃんとご飯、食べられているのだろうか。お菓子を渡されたってことは、大丈夫なのかな……。
部屋の前にたどり着き、2、3回ノックをする。
「……賢?」
再びノックをしたが、返事はない。も、もしかして――。
「賢!」
俺は慌てて部屋に入ったが、そこに賢の姿はなかった。扉をゆっくりと閉め、辺りをぐるっと見渡す。机の上のPCの電源はつきっぱなしだ。そしてよく見ると……。
「ゲートが開いている……」
俺は小さく呟いた。しかし、賢のお母さんは、賢が部屋にいるものだと思っている。もしかしたら、そのうちやって来るかもしれない。急いで連れ戻さないと……!
俺はゲートに向かって、デジヴァイスを掲げた。
そうしてたどり着いたのは、薄暗い雰囲気の海辺だった。
「ここは……」
いつものデジタルワールドと、明らかに違う。空気が……苦しい。酸素が薄いわけではない。空気そのものが、何か変だ。ここにいてはいけない、本能がそう言っている。
前を向くと、海の方に賢がいた。足の半分ほど、海に漬かってしまっている。
「賢っ!」
俺は慌てて、賢の元へ駆け出した。賢はこちらを振り向きもしない。すると突然、デジヴァイスを取り出し、海の中に入れた。その瞬間、禍々しい黒い空気が辺りに広がる。
「うっ……」
俺は思わず、足を止めた。その間に賢がデジヴァイスを持ち上げる。そのデジヴァイスは今まで俺たちが持っていたものと、形状が違った。
「デジヴァイスが……変わった……」
「そうだ、これだ……。これが僕のデジヴァイス」
賢はデジヴァイスを両手で握った。
「誰のものでもない、僕だけのもの……」
「賢!」
賢の様子が明らかにおかしい。俺は大声で賢を呼び、肩を叩いた。――その途端、紋章の紐が嫌な音をたてて千切れる。慌てて取ろうとしたが、間に合わず、そのまま海の中へ落ちてしまった。
急いで拾おうとした、その時だった。
「何だ……これ……」
紋章の光は見る見るうちに失われていき、黒へ染まっていく。紋章は真っ黒になり、生気が無くなっていた。あの輝きも、綺麗な色も、もう面影はない。
すると賢が、俺の紋章をすくい上げた。
「良い色だ……」
「これの、どこが……」
「お前の紋章じゃないのか、飛鳥」
今まで賢とは打って変わって、乱暴な口調だ。ちょっと前まで、飛鳥さんって呼んでいたのに……。賢は鋭い目付きを俺に向けた。何だか人が変わってしまったようだ。
「……俺のだけど、俺のじゃない。もうそれは奇跡の紋章じゃ、」
「その程度か。じゃあこれは、僕のものだ」
「え……?」
「今からこれは、僕の紋章だ」
賢はにやりと笑い、紋章を握った。
そのとき、俺は無理やりでも何でも、紋章を取り返さなきゃいけなかった。でも――その真っ黒な何かに、俺は触れることができなかった。
今思うと、俺の身がどうなろうと、賢に紋章を渡しちゃいけなかったと思う。……俺自身が、闇に染まることになったとしても。
紋章の威力は、とても強大だった。ダークタワーやイービルリングは、そのままでも充分な威力があったが、紋章の力で更に闇を増大させた。例えば、ダークタワーなら、電波塔の役目を更に広めることができたし、イービルリングなら、デジモンをより忠実にさせることができた。
何度も賢を説得したが、聞きいれてもらうことはなかった。ロップモンに進化を頼んだが、ほぼ全てのエリアでダークタワーが建っており、それもできない。唯一の救いは、ワームモンはそのままだった、ということだ。しかし、唯一のパートナーのはずのワームモンの言葉でさえ、賢には届かなかった。
それに俺のデジヴァイスでは、デジタルワールドに行くことが出来なかった。賢と一緒か、もしくは賢やロップモンたちがゲートを開いてくれないと、デジタルワールドに行くことさえ出来ない。――俺はとても、無力だった。その上ゲンナイさんともコンタクトが取れず、八方塞がりの状態だった。
そんなときだった。大輔くんたちがデジメンタルを見つけたのは。今までは無敵だった賢が、大輔くんたちと戦うことで少なからずダメージを受けていた。
――俺は賢の仲間のはずなのに、少しほっとしたところがあった。大輔くんたちが、賢を助けてくれるかもしれないって。
でも賢は、やっぱり気づかない。自分がどんなことをしているのかって。大輔くんたちの言葉も、行動も、何も届いていない。俺の言葉だって……。
大輔くんたちが傷ついても、俺が傷つくことはなかった。だって俺は、賢……カイザー側の人間なのだから。デジモンたちを傷つけることなんてしていない。けれど、賢を止めることも出来なかったから同罪だ。
――イービルリングを、デジモンに付けたこともある。ダークタワーを建てるのを、手伝ったことだって……。
ロップモンを色々な場所に派遣してみたものの、成長期の力では限界がある。それにバレた後はロップモンが罰を受けてしまうので、派手なことはできなかった。
……大輔くんの、サッカーの試合に誘ってくれた時。すっごく嬉しかったんだ。
こんな俺でも、友達だと思ってくれている。優しくしてくれるんだって。そう思うと、家でボロボロと涙が出た。
俺はみんなのことを傷つけて、裏切っているのに、こんないい思いしていいのかなって。
それで、俺は考えた末に答えを出した。……これ以上、大輔くんたちを傷つけることはできないって。
賢のことを裏切るのも、心が傷んだ。でもそれ以上に、デジモンたちも大輔くんたちも、傷ついている。
紋章もあんなに黒く染まってしまっては、俺の力ではどうすることもできない。
紋章はもちろん大事だが、大輔くんたちの方がもっと大事だ。賢も仲間、だけど……今の賢は、やっぱりおかしい。――だから、大輔くんたちと同じ立場で、賢のことを助けたいんだ。俺の言葉なんて、届かないかもしれないけど……少しでも可能性があるなら、俺はそれに賭けたい。
今まで、ずっと騙し続けてごめんなさい。デジモンたちを傷つけて、本当に申し訳なかったと思っている。
その分の償いは必ず、する。一生し続ける。だから……。
今の賢……カイザーを、一緒に倒してくれないか……? 俺と、ロップモンと一緒に……。