◇ ふたりぼっちの夜 02






 時計の針がもうすぐ8時を回る。携帯のサブディスプレイに浮かぶ時間を確認して、優一は溜息を吐いた。
 弟が、京介が帰ってこない。帰りが遅くなる、とメールが来てからもう一時間と40分。幾ら何でも遅すぎる、と思ってしまうのは兄として自分が弟に過保護過ぎるだけなのだろうか。普段の京介の帰宅時間を知らない優一には解らない。
 こういう時、少しだけ優一は寂しさを感じる。優一は京介がどんな生活をしているのか知らない。最近は両親ともに仕事が忙しいのか面会に来ることが少なくなったし、京介も大きくなったからかも知れないけれど、日常のことを余り話してくれなくなった。そうすると、一緒に暮らしていない優一は家族のことを知る術が無い。
 だから余計に、なのだろう。我が儘だとは解っているけれど、京介との距離感が掴めなくて、時折無性に寂しくなる。京介が自分を慕ってくれているのは、あの嬉しそうにはにかむ姿から簡単に読み取れると云うのに。

「でもやっぱり遅い、よなあ……」

 サッカーのクラブチームでの練習があるから遅くなるとは聞いていたし、京介からも練習で遅くなるとはメールが来たけれど、それにしたって遅すぎるような気がする。京介はまだ、小学生なのだ。本来ならもう晩御飯を食べていなければいけない時間のはず。
 電話をしてみようかと携帯を開くものの、練習中だったら迷惑じゃないかという気持ちが邪魔をして、通話ボタンを押せない。そうなると、募るのは不安だけで優一はもう何度目か解らない溜息を落とした。小さなそれをかき消すように付けっ放しのテレビからはバラエティ番組の空虚な笑い声が響く。時計の針は8時を指していた。

「ただいまっ」

 やっぱり電話しよう、とそう思い携帯を握り締めた瞬間、玄関のドアが開く音がした。次いで、弟の声。ぱたぱたと忙しないスリッパの音が近付いて、部屋の引き戸が開く。

「っごめん兄さん、遅くなった……っ」
「おかえり、京介」

 急いで帰ってきたのだろう、京介は額に汗を滲ませて、荒い呼吸を整えている。手に持ったレジ袋を床に置いて、釣り目がちな目尻を下げてこちらを見上げてくる京介に優一は優しく笑いかけた。目の前でその姿を確認出来たからか、さっきまでの不安感は嘘のように消えていた。

「遅かったな」
「練習が長引いてさ。今日は母さんがいると思ってたし」
「母さん、急に仕事が入ったって」
「聞いてる。何時ものことだから心配しなくていいって。夕飯、俺が作るからちょっと待ってて」

 息が落ち着いたのか、肩にかけたスポーツバッグを下ろしながら、京介は優一の問いに答える。母は5時ごろ、仕事先から電話がかかってきて、どうしても行かなければならないからと出かけたきりだ。何時に帰るのかも連絡が来ないのだけれど、京介の口ぶりからしてこんなことは珍しくないのだろう。
 事故の後、しばらくしてから両親は仕事に熱心に打ち込むようになった。そのおかげで優一は病院でかなり良い部屋を与えられ、リハビリだって最新のものを受けさせて貰っている。でも、京介にとってそれはどうなのだろう。レジ袋を下げて、リビングへ向かう後姿を見送りながら、優一は考える。
 両親が一生懸命働いているのは自分たちの為だし、迷惑をかけている自覚もあるから意見出来る立場で無いのは解っているが、両親がいないことを当たり前だと捉えている弟を見ると、それは決して良いことでは無いように思うのだ。こんなこと、普段家族と離れている自分が云えることでは無いのかも知れないけれど。

「あ、兄さん、リビング移る?」
「うーん……、じゃあそうしようかな」
「解った」

 リビングとの境の引き戸の向こうから、京介がひょいと顔を出して、今気付いたとでも云いたげに小首を傾げる。優一は少し考えた後に頷いた。テレビを切って、身体を起こすと、京介が車椅子をベッドの傍に用意してくれる。京介の介助を得て、車椅子へと移った優一はそのまま京介に押されて、リビングへと移動した。
 この家は車椅子の優一が暮らしやすいように作られている。玄関は段差の無いスロープだし、廊下の幅も広く、トイレや風呂も大きくスペースを取られていて、車椅子でも不便の無いように設計されていた。優一の部屋とリビングも引き戸一枚で繋がっていて、リビングには優一用に大きな電動リクライニングチェアが置かれている。

「あ、やばい。母さん洗濯物取り込んでないし」

 リクライニングチェアへと優一を座らせてから、外を見た京介が慌てたように窓を開ける。干してある洗濯物を取り込んで、適当に畳みながらソファの上へ重ねていく。慣れた手つきだった。ソファの上にはさっき京介が背負っていた黒のランドセルとスポーツバッグも無造作に放られている。

「テレビでも見てなよ。夕飯、急いで作るから」
「そんなに慌てなくていいぞ」
「でももう8時過ぎてるし。お腹減ってるだろ? オムライスだからそんなに時間かかんないよ」

 洗濯物を取り込み終えた京介はローテーブルの上からテレビのリモコンを取って、優一に手渡すとキッチンへと向かった。そして、ダイニングテーブルの椅子の背にかけられた赤いエプロンを手早く身に着けると冷蔵庫を開く。その姿をリビングから見つめていた優一はふと思ったことを口にした。

「そのエプロン、どうしたんだ?」
「あ、ああこれ? 家庭科の授業で作ったやつ。あんまり上手く出来なかったけど」

 前に帰った時には紺色のエプロンをしていたはずと思って問いかけると、京介は玉ねぎ片手に振り向いて答えてくれる。確かによく見れば遠目にも少し歪んだ裁断の跡が見える手作り感溢れるものだった。シンプルな赤色基調のデザインはいかにも京介が好みそうだ。

「そうか? かっこいいよ」
「……ありがと」

 笑って褒めてやると、京介は照れくさそうにはにかんで、そっぽを向いた。子どもっぽいその仕草が可愛くて優一はまた笑みを深くする。京介は恥ずかしさに耐えられなくなったのか、優一に背を向けて玉ねぎの皮をむき始めた。そんな京介の後姿を見つめながら、優一は思う。もっと、子どもっぽく振舞って欲しいと。そんな我が儘を。
 京介が家に帰ってからずっと、当たり前のように家事をこなしながら、自分の面倒を見、細かく気にかけてくれる様子が優一には何処か背伸びして見えて、不安だった。京介があの事故以来、周りに迷惑をかけまいと自分を押し殺す姿を傍で歯がゆい思いをしながら見ていたから、余計にそう感じたのかも知れない。 
 まだ子どもなんだから、もっと子どもらしく無邪気でいて欲しい。そう思うのに、前へ前へと進んでいこうとする京介は何時だって大人を演じようと懸命に背伸びをしているようだった。そんなに気を張らなくていい、我慢しなくていい。一人で抱え込まないで欲しいのに。
 そんな兄の想いは、弟には届かない。








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