◇ ignorant child






 目の前が真っ白になった気がした。周りの声も聞こえない、景色も見えない。まるで五感全てが無くなってしまったような感覚。ただ、咽喉元までせり上がってくる激情がどうしようも無く熱くて、それを吐き出したくて、闇雲にもがいた。
 おまえに何がわかるんだ! 張り上げた声にはずっと深いところに沈殿していた感情が溢れていた。思いっ切り握り締めた手に食い込む爪が痛い。こんなにも他人に敵意を抱いたことなんて無かった。こんなにも誰かを憎いと思ったことなんて。


 ――― どうして傷を受けるのはいつだって、自分では無いのだろう。








 引き鉄はきっと、とても些細なことだった。
 特に何の変哲も無い、五時間目が終わっての掃除時間。短縮授業で早めに終わったのもあって、クラスメイトは皆浮かれていた。机を全部後ろへ下げて、広くなった教室には放課後、何処で何をして遊ぶのかという声が溢れ、ざわざわと騒がしい。そんな中、盛り上がっている周りの男子たちを横目に黙々と教室掃除をしていた俺はいつもクラスの中心にいる一人の男子に絡まれた。普段からよく俺に構ってくるやつで、薄々勘付いていたことだが、どうやらそいつは随分前から俺のことが気に入らなかったのだそうだ。
 そいつは俺に一緒にゲーセンに行こうと誘ってきた。俺はその日、兄さんのお見舞いに行く予定だったので、素直にそう告げて断った。三日ほど少年サッカーチームの練習や家事に追われて、お見舞いに行けていなかったから凄く楽しみにしていたのだ。兄さんが好きそうな本を図書室で見つけたから、それを届けに行くつもりだった。でもそれが、そいつの気に障ったらしい。そいつはにやにやと嫌味っぽい笑みを浮かべて、唇を吊り上げた。
「そう云えば、おまえの兄ちゃんって―――」
 続く言葉に俺はぐっと唇を噛んだ。挑発に乗ったら負けだ。理解しているのに我慢出来なかった。黙れ! 大声で叫んだ声はきっと擦れて震えていた。でもどんなに叫んでも、そいつは俺の反応を楽しむようにせせら笑い、口を閉じようとはしない。ぎゅっと目を瞑って、止まない言葉の雨に沸々と湧き上がる感情が堪え切れずに表へ出る。頭に血が上って、すっと冷えていく感覚がした。瞼の裏が真っ赤になって、そして―――後のことは覚えていない。
 気が付いたら、そいつに馬乗りになって、顔が真っ赤に腫れ上がるまで殴ってしまっていた。担任の先生に後ろから抱きかかえられるようにして、両腕を掴まれた俺は呆然と目の前の光景を見つめた。女子の劈くような悲鳴が響き、男子が息を呑む音が聞こえる。握り締めた拳がじんじんと痛んで、熱を持っていて、何だか色んなものが別世界の出来事のようだった。担任の呼びかけてくる声も何を云っているのかが理解出来ない。ただ、今、目の前で怯えたように俺を見るそいつの声が耳の奥でこだましていて。それだけが、ずっとこびり付いたかのように離れなかった。


 その後、当然のように両方の親が呼び出された。応接室のソファに向かい合って座って、母さんがひたすら相手の親に謝っているのを俺は俯いて聞いていた。相手の親は甲高い声でひたすら母さんの教育方針が悪いとか、先生がちゃんと見ていないからだとか、わめくように責め立てる。俺は仕事と家事、それに兄さんの介護に追われる母さんに迷惑をかけたことを心から申し訳なく思ったけれど、起こしてしまったことはもう取り返しがつかなかった。
 普段なら、流せたはずだった。今までも何度か絡まれていたし、その時は適度に対応してやり過ごしてきたのだから。元々そんなに我慢強い方では無いから、かっとなってしまうことは何度かあったけれど、ここまで自分で自分を抑えられなかったのは初めてだった。相手にしてみれば、誘いを断られた腹いせに少し俺をむっとさせたかったのだろう。嫌味を云って囃し立てて笑い飛ばして、自分の気が済めばそれで良かったのだろう。それが心無い言葉だと、もしかしたら認識すらしていなかったかも知れない。
 でもそれは、俺にとってはするどいナイフと同じだった。心の一番柔らかいところを抉り取って、切り裂いて。そうして他人を傷付けるための凶器。


 相手の親は一通り、母さんと先生に文句を云って、子どもを病院に連れて行くからと帰っていった。帰り際、母さんに促されるようにして頭を下げた。これ以上、母さんに迷惑をかける訳にはいかないと思った。でも、どうしても、ごめんなさいだけは云えなかった。手を上げてしまった自分が悪いと解っていても、俺じゃなくてあいつが先に謝るべきだという気持ちを消せなかった。
 あいつが自分は悪くないという態度をずっと取っていたのにもイラついた。保健室で手当てを受けたのだろう、タオルで巻いたアイスノンを腫れ上がった頬に当てながら、反抗的な目で俺を見るそいつに反省の色は無く、きっとあの言葉にも深い意味は無かったのだろうと思わされた。先生や親に説明した通り、あいつにとって見れば本当に、「ちょっとからかっただけ」なのだろう。ただ、軽い気持ちで投げつける武器が欲しかっただけ。悔しくて、虚しくて、抉り取られた心の空洞にすっと冷たい風が通るような感覚がした。
 押し黙ったままの俺にどうしてこんなことをしたのと先生も母さんも問い詰めたけれど、何も答える気にならなかった。特に母さんには、云えるはずも無かった。あんな心無い言葉に傷つくのは自分だけで十分だと思った。今まで母さんはたくさん色んなことを云われて大変な思いをしてきたのだ。もうこれ以上、母さんが抱え込む必要は無い。一度として口を開かないまま、俺はぎゅっと未だ熱の引かない手を握り締めていた。


 学校を出たら、もう夕暮れ時だった。せっかくの短縮授業で兄さんとずっと一緒にいられる日だったのに、俺は何をしているのだろう。兄さんに届けようと思っていた本がランドセルの中でがたんと揺れる。
 母さんは俺の手を引いて、自宅までの帰路をゆっくりと歩いた。母さんとこうして並んで歩くことが随分と久しぶりな気がした。最近はずっと仕事が忙しくて、夕飯を一緒に食べることも無かったから。母さんの白い手が俺の指を握る感触がくすぐったい。
 会話は一つも無かった。洗濯物を畳んでおいて欲しいとか、今日の夜は遅くなるとか、兄さんに何か届けておいて欲しいとか、そんな事務的な内容以外で母さんと何を話せば良いのか、俺はもうずっと前から見失ったままだ。疲れた顔の両親に伝えるほどの内容は無く、俺の所為で学校に行けなくなった兄さんに話す勇気も無い。昔は一日にあったことを全部、誰かに報告しないと満足出来なかったのに、今では家族に何かを話すことが怖かった。

「ねえ、京介」
「……」
「お兄ちゃんのところ、行こうか」

 真っ直ぐに前を見つめて、母さんは云った。進む方向には沈みかけの夕陽がじんわりとオレンジ色を滲ませて輝いている。やさしい色が何だかやけに目に沁みた。
 何も話さなくても、母さんは気付いているのかも知れない。そう思った。








 それから、病院まで母さんと歩いた。いつの間にか日は暮れて、病院に着いたころにはもう辺りは真っ暗だった。エレベーターに乗って、兄さんの病室の前まで辿り着いたところで母さんの携帯が鳴った。どうやら仕事で急なトラブルがあったらしい。母さんはちょっと電話してくる、と云って、中庭の方へと歩いていった。
 一人残された俺はドアの取っ手に手をかけたまま、しばらく立ち尽くした。朝からずっと兄さんに会いたくて堪らなかったはずなのに、いざ目の前にしてみると怖くなっていた。昂った感情が表に出てしまわないだろうか。いつも通りの自分で兄さんに接することが出来るだろうか。今日のことを知らないだろう兄さんに「今日は何かあった?」と聞かれて、平然としていられる自信が無い。そうじゃなくてもきっと、兄さんの笑顔を見たら泣いてしまう気がした。
 最終的に俺は迷いを残したまま、病室の前でずっと立っている俺を見かけた顔見知りの看護師に入らないの?と聞かれることで、流される形で病室のドアを開けることになった。

「京介、来てくれたのか」
「……兄さん」

 兄さんの声はいつもと変わらない優しいものだった。直視出来ずに目を逸らしたけれど、きっと笑っているのだろう。こっちへおいで、手招きに誘われるままにベッドの傍の椅子に腰掛ける。がたんと音を立てるランドセルに当初の目的を思い出して、俺はランドセルを肩から下ろして止め具を外した。元々本を届けるつもりだったのだ。これを渡して、今日は帰ろう。咽喉の奥に詰まった感情を吐き出してしまう前に。

「あのさ、こないだ図書室で面白そうな本見つけたんだ。兄さん、こういうの好きだろ? だから、」

 勇気を出して絞り出した声が震えていないことに安堵しながら、教科書やノートが詰まったランドセルの中から一冊の本を取り出す。そしてそれを兄さんに渡そうと顔を上げたところで、俺は不意打ちに固まってしまった。

「京介、」
「……な、なに?」

 日に焼けない白い手が俺の頬を包むように触れている。じっと俺の目を覗き込むようにして、兄さんは俺の名前を呼んだ。行動の意味が理解出来ず、俺の咽喉から戸惑い上擦った声が上がる。

「いや、今日はずっと目を合わせてくれないから」

 手を離して、兄さんは苦笑した。その顔が少しだけ寂しそうで、俺はぐっと吐き出しそうになる感情を飲み込む。腹の奥がじくじくと熱を持っているようだった。

「自分では、気付いてないかも知れないけど、」

 兄さんの手が再び俺の方へ伸びて、頭を引き寄せられる。ベッドから身体を起こした兄さんに抱きかかえられるようにして、俺は兄さんの胸に頬を押し付ける形になる。兄さんが俺の髪を優しく撫でた。幼子を宥めるような手付きは昔、俺が泣いた時によくしてくれていたそれに似ていた。思わず零れそうになる涙を抑えるように、ぐっと目を瞑る。

「おまえ、入ってきてからずっと、泣きそうな顔、してる」

 落ちてきた声は少し擦れていた。云われて初めて、自分がポーカーフェイスなんて作れていないことを知った。いつも通りを装うなんて無理だって解ってたのに、どうして俺は兄さんに会いたいと思ってしまったんだろう。兄さんには何でも見破られてしまう。どんな些細なことも見逃してはくれなくて、嘘や誤魔化しが通用しない。そんなこと、俺は嫌というほど知っていたはずなのに。

「……っ」

 ふがいない自分に悔しさが募って、きつく唇を噛んだ。俺なんかが泣いちゃいけない。泣いちゃいけないのに。
 ――― だって、一番苦しいのは、今目の前にいる人だと知っている。
 あの日、ごめんなさいと何度も謝りながら泣きじゃくる俺を兄さんは優しく抱き止めて笑っていた。俺の髪を優しく撫でながら、兄さんは大丈夫だよ、とずっと囁き続けた。本当は一番泣きたいのは兄さんだったはずなのに。おまえの所為じゃないと、笑って。
 いつだってそうなのだ。足が動かなくなっても、兄さんは原因である俺を一度だって責めたことは無い。悔しいことや辛いこともたくさんあるはずなのに、一言も漏らさないで、いつも優しく笑っている。学校へ行けなくなって、他人の介助無しでは日常生活をこなせなくなっても、兄さんは弱音や愚痴を云わなかった。根気強くリハビリを続け、勉強だって一日も欠かしたことが無い。自分が出来なくなったサッカーを俺がすることだって、いつだって純粋に応援してくれた。つよくて、やさしいひとなのだ、ほんとうに。
 だから、悔しかった。今まで何を云われても、相手にしたことなんか無かったのに、色んな感情を抑えられなかった。
 おまえに何が解るんだ。そう思った。おまえに、兄さんの何が解るんだ。どんなに自分を馬鹿にされたっていい、でも、兄さんを侮辱されることだけは我慢ならなかった。どうして俺を攻撃するのに、兄さんを馬鹿にされなければならないのだろう。兄さんは本当に強くて優しい人で、こんな人間に下に見られるような人じゃない。自分を高める努力もしないで、周りを馬鹿にすることしか出来ない人間に。
 そしてその原因が、兄さんの足が動かないことであることに耐えられなかった。
 兄さんが普通の中学生だったなら、きっとあいつもあんなことは云わなかったのだろう。ただ俺を馬鹿にしたくて、その矛先を解りやすい対象として兄さんに向けただけなのだ。それがどれだけ最低なことなのかもきっと解っていないまま。だから余計に、頭に血が上った。
 あの事故が無ければ、兄さんはきっと豪炎寺さんみたいに雷門中でエースストライカーをやっているはずだった。あの事故が無ければ、兄さんはずっと家にいて、学校にだって通えて、友達もたくさんいて、もしかしたら恋人なんかもいたかも知れない。そんな、兄さんの未来を全部奪ってしまったのは、他ならぬ自分。それなのに、どうして俺の所為で兄さんが馬鹿にされなければならないのだろう。どうして俺が受けるはずの刃を兄さんに向けられなければならないのだろう。悪いのは全部俺なのに。全部全部、俺の所為なのに。

「……っく、ふぅ…うぅ…」

 込み上がる嗚咽を抑えられない。涙が後から後から溢れてきて止まらなかった。泣いちゃいけない。そう思うのに、感情は理性を振り払って、表へ出てくる。
 兄さんの手が俺の髪を撫でる感触にあの日のことを思い出した。泣きじゃくる俺を優しく受け止めてくれたやさしい手。あの日と同じように、兄さんは云う。

「大丈夫だよ」

 降ってくる柔らかい声は不思議な安心感を伴って、俺の鼓膜を震わせる。もう色んな感情がぐちゃぐちゃになって、俺はただひたすら泣くことしか出来なかった。どうして俺はいつも、無力なんだろう。どうしたら、兄さんみたいに強くなれるのだろう。どうしたら。


 ――― どうしたら、兄さんの傷もすべて、俺が引き受けることが出来るのだろう。








<top



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -