◇ 優一兄さんと満月






「きんもくせいのにおいがする」

 夏が終わり、秋が来ると途端に日が短くなるように感じる。まだ5時過ぎだと云うのにもう沈んでしまいそうな夕陽を眺めながら、優一はくんと鼻を動かした。甘いにおいはこの季節特有の花のものだ。この時期、何処からともなく香ってくるこのにおいが優一は好きだった。秋になったなあ、としみじみ思う。

「もうすっかり秋だなあ」
「今日はお月見らしいよ」

 車椅子を押して院内の決して広くは無い中庭を歩く京介は優一の何気ないつぶやきに今朝のニュースを思い出した。天気予報のお姉さんが今日は中秋の名月、お月見ですとすすきや団子の飾られたスタジオで云っていた。実際、昨日病院帰りに見上げた月は満月と見間違えるほどきれいなまんまるをしていた。

「ほら、もう出てる」

 沈んだ太陽の反対、暗くなった空に月が姿を現している。檸檬色の月を指さして京介は少し身を屈めて兄を見やった。優一は瞳を眇めて眩しそうに満月を眺め、そして京介に向かって茶目っ気のある笑みを浮かべる。小首をことんと傾げて、弟を見上げる。

「月が綺麗ですね、って京介は意味わかる?」
「…? そのままじゃないのか?」

 それ以外に意味などあるのだろうか。兄の問いに京介は黄金色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
 それから兄は京介にある有名な文豪の逸話を話してくれた。弟子が「I love you」を「私はあなたを愛している」と訳し、それに対してその人はそれではいけないと云った。「月が綺麗ですね」そう訳せば大抵の女性には伝わるからと。 

「京介だったらどんな風に訳す?」

 説明を終えて優一は京介を見上げ、そう問いかけた。その顔はどんな返事が来るのかと期待に満ちている。京介は少し逡巡して、そのまま返した。自分の中の気持ちを言葉にしてもいいか悩んだ末の単なる逃げだ。

「…兄さんは?」
「俺だったら、そうだなあ。・・・ずっとおまえと一緒に夢を見たいな」

 そっと眼を閉じて考えて、次に開いたとき、優一は暗闇を照らす満月の光のような、とてもやさしい顔をしていた。ずっとずっと京介が見てきた兄の顔だ。希望を諦めない兄の強い横顔に京介の胸は打ち震えて、何だか少し泣きそうになった。俺も、兄さんとおんなじだよ。兄さんと夢を叶えたくて、そのためなら。

「ほら、答えたんだからおまえも教えてくれよ」
「うーん、やっぱり内緒」

 前を向いたまま車椅子を押していく。この顔を見られたくなくて、冷たい秋風が色んな込み上がってくる熱い気持ちを冷ましてくれたらいいのにと思う。ずるい、と不満げに唇を尖らせる兄に別に俺は答えるなんて云ってない、なんて可愛げのない返事をして、京介はそっと心の内でつぶやいた。
 I love youを訳すのがもし俺だったら。


 どんなことがあってもずっと、兄さんを守るよ。








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