◇ innocence 05






「知ってます、おれ。剣城が本当はとっても優しいってこと」

 一階の売店まで下りて、買ってきたジュースの袋を片手に剣城は病室の前で静かに立ち尽くした。盗み聞きをするつもりは無かったが、偶然でも耳に入ってしまったものは取り消せない。病室の引き戸にかけた手を引っ込めて、剣城は中へ入ることを諦めた。もう少し、時間を潰していた方がいいのだろう。何を話しているのか、あの天馬の一声だけでは判断がつかないけれど、きっとそこに自分がいてはいけない。それくらいの分別はついているつもりだった。元より兄が自分を買い物に行かせたのは天馬と二人きりで話したいことがあるのだろうことくらいは察しがついている。
 ――― それにしても。

「お人好し」

 俺が優しいなんて、何処をどう見たらそう思えるのだか。剣城は溜息混じりにつぶやいた。
 そう、どうしようもないお人好しだらけだと剣城は思う。天馬も、他のサッカー部のメンバーもそうだ。あんなにチームを滅茶苦茶にして散々なことをして痛めつけた自分を簡単に受け入れて、チームメイトとして接してくる。信じると、確信のこもった目で宣言した天馬の顔を思い出す。そして、それに応じるように信じると続いた声。まったくもってどいつもこいつもお人好しばかりで。そんな人々と一緒にいると、自分の罪深さを忘れてしまいそうになる。自分のしたことを、自分がどういう存在なのかを忘れてしまいそうになる。
 病院の冷たい壁に背中をぺたりとくっ付けながら、ゆっくりと瞼を伏せる剣城の耳に低く落ち着いた声が過ぎる。





 それは前日の放課後のことだった。後片付けに手間取っていつもよりも遅い時間。シャワーを浴び着替えを終えてサロンを通り過ぎようとした剣城の目にミーティングルームから漏れる明かりが映った。一緒に片付けをしていた天馬と信助、葵は先に帰っていたので、誰かが電気を付けっ放しで帰ったのだろうかと確認に覗いたところ、神童が真剣な顔でノートと睨めっこをしているのを見つけたのだ。

「キャプテン、まだ残ってたんですか」
「…ん、ああ。ちょっと次の試合のフォーメーションを考えててな」

 思わず声をかけてしまったのは、単なる気まぐれとしか云いようが無い。控えめに話しかけた剣城に神童はノートから顔を上げた。気だるげにシャープペンシルをノートの上へ放り出す仕草から、幾らか煮詰まっていたのだろう。少し疲れた顔で微笑みながらこちらを振り返る神童に剣城は肩にかけたスポーツバッグを抱え直して、彼の元へ歩み寄った。

「次…、海王学園戦ですか」
「ああ。天馬の化身が目覚めるかもまだ解らないしな。なるべく相手の化身使いにすぐに対応出来るような配置を考えてたんだ」

 とんとんと指先でノートの上のフィールドを叩きながら説明する神童の手元を横から覗き込む。ノートを埋め尽くす神経質そうな字は真面目で責任感が強く繊細なところがある神童らしいと剣城は思った。きっちりと定規で引かれたセンターライン。何度も消しゴムで消しては書いてを繰り返した為に汚れた用紙は海王学園の情報が少ない所為だろう、試行錯誤した様子が窺える。更に周りに細かく書き込まれた選手の情報はよくここまで観察しているものだと感心してしまうくらい些細なことまであった。

「何か意見あるか?」
「いえ。俺は、そういうタイプのプレイヤーでは無いので」

 つい見入っていると意見を求められ、返答に困った剣城は整った眉をへにゃりと下げ、緩く首を横に振った。元々剣城はゲームメイクを得意とするようなプレイヤーでは無い。もちろん、プレイヤーとして最低限、相手チームの様子や自チームの動きは把握するよう努めてはいるが、誰かに指示を飛ばすというポジションには昔から馴染まなかった。キャプテンを任されたことも何度かあったけれど、それだって自分主導のゲームメイクをしたことはほとんど無い。剣城のサッカーはどちらかと云うと、自分のテクニックやフィジカル面をどう活かして攻撃するかに置かれていて、他人をどう動かすかよりも、他人の動きに合わせて自分をどう動かすかに尽きるからというのも大きいのかも知れない。
 口を噤む剣城に神童は不思議そうに小首を傾げ、それから少しだけ躊躇いがちに唇を舐めてから問いかけを口にした。

「でも勉強はしたんだろう? …その、シードの英才教育ではそういうこともしていると思っていたんだが」
「カリキュラムとしてはもちろんありましたよ。でも、俺より成績の良いやつはたくさんいましたから」

 窺うようにこちらを見る神童に剣城は何でもない風に平坦な声で答えた。神童の云う通り、フィフスセクターのシード育成施設では実技の他に試合のDVDを見ながらのディスカッションや戦術的な授業、例えば攻撃的な陣形とは、その場合のメリットデメリットは何かなどの所謂座学も存在していた。剣城も仮にもファーストランクのシードとしてその講義を受けている。だが、成績としては上位のものを修めていても、元々の性分が性分だからか、実技のように他人を圧倒するようなものを披露することは少なかった。フィフスセクターでもその一点に置いて、敵わないと思う相手は何人かいたのだが、雷門で間近で神童のゲームメイクを見、自分もまたその中の一人として動くようになって、剣城にとって神童もまたその中の一人に加わっていた。

「……それにキャプテンの知識や観察力には敵いませんよ」

 ノートの端に小さな文字で綴られたチームメイトの特徴、動き方のくせ、欠点などの情報を指の腹でなぞりながら、目の前の人物を心底信頼し、尊敬していると思わせる声音でそう云い切る。そんな剣城に神童は不思議そうに小首を傾げた。

「そうか? おまえも結構ちゃんと皆のこと見てると思うけどな」

 ふいに隣に椅子に置かれたかばんの中から一冊のノートを取り出した神童はそれを机の上に無造作に置いた。素っ気ない表紙には大きくマジックペンで雷門中サッカー部誌と書かれている。

「これ、昨日の部誌、おまえの担当だろ?」
「ええ、そうですが」

 昨日は剣城がサッカー部の練習に参加して初めて部誌を担当した日だった。雷門中サッカー部の部誌は学年問わずローテーションで回ってきたものを誰か一人が自宅へ持ち帰って、次の日に持ってくるという形を取っている。内容は大体その日の練習内容が主だったものだが、人によって細かかったり大雑把だったり様々だ。神童や霧野、三国は反省点を含め細かく書くが、浜野や倉間は一文で済ましていたり、天馬に至っては「今日も練習楽しかったです!」と云った単なる感想文になっていることも多い。

「意外と細かいところ見てるなと思ったんだ」

 ほら、こことか。神童が指差した部分には最後に行われたミニゲームでのディフェンスの欠点を端的に記してある。自分が攻め込む側として見たとき目についたところを書き出した部分だ。天馬曰く鍵盤の上では繊細な旋律を奏でるという神童の長い指先が昨日の晩、練習を思い返しながら書いた剣城の整ってはいるが少しくせのある文字の上を丁寧に辿っていく。そうしてしばらく部誌の中身について口にした後で、神童はふっと顔を上げると剣城の方を見つめた。神童の鳶色の目にじっと視線を注がれ、居心地の悪さに剣城は何となく背筋を正す。

「おまえも大分、部に馴染んできたな」

 しみじみとつぶやく神童の声に剣城は訝しげに眉を寄せた。神童の云うことが俄かには信じられなかった。サッカー部の練習に参加し始めて一週間。帝国学園戦、ピンチに現れた剣城に対し、天馬が真っ先に信じると宣言したことに影響されて、雷門イレブンは一旦は剣城をチームに迎え入れることを決めた。が、形としては仲間として練習に参加するようになっても、それまでに出来た深い溝がそう簡単に埋まる訳でも無い。そもそも剣城の性格自体、親しみやすいとはとても云えない。他者を威嚇し見下していたシードの頃のような攻撃的な部分は鳴りを潜めたが、それでもするどい目つきも近寄り難い雰囲気も相変わらずだ。それは剣城自身も自覚している為、今までシードとしてやってきたことも含め、彼らに本当の意味で仲間として受け入れて貰うには時間がかかるだろうと考えていた。もしかしたら、一生許しては貰えないかも知れない。それだけのことをしてきたと理解しているし、それを償うにはフィールドの上で貢献するしかないとも思っていたのだ。
 思わず疑わしげな声音で問いかけてしまった剣城に神童は練習時間を思い出すように微かに目を閉じた。

「そう、ですか?」
「ああ。皆、おまえがいることを前提としたプレイをしてる。…それに、おまえの態度も」
「俺?」
「随分、柔らかくなったと思うよ。こうして俺に敬語使ってるのも、前のおまえじゃ想像つかない」

 くすりと小さく笑い声を漏らして、神童は再び剣城を見た。自分が守らなければと思っていた存在を侮辱され傷つけられて激情に揺れた眼差し、堪えきれない涙に濡れた瞳、そんな今まで剣城が見続けてきたものとは違う穏やかな鳶色の目。そしてそんな凪いだ海面のような目に映る自分もまた、たった何週間か前のことなのにきっとその頃とはまるで違う顔をしているのだろうと思った。思わず戸惑ったように視線を逸らした剣城に神童は柔らかい笑みを浮かべる。

「最初は正直どうなることかと思ったけど、……おまえももう、立派な雷門イレブンの一員だな」




 そう云ってふっと長い睫毛を伏せて微笑んだ神童の表情に自分らしくも無くうろたえたのを剣城は覚えている。ついこないだまで男のくせにボロボロ泣いていたのに。そんな悪態をついたところで、あの神童の笑みを見れば、きっと自分はもうこの人にとって脅威でも何でも無いのだと思わされる。今の自分に彼らにとって脅威である必要も、無いけれど。
 そんなことを考えてしまう時点できっと自分はもう十分に、このどうしようもないお人好したちに絆されてしまっているのだろう。当たり前みたいに練習に参加して、天馬の化身特訓に付き合って、フォーメーション確認のミニゲームについ全力を出してしまったり、云われた通りに後片付けや掃除を真面目にこなして、その足で兄の元を訪れて、帰宅して泥のように眠る、そんな日常に戸惑い、居心地の悪さを覚えながらもそれを悪くは無いと思っている自分がいる。本当はずっとこのままでいられるはずがない、薄っすらとそんな予感を抱きながらもこのままでいたいと、そう思ってしまうくらいには今の日常に慣れを感じてしまっている。

「どうしようも無いのは、俺の方か」

 自嘲気味にぼやいた声は誰もいない病院の廊下に静かに溶けていった。








 剣城がしばらく時間を潰してから病室へ戻ると、優一と天馬は極普通に雑談に花を咲かせていた。さっき聞いた天馬の声は錯覚だったのかと思うくらいに二人は何でもない様子で、剣城も素知らぬふりで買ってきたジュースを手渡した。それからクッキーをつまみながら学校やサッカー部の話をして、調子に乗って勝手なことを喋り始めようとする天馬の腕を掴んで病室を出た頃にはもう外は夕闇に包まれていた。西の空に宵の明星が浮かんでいる。

「俺がいない間、兄さんと何話してたんだ」

 病院からの帰り道、先を歩く天馬に剣城は何でも無い風を装って話しかけた。一応、釘を刺しては置いたけれど、天馬にせよ兄にせよ何を話し出すか解らない。どちらにも隠しておきたいことが剣城には山ほどあった。そんな剣城をくるんと振り返って、たそがれの空を背景に天馬は照れたように笑ってみせる。

「えへへ、ないしょ」

 人差し指を唇の前に持ってきて、ブルーグレイの瞳を嬉しそうに眇める。天馬の子どもっぽいしぐさに剣城はそれ以上言及することを諦めた。天馬が喜んでいるということはきっと自分にとって余り良いことでは無いのだろうけれど、きっと問い詰めても疲れるだけだ。
 押し黙った剣城に天馬はそのまますっと隣に並んで歩き始めた。子どもみたいに跳ねるような歩き方をする天馬の幼い横顔を白い外灯が照らしている。何気なくそれを眺めていると、ふいに天馬がこちらへ視線を向けた。

「ねえ剣城、おれ、おまえのこと友達だって思ってるよ。剣城は?」

 静かな声でそう聞かれて、戸惑う。そんな風に、思えば考えたことが無かった。天馬はチームメイトでありサッカー部の仲間だ。それ以上でも以下でもない。他の部活のメンバーとは確かに違う。天馬には個人的にとても感謝しているし、きっと他の人間よりはずっと心を許して接している。好意を持っている、のかも知れない。けれどそれをどういう形に当てはめるべきなのか、剣城は考えあぐねていた。「友達」なんてずっといなかったから、どういう存在が「友達」なのか解らない。そもそもチームメイトと友達とはどう違うのか。天馬にとって自分が「友達」と呼べる存在ならば、自分にとっても天馬は友達なのだろうか?

「さあ、どうだろうな」
「何それ、ちゃんと答えてよ」

 内心ぐるぐると考え込みながら、表向きは素っ気なく返しておく。天馬は不満気にぷうと頬を軽くふくらませたが、すぐにいつもの笑顔に戻って住宅街の間に切り取られた夜空を指差した。

「剣城、見て! 今日満月だよ!」

 天馬のまるい指先の向こうには檸檬色の月が大きく空を陣取っている。一生懸命買ったばかりの携帯で写真を撮ろうと悪戦苦闘している天馬に苦笑して、剣城もまた携帯を開いた。カメラモードに設定して家々の間に浮かぶ月をパシャリと撮影する。月を見上げてきれいだと思うのはいつ以来だろうと記憶を辿りながら、こんな風に思えるようになったのはきっと天馬のおかげなのだろうと思う。そういう意味で「友達」かどうかは解らないけれど、天馬は剣城にとって「特別」だった。こんなこと、今目の前で得意げに携帯の画面を見せ付けてくる天馬にはないしょだけれど。

「剣城、これ待ち受けにするにはどうすればいいの?」

 携帯片手に疑問符を浮かべる天馬に操作を教えてやりながら、剣城はこの日常を満更でもないと思っている自分に今日二度目の溜息を吐いた。








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