◇ innocence 05






「こんにちは、優一さん」
「天馬ちゃん! 久しぶりだね」

 放課後、部活の練習を終えた後に稲妻総合病院の315号室を訪れた天馬を優一は少し驚いた様子で迎え入れた。つり目がちな瞳が僅かに見開いて、それからゆっくりと笑みの形に細められる。読んでいたのだろう雑誌を膝の上に置いて、柔和に微笑む優一に手招きされ天馬はベッドの脇に置かれたパイプイスに腰を下ろした。その後ろで剣城が応接用のソファにスポーツバッグを置きながら、申し訳無さそうに眉を下げる。

「兄さんごめん、松風がどうしてもって云うから」
「良いじゃないか。俺も天馬ちゃんにはまた会いたいと思っていたんだ。学校での京子はどう?」
「もう兄さん、変なこと聞かないでくれよ」
「えっと、クラスが違うので授業中はよく解らないんですけど…」
「松風も真面目に答えなくていいから」

 紙袋の中から着替えを取り出して引き出しの中に仕舞っていた剣城は兄を咎めるような目線で見ると、唇を尖らせて抗議した。茶目っ気を多分に含んだ表情で笑う優一に求められるままに彼女の話をしようとした天馬にもまた剣城の突っ込みが飛んでくる。でもそんな掛け合いも普段の剣城からは想像出来ないもので、天馬は改めて彼女の中にある兄の存在の大きさを感じた。纏う雰囲気にも普段のするどさは欠片も見当たらず、優一に似た柔らかい春の陽射しのような暖かさが滲んでいる。

「それよりおまえ、何しに来たんだよ」
「あっ、そうだ。優一さん、これ、お見舞いです。秋姉と一緒に焼いたクッキー。美味しいですよ」

 荷物を全て片付け終えたらしい剣城が立ち上がり、パイプイスをもうひとつ引き寄せながら天馬にちらりと視線を投げる。天馬は慌てて学生かばんの中からクッキーの入った袋を取り出し、優一に渡した。透明なフィルムに包まれたクッキーはところどころ焼き色が違っていて、手作り感が溢れている。

「手作りクッキーかあ、何か懐かしいな」

 昔はよく母さんと一緒に作ったよね。遠い過去を思い起こしているのだろう、優一の剣城によく似た琥珀色の瞳がゆっくりと眇められる。そうだったっけ。応じる剣城の声は微かに震えているように天馬には聞こえた。二人の間の空気に何処かぎこちなさを感じて、天馬はその場を明るくしようと口を開きかけた。ところを優一の声に遮られる。

「そうだ京子、今ここ飲み物無いんだ。買ってきてくれないか?」
「あ、じゃあおれが……」
「いや、京子、頼む。いつもの、解るよな?」

 水色のリボンをするりと解いて指先で弄びながら、優一は妹を見上げた。剣城に無理を云って連れてきて貰った自覚がある天馬が優一の要望に答えようと口を挟むが、それもまた優一の声によって途中で途絶えてしまう。窺うように妹を見る優一の眼差しは天馬には上手く読み取れないものの、何がしかの感情が含まれているように見えた。剣城もそれに気付いたのだろう、兄とアイコンタクトを交わした彼女は全て解ったような態度で頷いてみせる。

「はいはい。松風は?」
「え、おれのも買ってきてくれるの?」
「ついでだついで。で?」
「じゃあ、オレンジジュース」

 まさか自分に話題を振られるとは思わず驚く天馬に剣城の返答は兄の前だからか素っ気ないながらに普段よりもずっと柔らかい。とりあえずパッと頭に浮かんだものを口にする天馬に剣城は了解したとばかりにパイプイスから立ち上がり、病室の引き戸に手をかける。がらりと扉を引いて、ふいに何かを思い出したように振り向いた剣城は天馬をじっと見つめた。

「松風。兄さんに変なこと云うなよ」

 きゅっと眉間に皺を寄せた咎めるような目線でそう云い置いて、剣城は飲み物を買いに病室を後にする。残された天馬はそっと優一を窺った。天馬って空気読めないタイプだよね、なんて何度も葵に云われたことがある天馬だって、優一が天馬と二人きりで話したくて剣城に買い物を頼んだのだろうことくらいは察することが出来る。優一は穏やかな笑みを浮かべて、天馬が予想通りの話題を振ってきた。

「ずっと君に京子のこと聞いてみたかったんだ。ほら、本人がいる前では中々話しにくいだろ?」

 どう返事をするべきか、さっき剣城に釘をさされたことが思い出されて反応に戸惑う天馬に優一は茶目っ気たっぷりに笑う。優一と一対一で話すのは天馬にとって三度目だが、気さくな雰囲気は妹とはまるで似つかない。

「京子は元気にやってる? サッカー部で」
「あ、はい。毎日ちゃんと練習出てますし、大分チームにも馴染んできたと思います。最近はずっとおれの練習に付き合わせちゃってますけど……」
「そうか」

 確かめるように問う優一の声に天馬はここ最近の剣城の行動を思い浮かべた。朝練から放課後まで授業中を除いてはかなりの時間を共に過ごしているつもりだけれど、はっきりと彼女の実兄に話せるようなエピソードは多くは無い、ような気がする。英語の辞書を忘れて剣城に借りに行ったこと、お昼ご飯を一緒に食べていること、抱きつきを回避され続けていること、今日携帯電話の操作を教えて貰ったこと、一週間前落ち込んでいたら不器用に励まされたこと。どれも天馬には大事な記憶だが、優一に話すには情けなかったり、恥ずかしかったりすることばかりだ。サッカー部内での剣城も大分馴染んできたとは思うが、相変わらずの一匹狼っぷりで天馬以外の誰かと個人的に接点を持っている様子はほとんど無い。

「最近ね、君たちの話題が少しずつだけど、話に出てくるんだ。君がまたドリブル早くなったとか、キャプテンと次の試合の相談をしたとか、サッカーのことばかりだけど」

 だから、優一が口にした話に天馬は驚いた。剣城は兄にはサッカー部での出来事を話しているのだという。さっきの剣城の態度を見ても、自分から学校での出来事を話しているようには思えなかっただけに兄の語る彼女の姿がとても新鮮に映った。

「楽しそうで、本当に良かったと思う。京子がサッカーを楽しんでるみたいで、俺は嬉しいんだ」

 優一の目が柔らかく弧を描き、口元が綻ぶさまを間近で見ながら、天馬は以前優一と話したときのことを思い出した。今みたいに微笑みながら、優一は妹に望む夢を語った。サッカーを愛し、妹を大切に想う優一の何も知らない嬉しそうな表情に天馬は言葉に詰まったのを覚えている。同時に天馬が剣城に対し抱いてきた思いが確信に変わったことも。
 あのときはまだ、剣城はフィフスセクターの一員で、天馬は彼女のことを今以上に何も知らなかった。そんな中、兄が語る妹は天馬がずっと見ていたものとは違う、エースストライカー豪炎寺修也に憧れる、ただのサッカー好きな少女で。きっとあの頃神童辺りが聞いたなら根拠もないのにと笑われてしまいそうな、剣城はサッカーが好きなんだという訳も無い直感が本当だったのだと天馬は確信したのだ。

「おれも、嬉しいです。剣城が、本当のサッカーを楽しんでいるのなら」

 心の底から、そう思う。病院のテラスで、何かに耐えるような顔で天馬を睨みつけた剣城。夕暮れの河川敷でも、万能坂の試合でも、剣城はいつだって苦しそうに何かを押さえ込んでいた。剣城は馬鹿かと吐き捨てたけれど、天馬は今でも思っている。あれは剣城のサッカーがずっと、苦しんでいたからなのだと。
 それが今、解き放たれたかのように剣城は自由にサッカーをしている。帝国戦の時のように天馬に向かって笑いかけてくれたりはしないけれど、一緒にボールを追いかけていると解る。剣城がサッカーを楽しんでいること。そしてそれを剣城のサッカーもまた、喜んでいること。
 天馬の返答に穏やかに微笑み返した優一はそれから少し俯いて、今度は真面目な顔で天馬を見据える。

「天馬ちゃん」

 優一の声は元から落ち着いた、少し達観したような大人びた響きをしている。その声が僅かでも低められると、こんなにも深刻に聞こえることを天馬は初めて知った。名前を呼ばれただけなのに、思わずスカートの上に置いた手をきゅっと握りながら、天馬は視線を手元に落とす。優一は何かをひとつひとつ確かめるように言葉を重ねていった。

「君は、俺の足のことは知ってるんだよね」
「あ、はい…」
「じゃあ京子がどうしてフィフスセクターにいたのかも知ってるんだ」

 剣城本人の意思で打ち明けられた出来事では無いだけにすぐに頷くことは出来なかったが、不可抗力で知ってしまいました、とは云えずに天馬はおずおずと首を縦に振った。優一はそっか、と小さく漏らしてから、ゆっくりと目を閉じる。伏せられた濃い色の睫毛が妙に剣城に似ていて、ああ二人は兄妹なのだと改めてそんなことを思う。

「あの子はね、」

 それから、ぽつりぽつりと落とされていく言葉を天馬は静かに聴いた。やんちゃで外で遊ぶのが大好きだった頃の話、明るかった笑顔が控えめに笑うようになった過程、毎日のように道端で摘んだ花を届けに来てくれたこと、誰よりも兄を優先するようになった彼女の表情が張り詰めていくまでの日々。
 瞼に覆われた目の先に何が映っているのか、天馬には解らない。優一の目に、それこそこの世に生まれてからずっと映っていた剣城のことを天馬に知る術は無い。二人の間に流れてきた時間、それはきっと途方も無く長いもので、彼らにとって優しいだけでは無かったのだろう。それでも、だからこそ、兄と妹の間にある絆は人よりもずっと強いのだろうと天馬は思った。一人っ子の天馬にはよく解らないけれど、でもきっと、剣城にとって兄がこの世界で一番大切な存在であるように、優一にとってもまた剣城はたった一人の大切な妹なんだとそう感じた。
 そうして幾つかの昔話を繰り広げた後、優一はこれが本当に伝えたかったことだと云った様子で天馬を見つめ、口を開いた。

「ちょっと誤解されやすいところがあるかも知れないけど、あの子は本当はとても優しい子なんだ」

 優一がゆっくりと一つずつ放った言葉を掴んで受け取って、天馬はぎゅっと握り締めてからそのまま同じように唇を震わせた。

「大丈夫です。知ってます、おれ。剣城が本当はとっても優しいってこと」

 優一に比べたら、天馬が剣城と一緒に過ごした時間はとても短い。けれど、そんな決して長くは無い時間の中でも天馬が見てきた剣城もまたきっと、優一の目に映る人物の一部であることに変わりは無い。確かに優一の云う通り、誤解されがちなところも多い。むしろ、彼女自身、そうして他人を寄せ付けないようにしているようだった。人を威嚇するようなするどい目つき、クールで素っ気なくて話しかけ難くて。まるで、自分から周りを拒絶して一人でいようとしているような。冷たい人、怖い人だと噂されているのを聞いたこともある。
 でも、本当はそうじゃないことを天馬は知っている。これまでの日々、ぶつかり合って解り合えなくて、攻撃的な眼差しに怖いと思ったことだってあった。でもそれ以上に、彼女のそれが虚勢なのだと何処か直感で気付いていたように思う。彼女が本心からサッカーを嫌って、他人を傷つけようとしているようには見えなくて。そしてそれは間違っていなかった。今、一緒に多くの時間を過ごすようになって、少しずつ見えてきた剣城の内面は怖くも、冷たくも無かった。

「おれのわがまま、いつも聞いてくれるし、練習にも付き合ってくれるし、落ち込んでたら励ましてくれて。態度は確かにちょっと素っ気ないけど、でも、ちゃんと皆のこと見てて、何か出来ないで困ってたら手伝ってくれるんです」

 ひとつひとつ指折り数えるようにして、懸命に天馬は今までの彼女についてを優一に話した。どうやったら上手に相手に自分の気持ちが伝わるかなんて天馬には解らない。だから、ただ本心からそう思っていることが届けば良いと、そう願いながら天馬は言葉を声にした。

「そうか、良かった」

 懸命に言葉を重ねる天馬の話を最後まで聞いて、優一は安堵した様子で嬉しそうに微笑んだ。伏せられた睫毛が窓から差し込むオレンジ色に濃い影を作り、優一の感情が映し出されているように見えて、天馬はそっとそれを眺める。

「あの子に、君みたいな子がいてくれて良かったよ。ちょっとだけ、不安だったんだ。京子は何もかも一人で抱え込もうとするところがあるから」

 優一の言葉、声、表情、そのどれにも剣城への愛情が溢れていて、同時に二人の背負ったものが窺えて、天馬は切なくなった。ずっと剣城が一人で抱えようとしていたもの、長い間、最愛の兄の前でさえ感情をひた隠しにしてきたのだろう剣城の不器用さと、そんな妹を見ていることしか出来なかった優一の苦しさを察することが出来るから余計に胸が痛む。
 何時だって一人で立って歩こうとする剣城を案じる兄の言葉に天馬もまた彼女を支えることが出来たらと、そう思う。自分のことさえ戸惑ってばかりで、剣城に頼りっ放しの天馬にはまだ難しいことかも知れない。それでも一人じゃないんだと隣で云ってあげることくらいは自分にだって出来るんじゃないかと、いつかそんなときが来たら一番に隣でそう云ってあげたいと、思う。

「でもきっと君がいてくれるなら大丈夫だね。…これからも京子の友達でいてあげてくれるかな」
「はい! あ、でも剣城がおれのこと、友達と思ってるか解らないですけど……」

 夕陽を浴びて少し赤みを帯びた青灰色をじっと見つめて笑いかけてくる優一に天馬は元気よく頷いてみせた。そして、返事をした後にふと思ったことをそのまま唇に乗せる。天馬は剣城のことを大切なチームメイトで友達だと思っているけれど、剣城はどうだろう。今までよりはずっと距離が近くなったと自負しているけれど、正直、ちゃんと友達だと認識してくれているかどうか自信は無い。
 思わず苦笑いをする天馬に優一は柔和な笑みを浮かべた。つり目がちな琥珀色がゆっくりと弧を描く。

「大丈夫。京子はちゃんと、君のこと友達だと思ってるよ」

 優一に云われると、本当にそうのように思えてきて天馬は照れ笑いになった。えへへ、とオレンジ色を映してほんのり赤くなった頬を掻きながら、本当にそうだったらいいのにと願う。天馬が剣城のことを大切な友達で、一緒に高め合って成長して行きたい仲間で、そして困ったときや悲しいとき、苦しんでいるときに助け合えるような存在でありたいと思うように、剣城も天馬のことをそう思っていてくれたら良いのに、と。








<prev/top/next>



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -