◇ innocence 04






「つーるーぎっ!」
「……おまえは普通に挨拶出来ないのか」

 朝練前、サッカー棟の女子更衣室でユニフォームに着替えていた剣城は明るい声と共にドアが開くと同時、背後に感じた気配にひょいと身体を横に動かした。ついさっき剣城がいた場所を勢い余って転びそうになりながら天馬が通り過ぎていく。最近の恒例行事に剣城ははあとあからさまな溜息を吐いた。
 剣城が正式にサッカー部の一員となり、練習に加わるようになってから一週間。天馬はことあるごとに剣城に関わりを持とうとしてきた。天馬の化身覚醒の為の特訓には主に剣城が付き合っている為、部活中はほぼ一緒にいる。だが、それだけでは無く、昼食や移動教室ですれ違ったときなど、天馬は剣城を見かけると声をかけてきた。それが、嫌な訳ではない。鬱陶しいと思うこともあるけれど、剣城自身、天馬に対して抱く感情は以前のように負の感情ばかりでは無いからだ。むしろ、感謝の念は大きいし、天馬の力になりたいという気持ちもある。けれど、気を許しすぎた結果だろうか。三日ほど前から天馬は剣城を見つけたら後ろから抱き着こうとするのである。他人との接触が元々苦手な剣城はこれだけは常に回避を続けていた。
 見事に避けられた天馬は不満気にぷうと軽く頬を膨らませたが、すぐにいつもの笑顔に戻って、スカートのポケットに手を突っ込むと掴んだものを剣城の眼前に見せびらかすように掲げた。

「見てみて、携帯買って貰ったんだ! 本当はもっと早く買う予定だったんだけど、ずれ込んじゃって。ね、番号とアドレス教えてよ」

 ブルーグレイの丸い瞳をきらきらと輝かせる天馬の顔はずっと欲しかったおもちゃを買って貰った幼稚園児のようだ。子どもみたいにはしゃぐ天馬を横目に剣城は脱いだ赤いTシャツをロッカーに仕舞いながら、素っ気ない返事をする。

「何でだよ。俺にはおまえとメールも電話もする用は無い」
「そんなこと云わないでよ。ほら、連絡網的な意味もあるし!」
「監督とキャプテンには教えてる。部活の連絡ならキャプテンから一斉送信かかるだろ。イナッターもあるしな」

 食い下がる天馬に剣城の態度はまったく取り付く島も無い。最近の天馬を見るに、天馬にメールアドレスを教えるということはイコール、天馬の恐らくはくだらない内容のメールに付き合うことと云うことを意味するからだ。ただでさえ、天馬は学校でも「昨日秋姉がプリン作ってくれてさ」だの「夜寝ちゃってて宿題やってない。どうしよう」だの「起きたらサスケがおれのお腹枕に寝てて」だのと剣城からしてみたら、それが何だ?と一刀両断したくなる話をしてくる。元々メールも電話もよっぽどのことが無ければしたくないと思っている剣城にとって、それは明らかに後々の憂鬱の種を増やすことに繋がっていた。
 冷たい剣城の声に天馬はしょぼんと肩を落とし、若草色の携帯電話を両手で握り締めた。一旦視線を足元に落とした天馬はそれでも諦められないらしく、ぐっと顔を上げて、もう一度着替えを続ける剣城を見つめる。

「そうじゃなくておれが剣城とメールしたいんだよ。やっぱりだめ?」

 ユニフォームに袖を通した剣城は縋るような眼差しで訴えてくる天馬にちらりと視線を投げると、小さく溜息を漏らした。どんなに心中では面倒臭いとか鬱陶しいとか思っていても、結局、最終的に剣城が天馬のお願いに逆らえた例は少ない。剣城はユニフォームの襟を立てながら、不承不承と云った声音で許可を出した。天馬の顔がぱあっと明るくなり、軽く身体を跳ねさせて喜ぶ。

「……無意味なメールしてくるなよ」
「うん! ありがと剣城!」

 満面の笑みで礼を云う天馬はさっそく携帯を開いている。剣城はロッカーの中のスポーツバッグから自分の赤い携帯を取り出すと、天馬を振り返った。

「赤外線でいいか」
「赤外線…?」

 剣城の言葉にそれ何だっけ?とでも云いたげな様子で小首を傾げる天馬に剣城はまだあれから5分も経っていないのに既にさっき口にしたことを後悔していた。何だかこれは確実に面倒臭いことになる予感がする。

「あ、ああ、赤外線ね! あの、葵が云ってたやつ。ちょっと待って、えっと、あれって何処だったっけ…?」

 思わず眉を顰める剣城に天馬は空気が悪くなったことを察したのか、慌てて携帯を触り始める。だが、記憶はおぼろげなようで、且つその手つきは非常に危なっかしい。これでは何時まで経ってもアドレス交換など出来ないだろう。剣城はこめかみに走る痛みにそっと目を閉じて、携帯を再びスポーツバッグに仕舞った。

「……とりあえず今は着替えろ。朝練に遅れる。後で教えてやるから」
「解った! 約束だよ!」

 念を押すように約束を取り付けようとする天馬に面倒臭いこと極まりないが、一つ頷いてやる。嬉しそうに携帯をポケットに仕舞い、ユニフォームに着替え始める天馬に朝から何だか異常な疲れを感じながら、剣城は静かにロッカーの扉を閉めた。








 5月も半ばを過ぎた初夏の空は春の霞んだ柔らかい水色よりもずっと青い。日差しも日に日に強くなっているようで、暖かな春の陽だまりというよりはじっとりとブラウスの内側を湿らせる夏の気配だ。頬を撫でる風も爽やかな涼しさを運んできてくれるところは一緒だが、一週間前よりも夏の匂いが濃くなっている気がする。いつの間にか季節が変化していることに天馬は時間の流れを実感しながら、弁当箱を巾着袋に仕舞った。
 葵や信助に事情を話した上で剣城と昼食を共にするようになって一週間。天馬は少しだけ、剣城と仲良くなれたように感じている。「天馬の熱心さに剣城さんが折れたんじゃない?」とは葵の談だが、そうだとしても少しでも剣城との距離が縮まったのなら天馬にとっては嬉しいことだ。彼女と仲良くなりたくて、天馬は一週間なるべく一緒にいれるように努力してきた。その成果が実ったということでもあるのだから。
 何より、一緒に時間を過ごすことでちょっとずつ剣城の今まで知らなかった一面を天馬は見ることが出来た。例えば、毎日一番最初に部室に来ていること。どうやら甘いものが好きらしいこと。見た目に反して性格は真面目で本当はとても努力家なこと。述べようと思えばたくさんあるけれど、何より天馬が感じたのは、表に出す方法が下手なだけで、本来の彼女の気質は優しいということだった。彼女の眉間に皺が寄るのは不機嫌なときや鬱陶しい、面倒くさいと思ったときだけでは無く、その感情をどう受け止めていいのか戸惑ったときもそうなのだと知った。自分の中に化身が眠っているという思いがけない現実に不安を覚える天馬を不器用ながらに励ましてくれた彼女は、それからずっと天馬の練習に自身も疲れるだろうにランスロットを出しながら付き合ってくれている。
 そう、素っ気ないながらも剣城は天馬に優しい。こうして昼休みを一緒に過ごすことも最初こそ嫌そうに眉を顰めたものの、頼み込む天馬を剣城は拒まなかった。思えばずっと、剣城は天馬が真面目に頼み事をしたとき、拒んだことは一度だって無かった。いつだって眉間に皺を作って溜息を吐きながらも、最後にはしょうがないとでも云いたげに頷いてくれるのだ。

「大体、何で説明書のひとつも読んでこないんだ」
「触ってれば解るかなって思ったんだよ。おれ、ゲームとかも説明書読まずにやってみて覚えるタイプだし」
「自分の名前も打ち込めなかったくせに」

 片手で赤い携帯を弄りながらぼやく剣城に天馬は唇を尖らせながら若草色の携帯電話を開いた。まだストラップの一つも付けていない携帯は新品で傷ひとつない。天馬はどのキーを押せばいいのか迷いながら、上下左右にあるキーの下を押した。どうやら操作は間違っていなかったらしく、求めた画面が表示される。そこには幾つかの名前が並んでいた。沖縄にいる両親、現在の保護者である秋、そして今朝会った際に交換した葵と信助。その中に「剣城京子」という名前があるのを見て、天馬の頬が思わず緩む。時間がかかるから後回し、と朝練のときに云われた天馬は昼休みを使っての剣城による簡単な携帯操作の授業を受け、何とか剣城とアドレス交換することに成功していたのだった。

「でも剣城凄いね。おれのと会社も機種も違うのに、操作出来るんだね」
「こんなの何処もそう変わらないだろ」

 メールでも打っているのだろうか、忙しなくキーの上を行き来する剣城の細い指を見ながら、天馬は感心したように云った。実際、天馬には未だにちんぷんかんぷんなところが幾つもある。日本人の好みに合わせて多くの機能を搭載した最新機器は同時に操作も難しくなっていて、何処にどの機能があるのか一度触ったくらいでは覚えられない。そんな天馬に剣城は文字の打ち方から説明してくれ、メール機能やアドレス交換の仕方も教えてくれた。剣城って意外と面倒見良いんだなあ、とまた新たな一面を発見出来た気がして、嬉しくなる。でも思い返せば剣城はまだまだ未熟な天馬の練習に付き合ってくれて、しかもアドバイスまでしてくれていた。ただ、気付いていなかっただけ。剣城と接するとそういうことがたくさんあって、人という生き物はちゃんと相手を見ようとしなければ解らないことだらけなのだと思い知らされる。

「そうだ、剣城、今日も優一さんのところにお見舞い行くんでしょ? ついていってもいい?」
「何でだよ」
「こないだ云ったじゃん。もう一回、きちんと挨拶に行きたいって。ちゃんとお見舞いにクッキー持って来たよ。昨日、秋姉と一緒に焼いたんだ」

 ぱちんと携帯を閉じて、ふと思い出したように天馬はその話題を口にした。剣城もまたメールを打ち終わったようで、携帯をスカートのポケットに仕舞いながら、怪訝そうな表情を浮かべる。不機嫌そうに寄せられた眉にそういう反応が返ってくることを予測していた天馬はかばんの中から綺麗にラッピングされたクッキーを取り出して見せた。

「秋姉のクッキー美味しいから、きっと優一さんも喜んでくれると思うよ」
「……絶対にうるさくするなよ」

 顔色を窺うように覗き込む天馬に剣城は視線を逸らした。そして、水玉模様の透明なフィルムに入ったクッキーをちらりと横目に見、一瞬考え込むように目を伏せて、それから渋々と云った風に頷く。

「うん!」

 瞼の裏で剣城が考えたことがわざわざ休日にクッキーを焼いて持ってきた天馬についてなのか、それとも兄の喜ぶ顔だったのかは解らない。けれど、どちらにせよ、断り切れないのは彼女の優しさなのだと、大きな声で返事をしながら天馬はそんなことを思った。








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