◇ innocence 03






 松風天馬という少女は本当に不思議な少女だ。剣城にとって彼女はまったくもって未知の存在で理解不能だと断言してもいいくらいにその思考回路が一切読めない。まず初めて顔を合わせたときから訳の解らないことばかり云っていた。いやまだその頃は良かったのかも知れない。挙句の果てに天馬はサッカーが泣いているとか悲しんでいるとか、まるでサッカーというスポーツが人であるかのような発言をし始めたのだから。こいつは頭が弱いのだろうかと疑ったことは一度ではない。もっとも、そんな天馬のある意味電波とでも呼べるような発言に救われてしまった自分も十分に頭のおかしい人間の一人なのだろうと剣城は思う。いわゆる、サッカー馬鹿というやつだ。

「剣城っ!」

 屋上でぼんやりと青く澄み渡る五月の空を眺めながら、昼食のメロンパンを齧っていた剣城は突然ばたんと大きな音を立てて開いた錆びた扉に眉を顰めた。次いで聞こえる甲高い声。もう大分耳に馴染んでしまったそれの持ち主はばたばたと慌ただしい足音を立て、剣城の元へ走ってきた。コンクリートに腰を下ろした剣城の上に暗い影がかかる。

「剣城! こんなところにいたんだ。おれ、探したんだよっ」

 見上げると案の定。天馬が大きな丸い瞳をくりくりと輝かせて剣城を見つめていた。階段を全速力で駆け上がってきたのか、少し荒い息を膝に手をついて整えている。肩より少し上で揃えて切られた茶色い髪が吹き抜ける風に乱れた。

「何か用か」

 薄々天馬の目的に気付いていて面倒臭いと内心思いながらも、とりあえず剣城は用件を聞いてみた。すると天馬は手に持った弁当の包みを掲げ、剣城にとっては迷惑でしかない高いテンションで予想通りの誘いをかけてきた。

「一緒にお昼食べよう!」
「何で俺がおまえと一緒に昼飯食わないといけないんだよ……」

 剣城が返事をする間を与えず、満面の笑みを浮かべて隣に座り込み、いそいそと弁当の包みを広げ始める天馬に剣城はゆっくりと空を仰いだ。剣城の小さな溜息交じりの嘆きが雲ひとつ無い青い空に吸い込まれていく。
 ああ、ここも安寧の地では無くなってしまうのだろうか。グラウンドではしゃぐ馬鹿みたいな男子、下らないことでざわめく女子のうるさい高い声、どうでもいい校内放送。全てを遠くに感じるから、この屋上は剣城にとって学校で一番心安らぐ場所だったのに。屋上は基本的に立ち入り禁止になっているが、シードだった剣城は適当な理由をつけて理事長から鍵を借り受け、教師の例外として見咎められることなく、この空間を自由に利用出来ていた。つまり貸し切り状態。なのに、一番面倒なやつに暴かれてしまった。

「剣城、いつもパンなの?」
「別に。気分だ」
「そっかあ。食堂で食べないの? お弁当持ってくるとか」
「しない」

 うきうきと楽しげに話しかけながら天馬は彩豊かな弁当に箸をつけ始める。紙パックのカフェオレを啜りながら、剣城は一気に味がしなくなったメロンパンを齧った。
 剣城の昼食は専ら朝コンビニで買ってきたパンやおにぎり、小さな弁当などだ。食堂は人が多くて鬱陶しい上に出遅れると椅子が埋まってしまうし、購買はこれまた争奪戦が凄まじい。兄の手術費のため、あくせくと朝早い時間から夜遅くまで働いている両親に弁当など云い出せるはずも無く、早起きして自分で作るだけの気力も無く。消去法でコンビニ、という訳だ。
 天馬は剣城の素っ気ない返事に気分を害した様子も無く、唇を動かした。年頃の少女が好きそうな愛らしいクマのキャラクターがプリントされた弁当箱を手にとりとめの無い話が続く。

「おれねー、今日は珍しく早起きできたから、お弁当作るの手伝ったんだ。見てみてこのたまご焼き、おれが作ったんだよ」

 いつもは秋姉が作ってくれるんだけどね、あ、秋姉っていうのはおれが今お世話になってる親戚のお姉さんで……。運んだ弁当のおかずを足早に咀嚼しては再びしゃべり始める天馬の口は休む間も無く忙しない。もう少し落ち着いて食事は出来ないのだろうかと呆れ顔で天馬を横目に見た剣城はそもそも天馬という存在自体が常に動いていないと気が済まない気性であることを思い出した。文句を云うことも無駄な労力のような気がしてくる。静かに黙って天馬の話を聞き流すことに徹することを決めた。そんな矢先。

「剣城も食べる?」
「はあ?」

 目の前にずいと黄色いかたまりを突き出されて、剣城は閉ざしていた口をぽかんと開けた。水色の箸でつまみ上げた黄色いかたまり(恐らくたまご焼きだろう)の向こうで天馬がにこにこと楽しそうに笑っている。

「美味しいよ、ほら」

 正直まともに話を聞いていなかったので、何がどうしてこういう展開になったのか剣城にはさっぱり解らない。解らないが、天馬の青みがかった大きな瞳には何だか妙な力みたいなものがあって、その目にじっと見つめられると剣城は吸い込まれてしまいそうな心地がする。逆らい難い、とでも云おうか。果たしてその力を強制力と呼ぶべきか、引力と呼ぶべきか、はたまた天馬の魅力と呼ぶべきか、未だ剣城は図りかねている。
 ついには唇に押し付ける形で天馬はたまご焼きを勧めてきた。余程自信があるのだろうか。剣城はもう全てが面倒臭くなって、大人しく箸の先からたまご焼きを口に含んだ。ふわり、甘い匂いが漂う。少し焦げたところがあるようだが、見たところの形は悪くなかったし、中学生が作ったものにしては上出来だろう。砂糖の甘さがややしつこいのが、剣城の好みでは無かったが。

「……うまい」
「あ、ありがと」

 何度か噛んでごくんと飲み込むと同時、期待に満ちた目でじっと見つめられ、剣城は仮にも食べ物を(半ば無理やりだが)頂いた礼儀として素直に感想を返した。途端、さっきまでの態度は何処へ消えたのか、天馬は我に帰ったようにはにかんで、控えめに笑ってみせる。嬉しそうに自分もたまご焼きを口にする天馬の顔は剣城が初めて見る表情だった。何だか調子が狂わされたような感覚で、剣城はカフェオレに刺さったストローを吸う。甘ったるいカフェオレがたまご焼きの仄かな甘みを流していく。

「おれ、甘いたまご焼きの方が好きなんだけど、剣城はどっち好き?」
「どっちでもいい」
「じゃ、じゃあさ、剣城はおにぎりの具は何が好き? おれはね、やっぱり鮭かな!」
「特に好き嫌いは無い」
「そういえば、購買のカレーパンってすっごい美味しいんだって。剣城、食べたことある?」
「無い」

 天馬は再び弁当の中身に箸をつけながら、剣城からしてみれば下らない話題を振ってくる。その全てに冷たい返事をしながら、剣城はメロンパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。乾いたパンを噛み締めて、カフェオレで流し込んでから、真っ直ぐに天馬を見つめる。天馬は弁当を食べ終わったのか、弁当箱をお揃いの巾着袋に仕舞っていた。剣城の低い声に一瞬、びくりと肩を震わせ、巾着の紐を蝶々結びにしようとしていた手を止める。

「松風、おまえ、何か俺に用があって来たんじゃないのか」
「……うん」

 剣城の真剣な目に僅かに視線を逸らした天馬は小さく頷いた。巾着袋を脇に置き、コンクリートに両手をついて、天馬は剣城に相談するというよりは独り言でも云うかのようにぽつりぽつりと話し始める。

「おれに、化身が宿ってるって本当なのかなあ」

 天馬の眉がへにゃりと情けなく下がるのに剣城は昨日、河川敷で初めてそのことを告げたときの天馬の顔を思い出した。あのときの天馬は大きな丸い瞳を目一杯見開いて、呆然とした顔で剣城を見ていた。それも当然だろうと思う。恐らく天馬には青天の霹靂のようなものだったはずだ。剣城から見れば天馬は元々あったドリブルのセンスはもちろん、パスの精度やシュートフォームも大分整ってきていると思うのだが、彼女自身はまだ初心者だったころの気分が抜けていないようだから。優れたサッカープレイヤーしか出現させることが出来ないと云われる「化身」が自分に宿っているだなどと天馬は考えたことも無かったのだろう。

「……少なくとも、俺のランスロットは反応した。今朝聞いた通り、キャプテンのマエストロもそうだと云うし、まず間違いは無いだろうな」
「そっかあ。確かに最近、何か凄い力が湧いてくるっていうか…、変な感じはしてたんだけど」

 昨日、天馬に告げたことと同じ話を剣城は今朝の練習のときに雷門イレブンにも話していた。昨日の部活のとき、既にキャプテンであり化身使いでもある神童とはお互いにある程度の認識を共有していたのだが、天馬の自主練に付き合ったことで確信へと変わった出来事を剣城は包み隠さず、メンバーに説明したのだった。剣城の発言に皆は一様に驚いた様子を見せたものの、すぐに納得したように頷いた。最近、天馬が練習のときに今まで以上に活動的だったことは皆知っていたし、それが何らかの力だということは察していたようだ。特に神童はそれが「化身」だということも解っていたらしい。
 レジスタンスからの情報提供で次の海王学園のメンバーが全員シードであり、その中に何人化身使いがいるか解らない状況で新たな化身使いが雷門に誕生することは戦力的な意味で大変喜ばしい。その為、午後からの天馬の練習は化身発現の為の練習に充てることも決まり、その相手は化身使いである剣城と神童が良いだろうと云うことになっていた。

「何か、不思議な感じ」
「自分の中に化身がいることがか?」
「うん。おれ、実はちょっと剣城とかキャプテンとかに憧れてたんだよ。おれもあんな風に化身出せたらきっともっとチームの役に立てるんだろうなって」

 何処か覇気の無い雰囲気で天馬はゆっくりとひとつひとつ自分の心情を吐露していく。落ち着いた声は日頃の弾んだ高いそればかりを聞いている剣城の耳にまるで馴染まない。いつもとは違う天馬の態度に剣城は少し面食らった。
 今まで剣城が見てきた天馬は何時だって諦めることを知らない少女だった。真っ直ぐでどんなに大きな何かが目の前に立ち塞がったとしても怖気づくことが無い。どんなに冷たく突き放しても天馬は負けずに剣城にぶつかってきたし、それは剣城だけではなくサッカーを諦めていた神童たちに対してもそうだった。だから天馬が現状に戸惑っている様子が剣城には新鮮に感じられた。
 こいつでも、こんな風に驚いたり戸惑ったりすることがあるのか。

「だったら、良かったじゃないか」
「そう、なんだけど……何かいざとなったらちょっと、怖い、かも」
「怖い?」
「怖いっていうか…、あんまりにも突然だったから、びっくりしすぎちゃって現実味が無いっていうか」

 天馬が少しずつ語る心の内を間に相槌を打って引き出してやりながら、剣城は隣から彼女の横顔を窺った。落ち込んでいると云う訳では無さそうだが、それでもさっきまでの元気の良さは何処かへ飛んでいってしまったようによくきらきらと輝かせている青い瞳は静かだった。

「剣城はさ、どうやって化身出したの?」

 天馬は膝をぎゅっと抱えるようにして身体を丸め、小首を傾げて剣城を見つめた。いつもより凪いだその目はそれでも剣城からしてみたら、ずっと真っ直ぐな眼差しで剣城の心のもろい部分を抉っていくようだ。そういう意味で剣城は出会ったときから天馬の目が嫌いだった。苦手、と云った方が正しいかも知れない。天馬の目は剣城が長い間逃げ続けてきたものをぐっと目の前に突き出してくる。本当はずっと目を逸らしていたくて、だけど本当はそうではいけないのだと何処かで気付いていることを天馬は剣城に逃げるな、負けるな、諦めるなと訴えてくるのだ。
 どんなに頑なに拒んでも、まるでそよ風みたいに剣城の心の中へするりと入り込んでくる天馬。そんな天馬に救われたことを自覚し、感謝の念を抱いている今も、剣城は彼女に対する苦手意識を何処か拭えないでいた。

「……どうだっただろうな」

 余り思い出したくない、痛いところを突かれて、剣城は目を逸らした。今朝も三国に聞かれたが、結局答えられずに誤魔化したのだ。自分がどうやって、化身を生み出したのかを。それは剣城にとって決して良い記憶とは云えない。兄に今までシードとしてやってきたことを否定され、結果としてフィフスセクターを抜けた今、更に剣城には思い出したくないものになっていた。
 嫌な記憶を振り払うようにふるりと首を振って、剣城は天馬を見た。相変わらず不安げに眉を寄せている天馬を励ますように声をかける。

「だが、出し方は解る。共鳴現象を利用すればいい」
「共鳴現象?」
「ああ。俺が、おまえの中に眠る力を引き出してやる」

 聞いたことの無い単語にクエスチョンマークを浮かべる天馬に剣城はなるべく安心させるように力強い声音で宣言した。数は少ないが化身を引き出したことが無い訳では無いし、化身覚醒の現場には何度も立ち会った経験がある。フィフスセクター、特に剣城が所属していた訓練施設では化身使いを生み出すことが何よりも優先されたからだ。中々存在を公にされず、フィフスセクター内部でも未だ謎多き研究対象である化身について、剣城が知っていることは決して多くは無いが、それでも天馬や神童たち一般プレイヤーよりはずっと化身を身近な存在として感じてきていると剣城は自負していた。
 天馬は剣城の言葉に僅かに目を見開いて、それから一瞬俯いてから顔を上げた。そのときにはもう、天馬の目に不安も戸惑いも見当たらなかった。今日の空のように晴れ渡った瞳にはいつもの天馬の底知れぬ明るさと力強さがある。

「……何か剣城がそう云うなら出せる気がしてきた。ほんとにおれの中に化身がいるなんて半信半疑だったけど、でも頑張ってみる!」
「そうか」
「うん。おれが化身出せたらきっともっとチームの役に立てるし、革命にも近付けるよね。おれ、皆と本当のサッカーをしたい。その為なら頑張れるよ」

 ぐっと拳を握り締めて決意を口にする天馬の顔は剣城の知る試合中の天馬と同じだった。入学式の日、入部テストで、栄都学園戦で、天河原中戦で、折々で天馬が剣城に見せてきた真っ直ぐな目。万能坂戦でどんなに痛めつけられても諦めなかった天馬の前を見据える表情が蘇る。その顔が、ずっと嫌いだった。きっと自己嫌悪の裏返しだったのだろうと今なら思う。どんなことにも諦めずに向き合って逃げないで前を向くこと。それは長い間、剣城には出来なかったことだったから。
 でも今はそれが天馬の好ましいところなのだということも認めることが出来る。そんな天馬だったからこそ、あの日あのとき、剣城の胸に天馬の声は痛いくらいに響いたのだと。

「俺も出来る限り手伝う」

 するりと自然に口から出た言葉に云ったはずの剣城本人が内心一番驚いていた。天馬の化身覚醒はそのままチームの戦力アップにも繋がる。それは確かだ。フィフスセクターを抜け、兄の望みでもある「誰もが一生懸命に打ち込める、本当のサッカー」を取り戻すことを決めた今、革命の成功のために雷門イレブンの一員としてチームの強化を図るのは別におかしなことでは無い。だが、こんなにも簡単に自分が兄以外の誰かの為に何かをしようと思えるということが剣城には驚きだった。それは何とも不思議な心持で、これもまた目の前の少女の影響なのかと思うと、剣城は余計に彼女が得体の知れない何かのように思えてくる。天馬がおかしいのでは無く、自分の心が余りにも容易く変化していることに追いついていけない、その持て余した感情を天馬に押し付けているだけだと解ってはいるけれど。

「ありがと、剣城。何かおれ、何とかなるような気がしてきた。ね、何とかなるよね!」

 剣城の言葉に天馬は嬉しそうに笑って、いつもの口癖を繰り返す。同意を求めるように表情を覗き込まれ、剣城は直視出来ずにそっぽを向いた。手の中の飲み干したカフェオレのパックを手持ち部沙汰に潰しながら、逸らした目線をグラウンドへと向ける。と、ちょうどタイミングよく昼休み終了を告げる五時間目の予鈴が鳴った。天馬は慌てて弁当の包みを手に立ち上がる。

「あっ、やばい。次おれ、移動教室だったんだ!」

 スカートの汚れを払うこともせずに扉の方へと足を踏み出した天馬はふっと何かを思い出したように振り返って剣城を見た。

「剣城! おれ、確かに化身のこと相談したかったのもあるけど、でも、剣城と一緒にお昼ご飯食べたかったのも本当なんだ」

 そこで、青みがかったグレイの瞳が一瞬躊躇うように揺れて、それからひたりと目線を合わされる。ぎゅっと天馬の手が巾着袋を握り締め、空色の生地に皺が寄った。

「だから…、また一緒に食べてもいい?」
「……好きにしろ」

 窺うようにこちらを見つめる天馬の目はやっぱり妙な力を持っているような気がしてならない。剣城はひとつ溜息を落として、逆らえないものに抗うことを諦めた。潰したカフェオレの紙パックをコンビニ袋に突っ込みながら、投げやりに返した答えに天馬の目がひたひたと喜びに満ちていく。

「うん、じゃあ好きにする!」

 弾んだ声でそう宣言した天馬はじゃあまた放課後!と言い残して、早足で屋上を去っていった。ばたんとドアが閉まる音にまるで嵐のようだなと思う。いつの間にか周りを巻き込んで進んでいく台風のようで、そのくせふとした瞬間そっと寄り添うように吹くそよ風のような明るい少女。そんな天馬に剣城は出会ったときからずっと翻弄され続けてきた。これからもきっとその風は止むことは無いのだろう。はあと大きな溜息を吐きながら、何処か満更でもないと思っている自分に剣城は再び眉間に皺を刻んだ。








<prev/top/next>



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -