◇ innocence 02






 何事も練習あるのみだと天馬は思っている。真摯な気持ちで自分の全てを真っ直ぐにぶつければ、解決出来ないことなんて無い。実際にはもっと色んな事情とか持って生まれた才能とか環境とかがあるということも知らない訳では無いけれど、「努力に勝るものは無い」と云った円堂の言葉を天馬は信じたいと思っていた。だから天馬は今日も自主練をしている。

「よし!」

 気合を入れ直して、天馬は普段の自主練メニューのひとつ、ドリブル練習を始めた。天馬の練習メニューは日によって変わることもあるが、これだけは欠かしたことが無い。サッカーが好きで、でも地元の少年サッカークラブには諸事情あって入れず、一緒にサッカーをしてくれる友達も見つからなかった天馬がボールに触りたいという一心で始めたのがこの練習だった。当時はまだサッカーの知識も乏しく、自主練習の仕方なんてまるで解らなかった中での練習法だが、ただ無心にボールを蹴っているだけで楽しかった。そのときの気持ちを思い出すから、天馬は毎日この練習を続けている。
 ひとしきりボールを追い掛け回して深呼吸すると、首筋を伝う汗が気になった。ベンチのスポーツバッグからタオルを取り出し拭いながら、ふと風を感じて土手の方を振り向く。そこにいたのは意外な人物で天馬は丸い目で彼女を見つめた。

「剣城!」

 土手の上の道、ポケットに手を突っ込んで歩いている剣城に天馬は思わず声をかけていた。剣城は天馬の存在に気付くと一瞬眉を顰め、足を止める。天馬はタオルを持ったまま、階段を駆け上がり、剣城の前へ立った。剣城はいつものように改造制服を着込んで、男物の学ランのような上着を風になびかせている。ポケットにあった手は今は身体の横にあった。

「剣城! ……優一さんのお見舞い行ってきたの?」
「ああ」
「元気だった?」
「変わりない」

 天馬が笑顔で話しかけると、剣城は素っ気ない口振りで、だがちゃんと返事をしてくれた。彼女はほぼ日課となっているらしい兄の見舞いの帰りのようだった。彼女の行動原理の根底に植わっている兄は彼女にとって一番大切な人なのだと思う。こうして仲間になる前、彼女と衝突する日々の中で天馬はそれをよく知っていた。
 兄のことを訊ねると、普段は剣呑な光を宿しがちな琥珀色の瞳が少しだけ緩む。兄の前で見せる柔らかい眼差しには程遠いが、それでも突き刺さるようなそれではない。夕陽を浴びてきらめく目がきれいでもっと見ていたくて、天馬はつい調子に乗って話を続けた。

「良かったね。おれも今度ちゃんと挨拶に行きたいな」
「何でだよ」
「良いじゃん、ちゃんとお見舞いのお菓子持って行くからさ。秋姉のクッキー、美味しいんだよ」
「はあ」

 訴える天馬に剣城は意味が解らないとでも云いたげに眉を跳ね上げたが、最終的に溜息ひとつ落とすだけで否とは云わなかった。ささやかな仕草から、剣城が入学初日にぶつかったときのように天馬を嫌ってはいないことが解る。それが嬉しくて、天馬はきゅっと手の中のタオルを握った。何だか胸がどきどきして、ふわふわして、このままずっと剣城と話していたいと思った。そんな気持ちがそのまま唇から溢れる。

「ねえ、剣城。これから時間ある?」








「自主練に付き合ってよ」

 天馬がそう誘うと、剣城は最初は嫌そうに目を細めたが、何かに思い当たったように一瞬真剣な顔をした後、頷いてくれた。今日の練習のときといい、剣城の意味深な表情に天馬は違和感を覚えない訳では無かったけれど、それよりも剣城が自分の練習に付き合ってくれるという一点に置いて舞い上がってしまっていて、そのことを追究することは無かった。
 練習メニューは部活のときと同じ。ボールを持ってドリブルやフェイントで天馬を抜こうとする剣城を天馬は阻止しようと必死で食らいついていく。
 短いスカートを翻して、剣城はボールを蹴る。元から練習するつもりだった天馬はユニフォームだが、練習する気の無かっただろう剣城は制服姿のままだ。もっとも、雷門に来た当初、黒の騎士団のキャプテンとして雷門と試合をしたときの彼女は今の改造制服のスカートで試合をしていたから、彼女にとって気に留めることでは無いのだろう。スカートの下に黒のレギンスを履いているから、それで大丈夫だと思っているのかも知れない。
 剣城の巧みなボール捌きに翻弄され、相変わらずボールを奪えないまま、時間が過ぎた。天馬が荒い息を整えようと深呼吸をすると、剣城はボールをポンと蹴り上げて両手で受け止めるとベンチに足を向けた。

「休憩にするか」
「うん」

 あれだけ練習したのに剣城は息も乱れていない。ベンチに腰掛ける剣城の横に一人分の距離を空けて、天馬は座った。何となく、今はこのくらいの距離がちょうど良いような気がした。剣城はちらと天馬を見て、すぐに視線を逸らす。天馬はタオルを頬に押し当てながら、ふと思い出したことをそのまま口にした。

「あの風、結局何だったんだろうね」

 街灯がぽつぽつと灯り始めた、たそがれどきの暮れなずむ景色を眺めながら、天馬は今日の部活の時間を思い返した。
 結局、あの後も剣城と練習を続けたが、あの風にもう一度出会うことは出来なかった。ディフェンスの練習としては充実していたと思う。サッカーは必ずしも必殺技が全てでは無くて、細かいテクニックや相手を見切る判断力だってプレイヤーには重要だ。天馬よりも多くの経験を積んでいるであろう剣城との練習は天馬の経験値を確実にひとつ上げた。それはもちろん、今の時間も同じ。
 だが、やっぱり気になるものは気になる。天馬はうーんと唸りながら、空を見上げた。もうほとんど沈んでしまった夕陽が地平線を微かにオレンジ色に染めている。何も答えてくれない剣城を横目にうかがうと、剣城は難しい顔をしてじっと前を見ていた。街灯の白い光に照らされた横顔が綺麗だ。

「剣城には何か心当たりあるの?」
「さあな、まだ俺にもはっきりとは解らない」

 小首を傾げて問いかける天馬に剣城はあくまでも詳しくは語らないつもりのようだった。よく葵に鈍い鈍いと云われる天馬だってさすがに剣城が何かに勘付いていて隠していることくらい解っていたけれど、剣城が解らないと云うのなら、これ以上追究しても違う答えは得られないのだろう。
 天馬は諦めて、黙って頭上の空を仰いだ。もう夜と呼んでも正しいだろう空は藍色になっていて、ちらほらと星が瞬いている。一際強く輝く一等星、少しくすんだ白い星、青い光を放つ小さな星。都会の空は幼い頃沖縄の海辺で見た星空のように今にも降ってきそうな、手を伸ばせば掴めるような、そんな距離には無い。それでも、たくさんの星が精一杯煌いている。そんな空を眺めていると、いつかの秋の声が天馬の耳を撫でた。同時にあの頃の、胸いっぱいのもどかしさが蘇ってくる。

「おれ、剣城とサッカー出来て良かった」
「は?」

 するりと唇から零れた本音に剣城が訝しげな目でこちらを見ているのが解った。なのに、言葉は止まらない。
 あのとき感じた咽喉を塞ぐような気持ちが、今はこんなにも優しいのは彼女が今隣にいてくれるからなのだと思えた。たくさん悩んだし、苦しいことだってあったけれど、あの日々も今に至るためにきっと必要なことだった。その象徴の一つが天馬にとっては剣城だ。あれだけぶつかり合って、天馬は剣城のことがずっと解らなかった。だけど、今はこうして天馬の隣で一緒にサッカーをしてくれる。

「ずっとやりたかったんだ、おれ。剣城と本当のサッカー」

 あの日、天馬は初めて剣城の無防備な部分に触れた気がした。万能坂中戦の前日、この河川敷で天馬は剣城の溢れ出る激情を見た。
 天馬はただ自分が感じたこと、見たことを云っただけだ。天馬の目に映る剣城は口で云うようにサッカーを憎んでいるようには見えなかった。強くあるために一番必要なのは努力で、好きでなければ本当の意味で努力することは出来ないと天馬は思っている。だから、剣城だってあんなにサッカーが上手いのだから、本当はサッカーが大好きなんだろうと天馬はずっと思っていた。だからこそ、天馬は剣城とずっと、本当のサッカーがしたかった。
 けれど、天馬の言葉に剣城は明らかな動揺を示した。天馬の言葉に琥珀色の瞳をゆらゆらと揺らして、唇を噛み締めた彼女はおさない子どものようで。目の前にいる少女は天馬よりもずっと大人っぽくて強い人だったはずなのに、まるで部屋の隅で膝を抱えて泣いているように天馬には見えた。自分を守ることに精一杯な傷ついた子ども。そんな彼女を見たのは初めてで、胸にちくりと何かが刺さった感覚がした。
 同時に天馬を拒絶し否定するように剣城からぶつけられた言葉はあのとき天馬が陥っていた状況と相まって、天馬の胸をぐらぐらと揺さぶった。自分がこうしたいと望み動いたことで、誰かが傷ついていく。天馬はただ本気でサッカーをしたいだけだった。でもそれが、誰かのサッカーを奪う結果を生む。ずっと本当のサッカーをすることが正しいと信じていたのに、それを真っ向から否定する出来事ばかりが続いていく。南沢の退部、倉間の叫び、そして切り裂くような剣城の声。自分は間違っているのだろうか。そんな思いが過ぎったあの日の気持ちは今もはっきりとは言い表せない。
 でも、諦めなくて良かったと心の底から思う。本当のサッカーを諦めなかったから、今こうして雷門の皆と、剣城と一緒にサッカーが出来る。革命という風に向かって、並んで走ってくれる仲間を天馬は得ることが出来たのだ。

「ねえ剣城、これからは一緒に戦ってくれるんだよね。…一緒に、本気のサッカーやってくれるんだよね」
「……ああ」

 確かめるように天馬は唇を震わせた。何処か懸命さの滲む声に剣城は目を僅かに見開いて、一度視線を手元に落とす。そして何かを振り切るように顔を上げると、しっかりと頷いて見せた。剣城の低いこもった声が耳に響いて、天馬の胸はじんと熱くなる。つい二日ほど前、帝国学園戦を思い出す。あのときの高揚に、少し似ている気がした。込み上げてくる何かに背中を押されるようにして、天馬は背の高い剣城の顔を覗き込む。

「剣城、指切りしよう!」
「はあ?」
「おれ、剣城とこれからもっともっと一緒にサッカーしたい。だから、約束してよ! これからもおれと一緒に本気のサッカーしてくれるって」

 さっきとは打って変わった弾んだ声で提案する天馬に剣城は素っ頓狂な声を出し、僅かに眉間に皺を寄せた。それでもめげずに天馬は言葉を重ねる。自分でもどうしてこんなにも必死なのか解らないけれど、何となく直感ではっきりとした言葉としての「約束」が欲しいと思った。それは剣城と一緒にサッカーをしたいという天馬の気持ちが昂ぶった結果であったかも知れないし、天馬の言葉に頷いた剣城が一瞬俯いたときの表情が何処か危うく見えたからかも知れなかった。あるいは、そのどちらもだったのだろう。
 天馬が剣城の前へ小指を差し出すと、剣城は呆れたような目で天馬を一瞥し、溜息を吐きながら自分の小指を天馬の方へ向けた。日に焼けた肌に桜色の爪。まだ子どもっぽい天馬の丸い指先に剣城の白く細い指が絡む。ゆーびきりげんまん。天馬の明るく歌う声が誰もいない暗くなった河川敷に響いた。

「ゆーびきった!」

 にこにこと嬉しそうに笑ってぶんぶん振っていた小指を勢いよく離した天馬は湧き上がる気持ちを抑えられず立ち上がった。何だか胸がどきどきして仕方が無くて、心が躍る。身体中から力が湧き出てくるような感覚がした。足元のボールを拾い上げ、剣城を振り返ると剣城は携帯で時間を確認して、真面目な顔で天馬を見る。

「剣城! 練習しよ!」
「まだやるのか? もう時間遅いぞ」
「う、じゃ、じゃあ一回だけ! 一回だけでいいから!」

 ボールを抱きしめたまま、頼み込むようにして云うと剣城は渋々と云った様子でベンチから腰を浮かせた。河川敷のグラウンドでお互いに一定の距離を保って対峙する。持っていたボールを剣城にぽんとパスすると、剣城はそれを上手に受け止め、軽やかなリフティングを披露してみせた。それから、さっきと同じようにディフェンスの練習に入っていく。
 さっきよりも早く動けるような気がして、天馬は全力で剣城に食らいついた。ひょいとボールを巧みに操り、自分の身体でセーブしようとする剣城を負けじと追いかける。そしてついに天馬はチャンスを見出した。今なら奪えるかも! ぐっと足を踏み込んだ瞬間。覚えのある感覚に天馬は目を見開いた。同時に天馬の周りに強い風が巻き起こり、渦を作っていく。天馬の身体の内からゆらゆらと立ち上る力が風となって勢力を増していくようだった。部活の時間よりももっと強く、激しい風。

「……今の」

 しばらくして風が止んだ後のグラウンドには神妙な顔の剣城と脱力して地面にがくりと膝をつく天馬がいた。天馬は数秒、何が起こったのかが解らずに呆然としていたが、ようやく状況を把握して我に返った途端、身体が一気に訴えてきた疲労感に眉を顰めた。へなへなと全身から力が抜けていくようで、膝どころかいつの間にか尻までついてしまい、立つこともままならない。とりあえず落ち着こうと深呼吸を繰り返していると、天馬の前で顎に手を当て考え込んでいた剣城が薄い唇を微かに開いた。ぽつり、落とされる低い声。小さいそれを天馬は聞き逃さなかった。

「やっぱり、そうか」
「ねえ剣城、やっぱりって、何。何か知ってるの?」

 立ったままの剣城を下から見上げるようにして覗き込む天馬に剣城は無言で視線を逸らした。どう答えようか悩んでいる、そんな間合いだった。剣城は口を噤んだまま、天馬の傍まで歩み寄り尻餅をついて立ち上がれないでいる天馬に手を差し伸べる。掴んだ剣城の白くてきれいな手は天馬よりも少し体温が低かった。剣城に引っ張られ、力の入らない足を叱咤しながら立ち上がる。ふらふらと一瞬足元が覚束なかったが、何とかバランスを保つことが出来た。
 手を離すと剣城は天馬を真っ直ぐに見た。琥珀色の瞳がまるで標的を射抜くみたいに強い光を宿していて、何だか深刻な雰囲気に天馬は何を云われるのかと身体を強張らせる。そして、剣城の口から告げられた思いもよらない衝撃的な発言に天馬は目を見開いて驚くしかなかった。

「松風、おまえには化身が宿っているかも知れない」

 だって、まさか。そんなこと、誰も予想出来るはずないじゃないか。








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