◇ ブルーバード  04






 おいしいごはん、やさしいひとみ、あったかいてのひら。あまずっぱいにおい、ふかふかのおふとん、やわらかいこえ。
 ぜんぶぜんぶ、ぼくのしあわせのかたち。






 目が覚めたら、泣いていた。
 眦を伝う涙がこめかみを伝って流れ、髪を湿らせていく。どれだけ泣いていたんだろう。枕には濡れた跡があって、カバーに大きな染みを作っている。次から次へ溢れ出してくる涙は留まるところを知らず、視界はじんわりと滲んだまま、輪郭を取り戻す気配は無い。世界がまるで、雨が降った日のガラスの向こう側のように見えた。
 目頭が熱くて、それと同じくらいに胸が熱かった。心のグラス一杯に熱湯を注がれたみたいだ。一応耐熱性ではあるけれど、薄っぺらなガラスで仕切られた僕の心は急速に熱くなったそれを持て余して、少しでも外へ出そうと一生懸命、涙に変換している。そうして繰り返し繰り返し溢れ出す涙は僕の心の安定を取り戻していくんだろう。昔から、何時だってそうだった。
 僕は幼い頃から大概泣き虫だった。ううん、違うかな。普段はそんなに泣かないのだけど、色んなことを我慢して我慢して、小さなきっかけを機に、最後には堰を切ったように泣き出す子どもだった。アツヤは頻繁に泣く代わりに、気が済んだらすぐに泣き止んで次のことを始めてしまう子だったけど、僕はもう、一度泣き出したら治まらなくて、放っておかれたら丸一日でも泣いていた。
 きっかけなんてほとんどどうでも良くて、それまでずっと僕の中で吐き出せずに積み重なった小さな我慢やわがままや感情が、もう駄目だと抑えきれないと、僕に全て吐き出すように云うのだろう。だから僕が泣き出すと、大体いつも、お母さんとお父さんが僕を懸命に宥めてくれて、そうしたら泣き疲れて眠ってしまうのが常だった。
 だからきっと今回も、積み重なった感情がもうこれ以上は無理だよって警戒信号を鳴らした結果なんだと思った。それが何なのかは、まだ僕には解らないけれど。
 涙を止めることを諦めた僕はさすがにこのままだと不味いかなと思い、手の甲で涙を拭って、辺りを見回した。すぐに涙で潤んでしまう視界。でも何とか枕元にタオルとスポーツドリンクのボトルが置かれているのが見えた。きっと風丸くんが用意してくれたんだ。いつの間にか寝ちゃったけど、僕の望み通り、飲み物もある。
 少し身体を起こして、手探りでタオルを掴む。ふわふわのそれを目元に押し当てながら、ふと改めて今の自分の状況を思い出した。ああ僕は風邪を引いたんだった。今、こんな風に情緒不安定なのはきっと熱があるからなんだろうな。涙は、止まらない。 


 ぎゅっと目を瞑ったら、瞼の裏に昨日の星空が浮かんだ。この島で見上げる星は今までよりずっとずっと近く見える。掴めるんじゃないか、そんな錯覚をしてしまうほど。同じように南の島である沖縄でも空は見上げたけれど、あの時はとても遠かったのに。
 だから、この距離は、僕とアツヤの心の距離なんだろうと思った。ようやく僕がアツヤの存在を受け入れられたから、こんなにも傍にあるんだろうって。アツヤの死も、アツヤがずっと僕の傍にいてくれたんだってことも。全部、全部。拒んでいた全てを僕は認めることが出来たから。
 思えば、あの日々も泣いていた。事故の後はずっとそれこそ涙が枯れるまで、泣き続けていた。お父さんもお母さんもいないから、僕を宥められる人はいなくて、僕は布団に包まったまま、泣いて暮らした。もう二度と、お母さんの腕の中で泣くことも、お父さんの大きな手で宥められることも、アツヤが困った顔で僕を見ることも無いんだと、そんなことばかりを嫌というほど思い知りながら、それでも泣いた。
 泣いて泣いて、とうとう涙が出なくなった。そうして、僕は自分の弱さを噛み締めた。自分だけでは何も出来なくて、ただ失った事実を認められずに拒み続けて。
 アツヤみたいに強くなりたかった。アツヤは何時だって僕の憧れだった。明るくて格好良くて、僕なんかよりずっと強かった。それをやっかんだこともあったけど、やっぱり僕はアツヤが大好きで。周りの人がアツヤがいなくなったことを前提に話すのが嫌で、でもだんだんアツヤの話をしなくなっていく周りが恨めしかった。そうして、泣けなくなって作り笑顔ばかり上手になったころ。
 頭の中で、アツヤの声がした。
 だけど、強くなりたいと求めたアツヤは僕よりもずっと「完璧」だった。本当はずっと、僕は怖かったのかも知れない。アツヤが試合で活躍する度、チームメイトがアツヤの名前を呼ぶ度に僕がいなくなってしまうような気がして。だって僕は最初から知っていた。ジュニアチームでも白恋でも。皆が求めているのが「アツヤ」だってこと。
 一人になりたくなくて、何よりもアツヤを必要としているのは僕自身なのに、アツヤのことを忘れて日常を取り戻していく皆に怒りさえ覚えたのに、自分に「アツヤ」を求められるとどうしようもなく不安になってしまうだなんて。まったくもって、愚かとしか云いようが無い。
 二律背反。僕はいつだってそんな二つの想いを抱え込んで、ギリギリのところでその両方のバランスを取りながら、アツヤとの関係を維持していた。
 でもそれもエイリア学園と戦う中でバランスを崩して、天秤はがしゃんと倒れてしまった。アツヤを大切に思うのと同じだけ、雷門の皆のことを大切だと思うようになっていた僕の天秤は、比重が傾いて、アツヤの存在を認めて欲しい気持ちと自分を必要とされたいと思う気持ちが平衡を保たなくなった。アツヤを失くしてまた一人になるのが怖いのに、皆に必要とされるのは自分でありたいなんてわがままにも程がある。
 けれど、そんな僕の背に皆はずっと声をかけ続けてくれた。アツヤも、僕は一人じゃないんだって、ずっと一緒にいてくれるって云ってくれた。振り向いたら、あんなにいがみ合って悩んでいたのが嘘みたいに、二つの感情は僕の心にすとんと収まった。天秤はまた平衡になった。右には大切なアツヤとの時間を、左には皆と作っていくこれからを置いて。
 けれど、その天秤も時にはふとしたきっかけで、傾いてしまうことがあって。

「ないものねだりの堂々巡りだね」

 昨日の夜、ヒロトくんが云った言葉が脳裏に蘇る。流星群が駆け抜ける夜空を見上げながら、ぽつりぽつりと話した僕にヒロトくんは切なげに微笑んだ。
 その通りだと思った。どうやったって手に入らないものに手を伸ばして、無理だと思い知っても尚、また懲りずに手を伸ばす。どんなに夜空が近くても、流星を掴めるはずも無いのに。
 結局僕はわがままなのだ。アツヤを忘れて欲しくなくて自分の中にアツヤを作り出したのに、今度は自分が忘れられるのでは無いかと怖くなった。それは今も同じなのかも知れない。僕の今まではずっと、天秤に載せられた二つの感情をどう平衡にするかの繰り返しだった。どんなに天秤が新しくなっても、分銅の中身が変わっても、僕はいつだって不安定なまま。


 そこで、ようやく思い出した。どうして自分が泣いてるのか。夢を、見たんだ。幼い日の自分と、アツヤと、あったかい家族の夢を。


 僕が風邪を引いたら、お母さんは特製のおじやを作ってくれた。アツヤはいつもより優しくなって、僕にお気に入りのおもちゃを貸してくれた。お父さんは夕方には帰ってきて、特別に僕の好きなゼリーを買ってくれた。あの日の家の匂い、僕の額に触れるお母さんのあったかい手、アツヤの心配そうな声、僕を見るお父さんの優しい瞳。
 目に映る全てがあたたかくて、やさしくて。だから僕は泣いてしまったんだ。感情を積み重ねた天秤は傾いだきり、戻らない。だから、涙は止まらない。


「吹雪くん?」

 ふいに名前を呼ばれて、目を開けた。涙でぼやけた視界に真っ赤な髪。ヒロトくんだ。

「……泣いてるの?」

 心配そうな声に大丈夫だよ、と返そうと思って、声が出ないことに気付いた。咽喉が渇きすぎて、擦れた声しか出ない。とりあえず涙で霞んだ目をどうにかしようと手に持ったタオルで目元を拭う。
 すると、丁度良いタイミングでヒロトくんがスポーツドリンクのボトルを差し出してくれた。それに口を付けて、咽喉を潤して。ようやく、声が出た。

「……ありがと」

 お礼を云ってボトルを返すと、ヒロトくんは微笑みながら受け取ってくれた。そして、ボトルをベッドの脇へ戻して、僕を見つめてから、少し躊躇いがちに口を開いた。

「どうして、泣いてたのか訊いても良いかな、」

 ヒロトくんは優しいなあと思った。僅かに逸らされた視線も、窺うような言葉も、全部僕の為に用意してくれた逃げ道だ。話したくないなら、ここで口を噤んでいればきっと、ヒロトくんは全てを察して笑って誤魔化してくれるだろう。ごめんね、って眉を下げながら謝るんだ。
 僕は迷った。ぼんやりと考えていたこと、泣いていた理由、どれも積極的には話したくないことだった。そもそも僕は自分のことを話すのがあんまり得意じゃない。触れたくないものに、触れなければいけないから。
 だけど僕は、結局ヒロトくんに話すことを選んだ。それはヒロトくんの眉が少しずつ八の字を描いていくのが見たくなかったからでもあるし、もう昨日の夜、散々に二人で語り合ったからでもあった。ヒロトくんは僕に話してくれた。そのヒロトくんが知りたいなら、僕は話そうと思った。
 僕はさっきまで考えていたことを、未だぽろぽろと零れる涙みたいに吐き出した。そんな僕の話をヒロトくんは小さく相槌を打ちながら聞いてくれた。

「そっか……」

 僕が話を終えた時、ヒロトくんは真顔だった。何かを考え込むように、眉を寄せている。どうしてだろうと不思議がる僕に一拍置いて、ヒロトくんは小さく笑いながら、話し始めた。

「オレも、昔の夢を見たよ」

 それは、手の届かない夢のような、掴めない流れ星のような話だった。もう戻れない過去を懐かしむという行為はすべからくそんなものなのだろう。
 ヒロトくんの口から飛び出る人々の様子は僕には思いもよらないことばかりだ。一番身近でよく知る瞳子監督でさえ、ヒロトくんの口から語られる監督の姿は僕の知るものとは違っていた。敵として戦っただけのバーンやガゼルなら尚更。

「姉さんってさ、料理本当に駄目なんだよ」
「そうなの?」
「うん。カレーは水の量間違えるし、みそ汁は出汁入れないし。その時のおかゆだってね、どろどろで塩辛くってさ」

 ヒロトくんの記憶の中の人々は皆、活き活きしている。そのことを話すヒロトくんの顔も明るい。それだけでヒロトくんの目を通して見た世界がどれだけ色鮮やかで眩しかったのかが解る気がした。そのあったかくてやさしい空間はきっとヒロトくんの胸に今も生き続けているんだろう。

「楽しそうだね」
「うん、楽しかったよ。……あの時は気付かなかったけど、きっと、とても幸せだった」

 羨ましくなるくらい、ヒロトくんが楽しそうに話すものだから、思わず零した僕の感想にヒロトくんはそれまで輝かせていたグリーンの瞳をふっと伏せて、ゆっくりと唇を動かした。ヒロトくんの言葉は水が大地に吸い込まれるように僕の胸に染み込んでいく。
 近くにありすぎると、どうして幸せは解らないのだろう。当たり前に傍にあるものが幸せを形作っているのだとどうして人は、失くすまで気付けないのだろう。後から思い起こして、あれは幸せだったんだと、ようやく思い知る。でもその時にはもう、幸せにはどんなに手を伸ばしても届かないのだ。まるで、流れ星みたいに。
 俯いて、閉じた瞼の裏に夢見たあの日を描いた。涙はいつの間にか止まっていて、なのに胸の奥はまだじんわりと熱を持っている。あれは僕にとっての幸せだった。はっきりと輪郭を持って、そこにあるもう失ってしまった幸せ。あんなに鮮明に思い出せるのに、もう手に入らないもの。

「それで、思ったんだ。今が幸せだから、思い出すんだって」

 パッと顔を上げた先で、ヒロトくんは笑っていた。陽だまりみたいな、笑顔だった。優しかった日々を思い返す時と同じくらい、ううん、それ以上に。ヒロトくんの笑みは「幸せ」に満ちていた。
 そうして、やっと気付いた。僕の傾いた天秤はいたずらに過去の分銅ばかり積み重ねていた訳じゃない。最近アツヤのことばかり考えてしまうのも、あんな夢を見たのも、全部反動だったのだと。
 今が、余りにも幸せすぎるから。偏った天秤が平衡を保とうとして、少しばかり分銅を置きすぎただけなのだ。

「……そっか、そうだったんだね」

 ずっとずっと、過去を思い出にするのが怖かった。思い出にしてしまったら、もうあの日々は蘇らないのだと突きつけられるようで。きっと僕が本当に怖かったのは、一人になることじゃなくて、あの日々を、アツヤのことを思い出にして、色褪せた過去として心の隅へ追いやってしまうことだった。
 だからアツヤを作った。アツヤはここにいる、過去じゃない。そう思い込もうとした。どうやったって、あの日々は帰ってこないのに。
 アツヤはいなくなったんじゃなくて、ちゃんと僕の中に生きているんだと肯定出来た後でも、きっと僕は無意識の内に恐れていたんだろう。思い出は色褪せてしまうと、知っていたから。
 止まらなかった涙も、胸が詰まるような熱も、あの優しい夢も、全部無意識の内に僕の心が出したサインで。今を大切だと思えば思うほど、幸せだったあの日々を忘れたくないと思う。今が色鮮やかであればあるだけ、少しずつ色褪せていく過去を必死になって繋ぎとめようとする。そんな僕のどうしようもない二つの感情のバランスを取るために心が取った防衛反応。

「ねえ、ヒロトくん」

 グラスの中に収まり切らない感情は、いつもみたいに涙にはならなかった。代わりに、言葉になって溢れる。

「僕、怖いんだ。今が幸せすぎて、大事なことを忘れちゃいそうで。……アツヤの居場所が、なくなっちゃいそうで」

 僕の胸は決して大きくは無いから、今の幸せを詰め込んでしまったら、アツヤの居場所が無くなってしまう。だって実際そうだった。アツヤがいなくなってから、最初の内はもしここにアツヤがいたらって思わない日は無くて、アツヤの声や笑顔をいつも思い出していた。なのに、今はもう何日かに一回、思い出すくらいだ。
 そんな風にきっと、いつの間にか色褪せて、少しずつ忘れていって、そして最後には思い出せなくなるのだろう。アツヤの存在は忘れなくても、声や表情やどんな風に笑って怒るのか解らなくなっていって、あのあったかくてやさしい日々も形だけが残って、中身は色褪せて忘れてしまう。それが、怖くてたまらない。

「大丈夫だよ。人の記憶はね、忘れるんじゃないんだよ。ただ、思い出せなくなるだけ。許容量なんて無いんだ」

 知らず知らず下を向いてしまった僕にヒロトくんの柔らかい声が降り注ぐ。

「それにね、……例え忘れても、必ず思い出せるよ。オレは、思い出せたから」

 上目遣いに見上げたヒロトくんの顔はふわりと微笑んでいる。それが余りにも優しかったから、僕はぼうっと見蕩れてしまった。

「どんな記憶も、例え失くしてしまったと思っても、必ず自分の中に残ってる。そうやって積み重なった思い出がオレたちを作ってるんだから。オレたちは全部抱えて生きていくんだよ」

 ヒロトくんの言葉はどうして、こんなにも僕の心に容易く入り込むのだろう。無理だって云うことは簡単なのに、それを口にさせないだけの説得力を持って響く柔らかい声。何の根拠も無いはずなのに確かにそうなのだと信じられる。
 大丈夫だよって力強く僕の背中を押してくれる笑顔。

「今と思い出、どちらかを選ぶ必要なんて無いんだよ。大切なものはひとつしか持てないって、決まってる訳じゃないでしょ?」

 小首を傾げて笑うヒロトくんに僕も自然と笑みが浮かんでいて、何だか凄くほっとした気持ちで頷いた。
 そうだね、そうだよね。どんな出来事も全部、僕の中にちゃんと息づいていて、僕が呼吸をしている間はずっと僕の中に在り続ける。忘れない。これから訪れる未来も、大切な思い出も。全部抱えて生きていく。アツヤのことも、今の幸せもどちらかを選ぶ必要なんて無い。僕にとって大切なもの全部、両腕一杯に抱きしめて生きていく。だって僕は、わがままなんだ。
 それでももし天秤が傾いたら。こうして思い出せば良い。物の輪郭をなぞるように確かめれば良い。何よりも不安定になったその時に、こうして笑いかけてくれる人がいる限り、きっと僕は何度でも気付いていける。本当に、大切なことに。

「ありがとう、ヒロトくん」

 微笑んでお礼を云えば、ヒロトくんが僕の目を見て笑ってくれる。それはまるで、夢見たあの日のようで。涙が出そうになるくらいにあったかくて、やさしくて。胸を満たしていく、言葉に出来ない気持ち。
 これもきっと、幸せの形で。
 幸せなのだと思えば思うほど、失う時を想像しては怖くなるけれど。でもきっとそれも、僕の大切な記憶になる。ヒロトくんの笑顔もこうして迷ったこともきっと、僕の力になる。そう、思えた。






 ぶっきらぼうなことば、さわがしいまいにち、くやしなみだ。はしゃいだこえ、みまもってくれるまなざし、あかるいえがお。
 これもきっと、ぼくのしあわせのかたち。








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