◇ ブルーバード  03






 まどろみの中で、懐かしい声を聞いた。耳に馴染んだそれは、少し硬質な響きで、人にとっては冷たく聞こえるかも知れない。
 だけど、オレは知っている。その声が本当はとても優しくて、抑揚の少ないその中に誰よりもたくさんの感情を秘めていること。そして、その声がとてもあたたかいことを―――。






「ヒロト?」
「ねえ、さん……?」

 ぼんやりと目を開けると、視界一杯に姉さんの顔が見えた。青灰色の瞳が心配そうに揺れて、長い睫毛が震える。桜色の唇がゆっくりとオレの名前を呼ぶのに、オレは答えるように口を開いた。
 渇いた舌は思うように動かず、痛む咽喉から絞り出すように出した声は擦れて、聞き取り難い。それに、何処か自分の声では無いような気がした。
 それでも、姉さんはオレの言葉に嬉しそうに微笑んで、オレの汗で湿った髪をいとおしそうに撫でた。優しい手付きに何故だか胸に色んなものが込み上げてきて泣きそうになる。

「まったく、ヒロトは平気そうな顔してすぐ無理するんだから。心配したわ。急に倒れたって聞いて慌てて帰ってきたのよ」
「ごめん、なさい……」
「謝るなら、玲名にしなさい。目の前で倒れられたものだから、玲名、泣きそうな顔してたわ」

 額に触れる指先が冷たくて心地好い。困ったように微笑みながら小言を呟く姉さんに精一杯の声で謝ったら、下がったままの眉が更に八の字を描いて、唇に浮かんだ苦笑が深まった。
 姉さんが云うには、オレは玲名の目の前で倒れてしまったらしい。でもおかしいな、オレが風邪で倒れたくらいで玲名が泣きそうになるなんて。あの気が強くて、オレよりもしっかりした玲名が。
 ぼんやりした頭で浮かんだ疑問を咀嚼していると、姉さんはそんなオレの様子をどう取ったのか、身体を少し倒して、布団に手を付きながら、オレの額に自分の額を押し当てるようにして、オレの顔を覗き込んだ。

「ねえヒロト。あんまり頑張らなくて良いのよ。無理して、「良い子」にならなくたって良いの」

 オレの髪を撫でる姉さんの手のひらは相変わらず優しいまま。降ってくる声も、注がれる眼差しも、全部全部。
 そうだ、姉さんは何時だって優しかった。その優しさが必ずしも自分だけに与えられるものでは無くて、オレの後ろに誰かを重ねているんだと解った後も、それでも全て自分だけに降り注ぐものだと信じてしまいたくなるくらいには、姉さんはオレに優しかった。
 いいや違う、姉さんはずっと、オレだけに優しかったんだ。それが全部じゃなくても、姉さんの目に映っているのは、確かにオレだった。あの日も、今も。
 そこでふいに、解ってしまった。さっきからずっと感じていた違和感。これは、記憶だ。思い出だ。まだ小さかったあの日、お日さま園でオレはこんな風に風邪を引いて倒れて、姉さんに看病して貰っていた。姉さんは大学の授業が終わってすぐに駆けつけてくれて、隣でオレの髪をずっと撫でてくれていた。そう、こんな風に。

「そんなことしなくても、皆ヒロトのこと嫌ったりしないわ」
「でも、めいわく……」

 唇から零れた弱音は心があの頃に戻ってしまっているからなのだろうか。
 あの頃は、ずっと不安だった。父さんの目も、姉さんの目も、怖くて堪らなくて。オレを見る眼差しが温かければ温かいほど、その裏にあるものをどうしても窺わずにはいられない。サッカーをしているオレを見る父さんが表情はとても優しく笑っているのに、その目は切なげに揺れているのが、どうしようもなく、苦しかった。
 何も知らない時は父さんが喜ぶからしていたサッカーは、「ヒロト」という名前の意味を知ってからは、「ヒロト」になる為の手段になった。何時だって、背筋を伸ばして頑張っていなければいけなかった。迷惑をかけちゃいけない、わがままを云っちゃいけない、オレは「良い子」でいなくちゃ。そうしなくては、父さんからも姉さんからも、嫌われてしまう気がした。
 「おまえはヒロトじゃない」、そう云われてしまったら、オレに行き場なんて無い。自分の名前さえ与えられずに、お日さま園に流れ着いたオレには父さん以外、大切な人なんていなかったのだから。
 その時の気持ちはずっとずっと、オレの奥深くに根付いている。もうオレは「ヒロト」でいる必要は無くて、オレ自身に戻っても良いんだって解っていても、自分でも知らないところであの切ないくらいの逼迫した感情は残っていたみたいだ。だから、こんな夢を見ているのかも知れない。

「迷惑じゃないわ、皆、ヒロトのこと、心配してるのよ。ヒロトのことが好きだから」

 柔らかく微笑む姉さんの顔が涙でぼやけて見えて、オレは自分が涙を流していることを知った。労わるようにオレのこめかみを伝う涙を拭う指先。姉さんの言葉がじんわりと胸に染み込んで、膨れ上がった感情が堰を切って溢れ出す水みたいにオレの心を満たしていく。
 これは、夢だから。オレの忘れてしまった記憶の一部を再現したものなのかも知れないし、姉さんの姿を声を借りて、オレが作り出した幻なのかも知れない。だけど。こんな風にあったかい気持ちを姉さんがくれたことだけは、覚えてる。姉さんの笑顔がこんなに綺麗で、その手がこんなに優しいことも。

「姉さん、ヒロト、起きたか?」
「今目が覚めたところよ」

 姉さんの手のひらに身を委ねて甘えていると、ふいに障子に隙間が開いた。
 玲名だ。まだ小さくて、今みたいに眉間に皺を寄せていない頃の玲名。姉さんが振り返って、障子の隙間から恐る恐る中を窺う玲名に笑いかける。

「……傍に、行ってもいいか?」
「ええ。でも、あんまり大きな声出さないでね、熱が上がるかも知れないから」
「ああ!」

 姉さんの返答に玲名はパッと表情を明るくして、障子を静かに引くと中へ入ってきた。そして、姉さんの隣に腰を下ろす。姉さんは入れ替わりにおかゆと薬を持ってくると云って、部屋を出て行った。ゆっくりと障子が閉まって、一瞬、しんと部屋が静まり返る。

「ヒロト、大丈夫か?」

 沈黙を破ったのは玲名だった。玲名はオレの顔を覗き込んで、その綺麗な青色を揺らした。その表情に心配をかけてしまったんだな、と思った。迷惑をかけたんじゃなくて、心配をかけてしまったんだと、素直に思えた。姉さんも、玲名も。自分を、案じてくれているんだと。
 玲名には小さい頃から疎まれてばかりだった。最初は男なのに玲名よりも大人しい性格から、しばらくしてからはオレに向けられる、皆とは違う父さんの視線が気に食わなかったのだろう。オレもずっと玲名には嫌われているとばかり思っていた。玲名だけじゃない、お日さま園の皆に。皆、父さんが大好きだったから。
 だけど、幼い頃は疑ってしまった感情を、今なら素直に受け取れる気がした。

「うん、……ごめん、ね、玲名」
「謝らないでいい。それより、今度からは気をつけろ。……心配したんだぞ」
「……うん」

 擦れた声のたどたどしい謝罪を玲名はふっと笑い飛ばして、それから少し照れ臭そうに顔を背けて、ぶっきらぼうな声でぼそりと云う。その言葉が嬉しくて、小さく頷いたオレに玲名は満足げに笑った。綺麗な笑顔だった。
 玲名がこんな風に笑えることを思い出した。久しく玲名のしかめっ面以外の、笑った顔を見ていない。日本へ帰ったら、見れるだろうか。優勝を持って帰ったら。玲名の笑顔も、姉さんの笑顔も、……父さんの笑顔も。
 見れたら良いな、そんなことを思いながら、目を閉じる。障子の向こうから、姉さんと父さんと皆の声が聞こえる。

「お父さん。こんなにアイスばかり買ってきてもヒロトは食べられないわよ」
「解らなかったのですよ、ヒロトが好きなのはバニラなのかチョコなのかイチゴなのか……」
「だからって普通全部買ってくるかしら?」

 姉さんの少し怒ったような声。父さんの困ったような声。

「父さん、ヒロトにだけずりいぞ!」
「わたしもアイス食べたかった」
「こんなんならオレたちも風邪引けば良かった、なあ、風介」
「今からでも水浴びに行くか」
「こらこら。どうせ一人じゃこんなに食べられないわ、後で皆で食べましょう」
「よっしゃあ!」

 南雲と涼野がはしゃいで、姉さんがそれを優しく宥める声。

「瞳子姉さん、お鍋! お鍋、吹きこぼれてるよっ」
「火、火止めてリュウジ!」
「うわっ、熱、あつっ……!」
「……ふーっ、ギリギリセーフね」
「いや、アウトだと思う」

 緑川の悲鳴が響き、姉さんの一言に砂木沼の冷静な突っ込みが入って。

「姉さんって料理下手だよなー」
「まあおかゆがあの惨状だ、押して知るべしだな」
「後ろでぐだぐだうるさいわよ! もう、二人が風邪引いてもおかゆ作ってあげないからね!」
「良いよ。俺、風邪引いても姉さんのおかゆだけは遠慮するわ」
「私もだ。アイスだけでいい」
「ああ云ったらこう云う……!」
「まあまあ。子どもの云うことですから。瞳子も落ち着いて」

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ南雲と涼野に姉さんがイライラを募らせていくのが声だけで解った。同時に、布団の傍で黙りこくっていた玲名の機嫌が悪くなっていくのも。握り締めた拳がわなわなと震えている。

「ああもううるさい! ヒロトの病気に障るだろう、静かに……っ」

 ついに堪忍袋の尾が切れた玲名が大振りな動作で立ち上がり、障子に手をかける。怒鳴りながら勢いよく引いた玲名は、全てを云い終える前にふいに口を噤んで、固まった。ぴしゃんと障子が派手な音を立てる。
 急に大人しくなった玲名に何が起きたのかと視線を障子の向こうへ投げて、納得した。玲名が静かになるのも当然だ。そこには、皆の大好きな、父さんが立っていたのだから。

「あの、すみません、あんまりあいつらがうるさかったから……」
「気にしていませんよ、玲名。ヒロトに、これを届けに来ただけですから。玲名には瞳子の手伝いを頼んでも良いですか?」

 上手い言い訳を探そうとしてまごつきながら、玲名は小さな声で話し始めた。その様子を父さんは微笑ましげに見守っている。そして、玲名に優しい言葉をかけると、障子の向こうを指差した。恐らく台所で吹きこぼしたおかゆの後始末をしているだろう姉さんを。

「はい! お父さん!」

 パッと笑顔を輝かせて、玲名が頷く。玲名がいなくなった部屋で、父さんは布団の脇へ近づくと、抱えていたお盆を枕元へ置いた。お盆の上には湯気を立てるおかゆとお茶の入ったグラスが並べられている。

「卵粥ですよ。食べられますか?」

 父さんがおかゆの入った器を手に微笑む。オレは重たい身体を何とか起こして、その器を受け取った。分厚い器は熱が伝わり難くて、熱いというよりじわりと温かい。
 まだ少し湯気の残るおかゆはれんげで掬うと、どろどろと煮詰まっていて、何だか別の食べ物のようだ。卵はかき混ぜるのが遅かったのか、大きな固まりが幾つもあって食べにくいし、塩を入れ過ぎたのか少ししょっぱい。でも舌に馴染む味は、とてもあったかかった。

「美味しい」
「……それは良かった。後で、瞳子にも云ってあげてください。喜びますから」

 一言、漏らした感想に父さんが嬉しそうに目を細めてオレを見つめた。そんな父さんの眼差しを受けながら、オレは器の中のおかゆを一口ずつゆっくりと咀嚼していく。元々少なめについであったのか、オレはすぐにおかゆを平らげてしまった。

「それだけ食欲があれば大丈夫ですね」

 オレから綺麗になった器を受け取って、お盆の上に置きながら、父さんは満足そうに云う。そして、オレを一度布団の中に戻してから、汗で湿った前髪を触れた。幾つもの歳月を重ねてきた手は皺が深く刻まれていて、少しざらついている。大きくてふくよかな手のひらはオレの頭を慈しむように撫でる。

「熱が高いと聞いたので、冷たいものが欲しいかと思って、アイスクリームを買ってきたんですよ。ヒロトは何味が好きですか?」
「んー……バニラ、かな」

 小首を傾げて問うてくる父さんにオレは数秒逡巡して、答えた。本当はバニラもチョコもイチゴも食べたかったけれど、そんなわがままを云うには、まだ少し勇気が足りなかった。もしかしたら、姉さんになら云えたかも知れない。玲名や、仲間たちにも。きっとこの時の自分は、誰にだって云えなかっただろうけれど。

「そうですか。じゃあ、バニラアイスを貰ってきますね。その後、お薬にしましょう」
「お薬……」
「大丈夫ですよ、そんなに苦くないですから」

 思わず薬という単語に反応してしまったオレに父さんはくすくすと苦笑いを零しながら、宥めるようにオレの髪をもう一度撫でてくれた。
 あたたかい手だった。
 優しい笑顔だった。
 堪え切れずに泣きそうになって、ぎゅっと目を瞑る。それを父さんは、オレが眠る合図だと思ったようだった。お盆を抱えて、部屋を出て行く。最後にオレに囁くような声で一言、残して。

「早く元気になるんですよ、ヒロト」

 柔らかい、声だった。
 ああ、こんなものを、オレは貰っていたんだ。ずっとずっと、忘れていた。こんな日々があったこと。辛いことばかりで、苦しいことばかりで。でも張り詰めたそんな日常にも、優しさが息づいていたこと。晴れた日の陽だまりみたいな、ぽかぽかとしたあったかい気持ちがちゃんと注がれていたことを。
 何時だって、辛かった。全ての言葉、視線がオレを通り抜けているようで。ああでもその中に、例え1%でも、一瞬だったとしても。オレを見ていてくれたなら。その人の中にその感情が無くなってしまったとしても。オレの中に、確かに残っているんだ。それだけできっと、それはとてつもなく幸福なこと。
 幸せな、こと。






 乳白色のまどろみの中で、声が聞こえた気がした。

「まったく……平気そうな顔して無理するなよな」

 その声は持ち主の性格が現れたような生真面目な響きで、でも文句を云いながらも何時だってその裏には優しさが込められている。些細なわがままを受け流して突っ込みながらも、本当の望みはちゃんと掬い上げてくれる。決して強くは無いのだろうけど、それでも頑張って気丈に立っていようとする人だ。だからきっと、こんなにもやさしい声に聞こえる。

「辛いなら我慢するなよ、心配するだろ」

 額に触れる手が冷たい。仕方が無いやつだとでも云いたげに溜息を交えながら、オレのこめかみの汗をタオルで拭ってくれる細い指先。その手付きが人を気遣うことの多い彼らしいもので、オレは何だか嬉しくなる。

「ちゃんと美味しい卵粥作ってやるから、ちゃんと寝てろよ」

 最後にオレの前髪を払うように触れて、一声。薄っすらと開いた目に映るのは、海の青のような色をした髪。赤茶色の瞳は僅かに眉を寄せて、心配そうにオレを覗き込み、そしてくるりと背を向ける。きっとリクエストの卵粥を作ってくれるんだろう。
 かけられる声が、言葉が、あんまりにも優しく響くから、オレはやっぱり涙が出そうになる。夢見たあの日のように、注がれる眼差しも、声も、陽だまりみたいにあたたかいから。場所も人も、違うけれど。それだけのことがどうしようもなく、幸福だと思える。

「かぜまる、くん……」

 呟いた声はきっと彼には聞こえない。擦れているし、風丸くんはきっとオレが起きているなんて思いもしなかっただろう。でも聞こえていたら良い。オレが伝えたいこと。今、隣で穏やかな寝息を立てている吹雪くんにも、オレに大切なことを気付かせてくれた円堂くんにも。今、オレの傍で笑ってくれる皆。今まで感じたやさしさに、これからも受けるだろうあたたかさに。
 ありがとう、って。








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