◇ ブルーバード  01






いつだって、幸せは、すぐ傍らにある。






 その日は珍しく朝から晩まで練習が休みの日で、チームメイトたちは皆こぞって観光やら買い物やらに出かけて、日本宿舎はほぼ空っぽと云っても良かった。
 普段は常に仕事に追われているマネージャーたちも昼食は各自自由に取るようにとの久遠監督の指示もあって、観光ついでの買出しに出ている。久遠監督は久遠監督で、大会本部に用事があると響木監督と古株さんを連れて出かけてしまい、円堂は豪炎寺や鬼道たちと一緒にイタリアエリアへ、一年は綱海に連れられて海へ、その他もメンバーもそれぞれ本選前の束の間の息抜きに遊びに出ていて。
 まあ要するに日本宿舎は本当に人がいなかった。そんな皆が出払った午前10時過ぎ。
 俺はさすがに朝食の時間もとうに過ぎたと云うのに起きてこない吹雪が心配になって、吹雪の部屋を訪れていた。扉を何度叩いても返事が無いので、一応断りを入れてから、ドアノブを回す。

「吹雪? 入るぞー…?」
「かぜまるくん……?」

 名前を呼べば、微かな声で返答があった。部屋に入ると、どうやらまだ吹雪は布団の中のようで、ベッドの上で丸まっているのが見える。
 近付いて確かめたら、吹雪は起きてはいるようだが、顔を赤くして荒い息を吐いていた。これは、もしかして。嫌な予感が俺の脳裏を過ぎる。そしてそれは見事的中しているようだった。

「吹雪? お前、どうしたんだ?」
「ん…、ちょっと、ね。身体、だるくて……」
「……熱いな。風邪でも引いたのか? この大事な時に」

 額に置いた手のひらが熱い。真っ赤に染まった頬と云い、熱っぽく擦れた声と云い、とろんとした焦点の合わない瞳と云い、風邪の症状にぴったりと当て嵌まる吹雪の様子に俺は大きな溜息を落とすしか無かった。
 何もこんな時に。そう思わずにはいられない。ただでさえ本戦前でブラジル戦まで一週間も無いと云うのに、体調を崩すなんて。しかも、今日はマネージャーも監督も、果てはチームメイトすらいないのだ。病院に連れて行った方が良いのか、それともこのまま寝かせておけば良いのか。俺一人で判断するのは何となく不安になる。

「今、監督もマネージャーもいないんだよな……。誰か残ってる奴がいれば良いけど……」
「……どうかしたの? 風丸くん」
「ヒロト!」

 うう、と顎に手を当て唸っていると、タイミング良く後ろから声がかかる。勢いよく振り向いた俺に廊下を歩いていたらしいヒロトは軽く目を瞠って、俺を見た。円堂たちと出かけたと思っていたけれど、ヒロトも宿舎に残っていたのか。何事かと駆け寄ってくるヒロトに俺はとりあえず現状を説明する。

「あのさ、吹雪が風邪引いて熱出したみたいなんだけど……。病院連れてくべきだと思うか?」
「吹雪くんが?」
「ああ。熱出してて。監督もマネージャーもいないし……」
「落ち着きなよ、風丸くん。とりあえず、熱計って、冷却シートとか氷枕とか準備した方が良いんじゃない? それと、監督に連絡」
「そ、そうだよな。じゃ、俺、監督に連絡入れて氷枕取ってくるから、ヒロトは救急箱取ってきてくれ。冷えピタあったはずだし」
「解った」

 テンパってあたふたとしてしまう俺に対し、ヒロトは冷静だった。ヒロトの提案に乗って、俺は監督へと連絡を入れる為に携帯を取り出しながら、その場を離れようと立ち上がる。ヒロトもまた救急箱を取りに部屋を出ようとした。ところで、背後から小さな声がして、振り返る。

「ごめん、ね、二人とも……」
「良いから、お前は寝てろ、な?」
「うん……」

 申し訳無さそうに眉を寄せて謝る吹雪の頭を大丈夫だからと優しく撫でてやる。吹雪は微かに首を縦に振ると、潤んだ目を細めて笑った。その顔に何となくさっきまで慌てていた心が落ち着いた気がする。そうだ、俺が慌ててもどうしようもないじゃないか。一番苦しいのは吹雪なんだ。
 吹雪の髪をもう一回撫でてから、俺は部屋を出た。そして、携帯で監督の番号を呼び出しながら、氷枕を取りに食堂へ向かう。






「監督は何て?」
「本部の用事があって今すぐは抜け出せないから、応急処置だけしといてくれって。午後には戻ってくるらしい」
「そっか」

 救急箱を抱えたヒロトと吹雪の部屋の前で合流する。監督との電話の内容を説明しながらドアを開けると、吹雪はやはり真っ赤な顔をして臥せっていた。
 ヒロトが救急箱から体温計を出して、吹雪の身体を起こし、脇の下に挟ませる。その隙に俺も氷枕にタオルを巻いて頭の下に敷いてやれば、吹雪の顰められた眉間が幾分和らいだように見えた。濡れタオルで額の汗を拭ってやると、タイミングよくヒロトが冷却シートのセロファンを剥がして、吹雪の額に貼る。

「38度2分か……結構高いな」

 しばらくして体温計が鳴ったので取り出してみると、画面には38.2と表示されている。常日頃から平熱が35度近い低体温だと公言している吹雪からしてみれば、これはかなり高い部類に入るだろう。
 意見を求めるようにヒロトに体温計を渡すと、ヒロトは画面を一瞥し、体温計をケースに仕舞った。そして、つらつらと冷静にこれからどうするか話していたのだが。

「うーん。朝ご飯食べてないみたいだし、何か食べさせてから薬飲ませた方が……くしゅんっ」
「ヒロト?」
「あ、ごめん。ちょっとくしゃみが」
「くしゃみ……?」

 途中で何とも可愛らしいくしゃみに遮られ、俺は思わずヒロトの顔を覗き込んだ。ヒロトのグリーンの瞳が戸惑うように丸く見開かれたが、俺はそれを無視して、じっと見つめる。
 普段の顔色が一般的な人よりも少し悪いヒロトだが、今日はいつもと何かが違う、ような。いつもがいつもなだけに気付かなかったけれど、ヒロトの頬は薄っすらと上気している、気がした。何だか嫌な予感がする。背筋をビリビリと駆け抜ける、とても、嫌な予感が。
 恐る恐る額に手を当てると案の定。確実に平熱以上はあるだろう体温がじんわりと俺の手のひらに伝わった。

「ヒロト、お前も風邪引いてるんじゃないか!」
「いや俺は吹雪くんほどじゃ……っくしゅん」
「くしゃみしてる時点で完璧風邪だろ……。吹雪に冷えピタ貼ってる場合じゃなかったな。お前も貼れ、ヒロト」
「えー、俺はいいよ……」
「駄目だ。ついでにほら、体温計。一応計っとけよ」

 今の今まで平然としてたからまったく気付かなかった。思わず声が大きくなる俺にヒロトは得意の笑顔で誤魔化そうとするものの、さすがにそんなもので誤魔化されてはやれない。
 救急箱から取り出した冷えピタを押し付け、体温計をもう一度ケースから出す。ヒロトは不満そうに唇を尖らせたが、さすがにもう文句は云わなかった。素直に体温計を脇に挟み、冷えピタのセロファンを剥がす。

「そうだ。ちょうどいい」
「へ? 何が?」

 ふと思いついた事柄が意外と名案のように感じて、ぽんと手のひらを叩くと、ヒロトが不思議そうに小首を傾げる。

「いや、風邪移されちゃ堪らないし、世話するのも楽だし、ヒロトもここで寝れば良いんじゃないかと思ってさ。吹雪は一人部屋だろ? ベッド余ってるから」
「あー、そういう意味か」

 基本的にイナズマジャパンの宿舎は二人部屋なのだが、後から復帰してきた吹雪はその二人部屋を一人で使っている。吹雪と入れ替わりに抜けたのが一年である栗松で、本来ならばそのままその場所に収まるはずだったのを、栗松と同室だったのが壁山だったので、さすがに先輩と同室では気が休まらないだろうと円堂が監督に申し出たからだ。そして、たまたま余っていた部屋を片付けて、吹雪はそこを使っている。
 更に部屋割りの関係上、俺はヒロトと同室だ。部屋中に風邪菌を蔓延させて貰うのも嫌だし、飲み物やら薬やらを運ぶにも二人一緒の方が便利だ。
 ヒロトは俺の説明に納得したように頷いて、しょうがないと吹雪の隣のベッドの掛け布団を捲った。

「氷枕と一緒に毛布余分に持ってきてやるから、先に布団で寝てろよ」
「はーい……」

 気の抜けた返事をして、ヒロトが布団に潜る。それを見届けてから、俺はもうひとつ氷枕を取りに食堂へと続く廊下を歩いた。






「で、何で風邪なんか引いたんだ?」
「うーん、何でだろうねー……」
「何か心当たりは? 二人同時に風邪引くなんて何かあったんじゃないのか?」

 氷枕にタオルを巻いて、ヒロトの頭の下に敷いてやりながら、原因を追究してみるが、ヒロトは小首を傾げるばかりだ。
 その顔はやっぱり赤い。さっき体温計で計ってみたが、38.5もあった。吹雪より高いくせに今まで平然としていたなんて、俺は目を丸くするほか無かった。精神力が強い所為かも知れないが、何もこんなところで発揮しないでも良いと思う。
 備品置き場と云えば聞こえは良いが、まあ要するに物置から取ってきた毛布を掛け布団の上からかけてやりながら、問いかけると、

「きっと…、昨日の練習の所為だと思う…」

 隣のベッドから擦れた弱弱しい声が聞こえて、俺はそちらへ視線を向けた。さっきまで眠っていた吹雪が目を覚ましたのか、ベッドの背に体重を預け、身体を起こしている。吹雪の言葉に俺の頭に疑問符が浮かぶ。昨日の練習ってそんなに普段と変わりは無かったはずだけど。

「練習?」
「うん。最近ね、ヒロトくんと一緒に連携技の練習してるの」
「ダメだよ吹雪くん、それ秘密だったのに」

 小さく口を開いて話し始める吹雪にヒロトが唇を尖らせて抗議する。吹雪は元から垂れ気味の眦を更に下げて、困ったように微笑んだ。

「ごめんね。でも風丸くんにはこうして迷惑かけちゃってるし」
「まあ良いけどさ。風丸くん、このことは皆には内緒だよ」
「分かってる」

 不満げに眉を寄せたヒロトは念を押すようにオレを見つめて、ベッドに肘をついて軽く身体を起こすと人差し指を唇に当てた。連携技が完成してから皆に披露して驚かせたいというヒロトの気持ちは解らないでも無かったから、俺は素直に頷いてみせる。すると、お許しが出たのか、ヒロトはなら良いけど、とすっとベッドに戻った。
 話の続きを、と吹雪を促すと、吹雪は再びゆっくりと口を開く。

「で、それがどうして風邪引くことになったんだ?」
「いつも晩御飯の後、二人で一緒に練習してるんだけどね、昨日はその技が完成間近で僕たちいつも以上に一生懸命になっちゃって」
「だってあそこまで行ったら誰だって完成させたいって思うよ」
「ほんと、もうちょっとだったもんね。……で、気付いたら10時回ってて、そろそろ切り上げないと消灯に間に合わないねって片付けしてたら、」

 話の内容は至って普通だった。皆に内緒で自主練してるやつなんてたくさんいるし、熱中して気付いたら消灯時間ってこともままあるだろう。ヒロトと吹雪が楽しそうに話すから、俺までその連携技が完成するところを見てみたいと思うくらいには、普通の話だった。というか、どうして風邪を引いたのかという本来聞きたい内容は何処へ行ったのか突っ込みたいくらいだった。
 問題はここからだ。

「流れ星、見つけてね」
「は? 流れ星?」
「うん、しかも昨日は一年に一度の流星群の日だったみたいで」
「オレも忘れてたよ。荷物になるから諦めたけど、やっぱり日本から望遠鏡持ってくれば良かったって後悔した」
「綺麗だったもんね、流星群。僕、流れ星10個も見つけちゃった」

 楽しそうに談笑する吹雪とヒロト。だがその前に俺に云うべきことがあるんじゃ……。吹雪、お前本当に俺に説明する気あるのか? まあ云いたいことは大体解ったからもう良いけどな。

「……で、汗かいたまま、何にも羽織らずにずっと星空眺めてて風邪引いたってことか」
「まあ、そうなるね」

 熱がある所為なのかどうか知らないが、いまいち要領を得なかった吹雪の話を要約すると、ヒロトはこくんと平然とした顔で頷いた。お前少しは反省しろよ。吹雪は俺の怒気が伝わったのか、まだ少し困った顔で、申し訳無さそうに眦を下げている。

「練習に熱中して、ならまだしも、星見るのに熱中して風邪引くって……。体調管理くらい自分でしろよ」
「油断してたんだよねー・・・、オレ、あんまり風邪引かないから」
「僕も夢中になってて忘れてた。ごめんね、風丸くん」

 はあ、と思わず口をついて出て行く溜息が止められない。緑川じゃないけど、油断大敵って云うだろ、ヒロト。それで熱出して倒れたんじゃ世話無いぞ。

「まあ引いてしまったものはしょうがないけどな。明日からはまた練習なんだ、二人とも大人しく寝てろよ。必殺技も、次の試合までに完成出来なくなるぞ」
「それは嫌だ」
「ならとっと寝る。後で薬と何か食い物持ってきてやるから。腹に何か入れないと薬も飲めないだろ」
「はーい……」

 もう半分くらい呆れ返っていて面倒臭くなっていたが、それでもついお説教だけはしてしまう。つい突っ込まずにはいられないのも、こうして何だかんだ云いつつ放っておけないのも、どうにも変えられない俺の性分なのだろう。
 俺の言葉にヒロトはしょうがないとでも云いたげに渋々と、吹雪は常から垂れ気味の眉を更に八の字に近くして大人しく、ベッドに潜り込む。捲れた布団を元に戻し、二人をベッドに寝かせていると、何だか子どもを相手にしているような気分になった。生憎俺には弟も妹もいないのだが、庇護欲とでも云えば良いのだろうか。

「何かリクエストとかあるか?」
「ビーフストロガノフ!」
「却下」

 風邪薬だけ取り出して、救急箱の蓋を閉めながら、食べたいものは無いかと訊ねたら、案の定な答えが返ってきて、すかさずぴしゃりと撥ね退ける。ヒロト、それは38度の熱がある病人が食べるものじゃないと思うんだが。大体、俺にそんなものが作れると思っているのか。無茶振りにも程がある。

「聞いておいてその言い草は無いんじゃないのかい、風丸くん?」
「お前こそ、無茶振りって解ってて云ってるだろ」
「えー、でも何でも良いって答えられるよりマシじゃない?」
「まあ、それはそうだけどさ。もっとまともな答え寄越せよ」

 唇を尖らせて抗議してくるヒロトに反論すれば、ヒロトは今度は軽く頬を膨らませてみせた。言い分は解らないでも無いが、そこは普段通り優等生的な発言をして欲しかった。と思ったら、

「吹雪は? 何かあるか?」
「えーっと、おかゆ、とか?」
「そうだな。やっぱり病人には消化の良いおかゆとかが丁度良いよな」

 普段はヒロトよりも天然というか、突拍子も無いことを云い出す吹雪がまともな答えをくれた。

「じゃあオレ、卵粥が良いな」
「はいはい。卵粥な。他には?」
「風丸くん、僕、咽喉かわいた……」
「飲み物持ってきてやるからちょっと待ってろ」

 便乗して注文してくるヒロトに軽く頷きながら、救急箱を抱え、立ち上がる。最後に何が欲しいものあるか?と聞いたら、吹雪が咽喉の渇きを訴えたので、後でスポーツドリンクを届けることを約束して、俺はとりあえず食堂で冷蔵庫を覗かなければ、と部屋を後にした。








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